03
完全にやる気を無くしてしまった黒田は、調査は明日することに決め、着替えもしないままベッドで寝ることにした。黒田のことをずっと見ていたボルクもさすがのだらしなさに注意をする。
「あの、そのまま寝に入られるのですか?」
「ああ、もう寝る。明日から調査することに決めたからな」
「お風呂に入ったり、着替えたりはしないのですか?窓は開けたままだと、風邪をひきますよ」
「お気遣いどうも。(つか、換気しろっつたのお前だろう……)俺は寒いとか感じねえんでな、風邪なんざひかねえよ」
「それはおかしいです。人間とは病気にかかるもの、もっと自分を大事になさって下さい」
寝に入ろうにも母親のように注意してくるボルクに苛立った黒田は、寝っ転がったまま反転してボルクに向かいジト目でとげのある口調で話した。
「いいか?病気っていうのは”気の病”って書いて、病気なんだ。」
黒田は、自分の頭に向けて指をさし、トントンとジェスチャーをした。
「つまりここだ、こいつが風邪をひいた~って勘違いをすると、人は風邪をひくんだよ。身体の管理も最終的にはここに統一されるんだ」
ボルグはその答えに対し、TV番組の解説者のように反論した。
「それは違いますよ。人間の身体には”免疫力”というものがあります。免疫力が低下すると人間は病気を引き起こすのです。」
「あなたも人間なら、よく理解しているはずです」
「……人間ね。」
もう言い返す気がなくなったのか、黒田は身体の向きをボルグから天井の方へと向けた。そしてまだ外しもしない、黒くて厚い革の手袋が嵌められた自分の手を眺めて、小さな声でぼやいた。
「俺の中にもまだ”人間”が生きてんのかねえ……」
「何か言いました?」
「何も言ってねえ。もう俺は寝るから、話しかけてくんなよ。いいな」
「あの、私はどうしたらいいでしょうか」
黒田は一瞬だけボルグを見た。そして彼から背を背けるように身体を動かすと、よせものを振り払うように手を振った。
「好きにしてろ」
そう適当に言い放った黒田は、数分もしないうちに眠りの中に落ちていった。
身体中を包むような気持ち良さ、どこか懐かしさを思い出すような感覚に黒田は感じていた。
眠りで動かなかった頭の中がだんだん覚醒していくのわかる。黒田は目を覚まし、ゆっくりと瞼を開けた。
「――ごぼおっ!?」
そこは水で覆われた白い一室であった。
黒田は起きようとしたが、身体が動かない。いや、違う。身体は椅子に固定されてしまい自由を奪われていた。椅子は歯医者とかで使われているような治療専用のものに黒田は座らされ、身体中にベルトと固定器具に縛られて動くことを許さない。自分の口には呼吸器ようの器具が取り付けられており、そこから酸素を送り込まれているのがわかる。
そして……一番不快に感じたこの、感覚。
水に触れていた安心するような懐かしい感覚とはまた違う。この不快な感覚は、自分の頭にのしかかる重さだった。
何とか少しだけ動かせる顔を天井に向けると、よく分からない機械が天井に付いており、そこから数本のコードが伸びて自分の頭にへと続いているのが目に映った。
その光景が意味することを黒田は、理解してしまった。
突如呼吸が乱れて、口元にかぶさってる呼吸器から酸素が漏れ出す。身体が早くここから逃げ出さなければならないと暴れる。この重さが天井にある機械から続いているコードが、まさか自分の頭へ繋がれているとは想像できようか。理解しようなんて、するべきでなかっただろう。だが黒田はどんなにそれが無駄なことであっても、暴れた。どうして、こんな状況に自分が立たされているのか、考えようにも分からない。ふと、黒田は気づいてしまった。
”何も、思い出せない”。
自分の中にある古い記憶が存在しない。自分がどういう人間で、何者で、どういう家庭で、どう歩いてきたか……。空白で満ちた記憶では、探す意味さえ持たない。
ここに居るのは孤独。ただ、それだけ。
自由を求めて暴れていた身体も意味を無くし、次第に無気力になっていき動かなくなっていく。閉じ込められたこの部屋で自分に何が出来ようか、ここから出て外に行っても何か変わるのだろう?意味など、自分には存在しない。
全てを諦めた黒田は、舞台の幕を降ろすようにゆっくりと開けた瞼を閉じることにした。
ーそんなこと言うな、ゼロ。まだお前は、終わっていないー。
「ヴッ!」
突然のお腹の圧迫感によりに黒田は目を覚ました。何が起きたのかぼやけた視界を凝らしてよく見てみると、自分の間をまたいて窓を閉めようとするボルグがそこにいた。どうやらお腹の圧迫感の原因は、またこうとした時にバランスを崩して自分を踏んずけてしまったことらしい。それを物語るようにボルグの顔は申し訳なさそうな表情をしていた。
窓の外は薄暗く、ザーザーと雨音が聞こえてくる。どうやら今日の天気は雨らしい。
「す、すみません。雨が降ってきたので、窓を締めようとおもって……」
「ああ、気にすんな。それよりお前、掃除したのか?」
自分の部屋を見ると散らかっていた洋服やゴミ、その他もろもろあった物達は綺麗に整理整頓されて片付けられていた。
「ええ、好きにしろとおっしゃっていたので少しばかり掃除させていただきました」
「……そうか」
「そうでした、着替えなんですけど洗っていない洋服が溜まっているので、コインランドリーに行って洗濯を……」
「名前」
黒田はそうぽつりと、言った。そしてベットから起き上がりボルグの肩部分に手を置いて、ボルグの目線に合わせて話した。
「お前の名前は”ボルク”だ。お前という存在がここに居ると証明するものだ。」
「私の名前は”ボルク”……」
覚えるようにボルグは自分の名前を反復した。
「そうだ、お前はボルクだ。忘れないようにメモリーに刻み込んどくんだ、いいな?」
「……はい!」
真顔だったボルクの表情が嬉しそうに笑って見えた。それがAIによるプログラムによって造られたものかは、黒田にはわからない。記憶がない者同士だから同情をしたのだろうか、全く自分らしくもないことをやったもんだと、自分を馬鹿にするように鼻で笑った。
だが、どこか安心している自分がいることに嫌な感じはしなかった。
外から聞こえてくる雨音が、憂鬱だった気持ちを洗い流してくれる。水に触れていたあの懐かしい感覚を思い出しながら――。