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8話 藍沢菊

  浴場はそれなりに年季が入っているようで、椅子や桶は時代を感じさせるものが並んでいた。樹脂製の黄色い桶をひっくり返し、ボタンを押し込んで水を出す。夏場にしては熱めの湯が蛇口から零れて、湯気がふわふわと立ち上っていく。あまり人が来ないからか、シャンプーは少し高級感のあるものが用意されていた。桜は体を洗い終えると、まずは浴場内の大風呂に浸かった。


  熱めの湯が、桜の心労をさっと洗い流していく。怒りや悲しみ―そういったマイナスの感情は、お湯という溶媒に可溶であるらしい。


  静かに流れる、打たせ湯の音。その他には、何も無い。代わりとばかりに、桜は大きく、声を出しながら息を吐き出した。


  貸し切りというのは、いいものである。広い温泉を、独り占め。長い脚をぐっとのばし、腕も大きく振り上げる。桜は、久々の解放感に、法悦を抱いた。


 「最っ…高」


  浴場の大きなガラス窓から望む、日本アルプスの大パノラマ。天気がよいことも幸いして、一層日本内陸の豊かな大自然を感じられた。


 「…」


  他人の監視がないという状況は、時として人を童心へ帰らせる。桜は年甲斐もなく、顔を湯船に入れ、ぶくぶくと空気を吐いてみるなりした。顔を上げて唇を舐めれば、口の中を満たすのは鉱泉独特の塩味。


 「ふふ…。少し、しょっぱい」


  昔はよく、彼女はこうして風呂に入るなり、弟と共に遊んでいた。長風呂をしては両親に怒られていた記憶、弟が足を滑らせてあわや大惨事になりかけた記憶。全てが泡沫の幻のように、浮かんでは消えていく。


 「菊…」


  彼女の弟―菊が原因不明の病を発症したのは、彼女が小学生の頃である。初めは、ただ体に疣が出来たのかと思っていた。皮膚科医もそう診断していたし、内科医も異常を察知することはできなかった。数ヶ月と経たぬうちに、疣は巨大になっていき、菊の全身に転移した。それだけではない。菊の骨や内臓も、疣に変化していったのである。数年後には、菊は樹木のようになってしまった。生きているのか、死んでいるのかすら分からない。ただ言えることは、疣化した臓器の中でも心臓だけはまだ動いており、彼は現在も、意識があるということである。脳すら疣に冒され、CTの結果とうに失われていると推測される機能を、彼はまだ有していた。彼は言葉を解し会話を行い、見えないはずの目で物事を知覚しているのだ。


  現代医学的にはとうの昔に脳死判定、しかし彼はまだ『生きて』いる。肺胞が全て別のものに置き換えられた肺で呼吸をし、固まったはずの声帯で音を発する。今の彼を死亡したと見なすには、彼はあまりにも人としての生命活動を上手く行いすぎていた。


  桜の奔走の甲斐もあり、世界中の高名な学者が彼を調査した。しかし、未だ彼の体の秘密を解き明かした者は誰一人としていない。


  西洋医学の叡智を結集してもなお、糸口を掴ませぬ難病。あまりにも非科学的な、弟の状態。現在、桜は弟を襲った一連の症状が、『呪い』によるものではないかと疑っていた。


  呪いというものが現代科学のコンテクスト上にないことは、桜も重々理解している。しかし、彼女は最愛の弟が置かれている状況が、理外の力でしか起こりえないものであると―科学的知見から、そう判断した。


  医学を見限った彼女は、持てる力全てを懸けて、徹底的に原因を究明することを誓った。国際フォーラムで数え切れないほどのコネを作った。日本民俗学に精通する人物に取り入って、日本各地の伝承や呪いの類を調べた。


  それでもまだ、まだ足りない。医療費は切迫し、両親は離婚した。その歴史は古く、桔梗の家紋が代々受け継がれているような家柄でありながら、現在の藍沢家には菊一人のために何度も手術を行えるような体力は、残っていなかった。桜たちの母は、菊の面倒を見切れなくなってしまった。父親も、仕事を理由に、菊のことは桜に任せ切りにしてしまっている。


  菊には、自分しかいない。桜は、そう自身に言い聞かせた。


 「熱っ…」


  のぼせてしまいそうになり、桜はお湯から上がった。彼女は冷たいシャワーを浴びると、浴場を後にしようとした。


 「あ…」


  ふと、窓の外を見た。


 「案外、山がマウンテン、か」


  彼女は外に出ると、露天風呂に浸かることにした。


  夏場とはいえ、山梨の、それもある程度標高の高い場所の気温は、日が落ちるにつれて急激に下がる。それ故に、露天風呂は程よく温く、今の桜には丁度良かった。


 「あ…」


  体に髪の毛が付いているような心地がして、桜は自分の腕を見た。案の定、桜の色の白い腕には、長い毛が絡みついていた。


 「これ…」


  金色の、長い毛。古民家の縁側で見たものと、恐らくは同じもの。


 「まさか、ね」


  狐狸の類に化かされた。桜は再びそう思ってしまった。




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