7話 奇妙な再会
最低、最低、最低!
怒りに煮えくり返る激情を制しながら、桜は歯を食いしばり浴場を目指していた。まさか、本当にスマートフォンを弄られているとは考えもしなかった。桜は前々から木村と由香里が自分を好いていないことは知っていたが、二人がこのような大胆な嫌がらせに出るとは思わなかったのだ。二人には失望したし、それ以上に隙を見せてしまった自分にも腹が立つ。それ以上に、自身の一番の弱みを見られたことが、何よりも悔しかった。
―キモイ木。部屋を出る際に、木村がそう零していたのが耳に入った。悔しくて、やるせなくて、ぽろぽろと涙が流れてくる。
桜は浴場へ続く人気のない廊下の長椅子に腰を下ろすと、スマートフォンの画面に触れた。バックライトが点灯し、ロック画面が表示される。
映し出されたのは、木の塊。
「ごめんね、菊。ごめんね。お姉ちゃん、頑張るからね」
それは、果たして樹木などではなく。原因不明の病に冒され、全身が樹木化した彼女の弟であった。
一頻り泣いて、心を落ち着かせた桜が浴場に着くと、そこには既に先客がいた。
「あ、桜さん」
少女―海咲はラタンのスツールに腰掛けて、備え付けの団扇で自らを扇いでいた。当然化粧は落としており、彼女は生来の笑顔で桜に声をかける。歌舞伎町風メイクを落とせば、海咲は桜に負けず劣らずの美少女であった。彼女は既にお湯から上がった後のようで、少女の細い体はほんのりと紅潮していた。
「ふふん、先回りの術でござい。ま、私には湯通し岩融…なんだっけ、ああ。お見通しでしたよ、桜さんたちが、この宿に泊まること」
この村には宿泊施設が一つしかないのだが、海咲はその事実を敢えて桜に伝えなかった。
「ええ、とても、奇遇…」
そんな事情は露知らず、桜は驚いて目を丸くさせた。先程のこともあり、桜は自身がてっきり狐狸の類に化かされたとばかり思っていた。あまりにも非科学的であるが、一本道から忽然と姿を消すには、そうでもしないと理由の付けようがない。
「ところで、さっき降りてった道、一本道だったよね?どうやって姿を眩ませたの?」
桜の問いかけに、海咲は小首を傾げた。彼女は思いついたように笑うと、朗らかに答えた。
「そんなの、決まってます。あそこから箒でひとっ飛びしました。私、魔女見習いなので。あ、嘘です。元魔女見習いでした」
得意気に答えた海咲に対して、今度は桜が首を傾げる番になった。彼女の悪戯に巻き込まれていることを察して、桜はそれ以上海咲を問い詰めることを諦めた。
「…連れがすみませんね。みさの人、あまり見ず知らずのお姉さんをからかわないように」
たった今温泉から上がってきたのか、フェイスタオルで体を隠した黒髪の少女が一人、浴場への出入口に立っていた。彼女は海咲より少し幼い外見だが、その眼差しは海咲より遥かに大人びているようであった。落ち着いた深紅の視線で、彼女は桜に憐れみの目を向けている。
「なんで歳上クール系みたいに振舞っているの?体の代わりに物腰で熱交換したの?それとも」
「うるさいなぁ!誰もクールになんて振舞ってないやい!あとどうせバスクールに繋げるつもりだったんでしょ?そうでしょ!」
「残念、サブクール沸騰でした。足りないねぇ~、温度も経験も」
「やかましいわ!」
少女は年相応に喚き散らすと、さっさと着替えに行ってしまった。常日頃から、彼女は花崎式会話術に振り回されているらしい。往年の漫才コンビのようなやり取りの後、彼女は辟易したような顔を浮かべていた。桜はその姿を横目に見ながら、自身もロッカーに浴衣を入れる。
「彼女がお友達?」
桜の問いに、海咲は首肯した。
「そ。世界的大スターです。なんと彼女の前世はフレディ・マーキュリー」
「ちゃんみさ、適当なこと言わない」
「ママ~」
「外ではママ呼び禁止」
「家ではいいんだ」
「よくない。怒るぞ」
こんこん、と怒りながら。桜の向かいのロッカーから、黒髪の少女が言い放つ。海咲は悪戯に笑って、大きく伸びをした。
「桜さん、露天の方は景色がいいですよ。青天の霹靂ってやつです」
「いや、それだと景色は悪いんじゃないかしら…雨が降ってしまっているし」
「そうですか?雨降って地カチカチとも言いますし、案外山がマウンテンかもしれませんよ」
「みさの人さあ…本当にみっともないからやめなって」
「ぴえん、怒られが発生してしまった。許してクレメンス、私の可愛い顔に免じて」
「殴るぞ、顔を」
黒髪の少女の呆れた声を他所に、桜は海咲の子気味良いナンセンスの応酬に苦笑すると、浴場へ向かうことにした。
「じゃあ、ごゆっくり」
「はいはい」
ぱたぱたと海咲に手を振られ、桜は手を振り返した。数分前は怒りに煮えたぎっていた彼女の思考は、海咲の低俗な言語センスによって、今は静かに凪いでいた。
「海咲ちゃん」
「はい、呼ばれました」
「ありがとね」
「…?ぶいです」
桜は海咲の方へ向き直ると、お礼を言った。海咲の紡ぐ言葉の羅列は、桜からすれば支離滅裂で奇々怪々。しかし、彼女の声色には、聞く人を落ち着かせる力があった。当の本人はそのことに気がついているのかいないのか、海咲は再びブイサインと共に悪戯な笑顔を浮かべていた。