6話 トップ・シークレット
由香里は、困惑していた。
彼女の目の前にあるのは、金色の糸で織られた着物。金で造られた製品の例に漏れず、どことなく品がなく―粗暴さすら覗かせるもの。
「綺麗…」
木村は、その着物に魅せられたようにうっとりと視線を泳がせている。男子学生は、いまいち木村の感性が理解できていないのか、曖昧な表情を浮かべていた。
由香里は、そのどちらでもない。
彼女を襲ったのは、意識が混濁するほど猛烈な、既視感。
知っている。私は、この着物を知っている。いつの記憶、どこの記憶。いや、これは『確実に存在しないはず』の記憶。しかし、頭の中でどう否定する言葉を取り繕っても、私はこの着物を知っている。
貧血を起こしたように、由香里がくらりと立ちくらむ。慌てて、齋藤が由香里を助けた。
「由香里!?」
「有村さん!」
慌てて高橋が吉村を呼びに行く。その間、木村はまだ立ち尽くしたままであった。由香里は吉村らの手によって、すぐさまその場所から移動させられた。その間も、ずっと。手を貸すことも、倒れた親友に目をやることも無く。木村は、ただひたすら着物に魅せられていた。
「…軽い熱中症かな。有村さん、大丈夫かい?」
比較的涼しい土間で、由香里は横にされていた。
意識はあるが、頭が割れるように痛い。
すっと、横からスポーツドリンクが差し出された。
「自販機で買ってきました」
由香里が倒れるや否や、桜と高橋はすぐに駆け出して、近くにあった自販機で水やスポーツドリンクを数本購入して戻ってきた。桜はそれを全て齋藤に渡すと、高橋と共に旅館に電話し、医者に取り次いでもらうよう頼んでいた。
由香里は、齋藤の手からスポーツドリンクを受け取ると、口に含んだ。
「由香里?」
「うん、ありがとう、幸樹。もう、大丈夫だから」
由香里が体を起こそうとすると、齋藤はそれを制した。
「だめだよ。まだ横になってるといい」
自分を心配してくれる齋藤の姿が思いのほか『良かった』ため、由香里は彼の指示に従うことにした。
「悪い血を抜けば、すぐに良くなるよ。神仙様に捧げるんだ」
そう口を挟んだのは、資料館の老婦人。彼女は日常的に瀉血をしているのか、前腕に深い傷があった。さすがに疑似科学で学生の血を抜かれては堪らないと、吉村は愛想笑いで対応した。
「瀉血は、ちょっと。お心遣いありがとうございます」
「あら、そうかい。村の人はみんなやってるんだけどねぇ」
「あはは、そうですか」
そこで、電話を終えた桜が、高橋と共に戻ってきた。
「お医者さん、すぐに来るそうです」
「よかった。藍沢さん、高橋くん、ありがとう」
「いえ、私は何も。高橋さんが迅速な指示を出してくださったお陰です」
「いやいや、それほどでもあるかな!」
「高橋さんエグいて笑」
桜に褒められ、高橋は満更でもなさそうであった。程なくして医者が到着し、由香里は軽い熱中症と診断され、車で旅館に運ばれた。丁度チェックインの時間を過ぎていたこともあり、由香里たちはそのまま部屋に通された。
シーズン外ということもあり、旅館は由香里たちを含めて二組というほぼ貸し切り状態であった。部屋は三部屋、吉村の部屋と大部屋の男子部屋と女子部屋に別れていた。
「食事は六時だって。由香里、大丈夫そう?」
「うん、ありがとう、瑞希」
先程までの不調が嘘のように、由香里の容態は回復していた。木村に関して言えば、由香里が倒れたことなど露知らず、気がついた時にはバンの中にいたという有様である。彼女たちはダッフルバッグを開けると、日中酷使したスマートフォンを労るため、充電器を取り出した。
「…私は早速温泉に行ってみますが。お二人は残られますか?」
桜はさっさと浴衣に着替えると、洗面用具を持ってそう言った。二人を誘いたかった訳ではなく、単に戸締りの兼ね合いがあったからである。由香里たちもそれは分かっているのか、適当に肯定の言葉を返した。
「はあ、そうですか。では、失礼します」
二人は食事まで出歩かないとのことなので、桜は足早に温泉に向かった。ドアの閉じる音と同時に、木村がおどけてみせる。
「では、失礼します」
侮蔑を滲ませる態度で木村がそう真似をすると、由香里は失笑した。
失礼します。およそ同学年には使わない言い回しである。由香里は桜が自分たちに対して設けている壁の高さを理解すると共に、憤りを通り越して憐憫を抱いた。
無様で孤独で、哀れな女である。自身の能力の高さをいい事に、傲岸不遜で我儘に振る舞う。あの藍沢何某という女は、どうにも他人を見下しているような―否、眼中にもいれていない節がある。そのような生き方ではこの世を渡れないという簡単なことが、どうやらあの高慢で無知蒙昧な女には分からないらしい。
「マジで、ないわ」
「それな!」
「自分が偉いとでも思ってんのかな」
「それなー」
学歴の割には語彙が少ないようで、木村は二度同じ相槌を打った。
ふと由香里が桜の荷物の方に目をやると、彼女のスマートフォンがダッフルバッグから零れているのが目に留まった。
「あいつのスマホじゃん」
「待ち受け見てやろ。意外とオタク趣味だったりして」
桜がオタク趣味なら、それはそれで面白い。彼女のことである、万人受けしないような少し奇抜なタイトルを、さも私は分かっていますというような顔をして見ているに違いない。それとも、意外にも低俗な美少女アニメ作品を愛好しているかもしれない。考えれば考えるほど、由香里は興味が湧いた。
木村に促され、由香里は桜のスマートフォンを開いた。バックライトが点灯し、ロック画面が表示される。そこに映し出されていたのは、アニメでもマンガでもなかった。それは、高度なコンピューターグラフィックス―ないしは実写の、奇怪な形をした植物の画像だった。
「は…?」
予想外のものに、由香里たちは面食らってしまった。
それは、病室と思しき場所に設置されたベッドから、点滴の管が所々に刺さった大きな木が伸びているものだった。アート作品にしては写真の撮影が粗雑で、それがプロによる撮影ではないことが窺える。
「木…?」
由香里はまじまじと写真を眺めた。
シーツに包まれた樹木と思しき何かは、横たわるようにしてベッドの上に鎮座していた。それはまるで人間のように甲斐甲斐しく世話されているようで、点滴はおろか心電図まで測られているようだ。病室のテーブルの上に飾られた花は定期的に交換されていることが窺え、瑞々しいものばかりが生けられていた。テーブルには写真立てが置かれているが、スマートフォンの画面サイズや反射光によって詳細は推し量りようもなかった。
ピンチアウトすることで画像を拡大したいところであったが、画面を動かした時点で暗証番号の入力を求められたため断念した。
「ヤバそうなバンドのジャケ写じゃね?」
「あー、ありそう」
木村にそう言われ、由香里は納得した。確かに、桜は音楽を聞いていることが多く、高橋らに何を聞いているのか問われても、誤魔化すことが多かった。桜が仮にメタルやダブステップを愛好していたとして、自身のイメージ保護のためそれを伏せている可能性はゼロではない。
木村は桜のスマートフォンの電源を落とし、鞄に戻そうとした。
その時だった。考えうる限り最も悪いタイミングで、桜が部屋に戻ってくる。
「お二人とも、何しているのですか…っ!」
彼女は激昂し、木村の手から自身のスマートフォンをもぎ取った。
普段の―基本的に何事にも無関心な桜からは想像もできない剣幕に、二人は圧されてしまった。
「勝手に触らないでください!全く、油断も隙もないっ…お二人を信じずにすぐ戻ってきて正解でした。次は、ありませんから」
桜はスマートフォンをポーチに入れると、そのまま立ち去ってしまう。どうやら、彼女はスマートフォンを取りに来たようだ。由香里たちは間が悪かったようで、最悪の状態で桜と鉢合わせてしまった。
「何キレてんの?あいつ。キモイ木見られんのがそんなに嫌だったの…って、痛…っ」
木村は、スマートフォンを持っていた方の手に違和感を覚えた。手の甲には、スマートフォンを奪われる際に付いたのであろう、引っ掻き傷が出来ていた。