42話 花崎の『異能』
そしてその光景を眺めていた桜たちも、戦慄した。凡そ想像したこともないような、異形。それは、蛆の塔。腐臭を放ち、呪詛の雨を降らせる災厄。人の創る理から疎まれる、真性の魔。
強酸性の血涙を振りまきながら、視線が廻る。魔物は何かを探すように、瞳を走査していく。形や大きさは文字通りの千差万別。血の涙を湛える呪眼の数は、百を超えていた。
天井が吹き飛ばされていたことが、不幸だった。遠く聳える肉の塔と、桜は目が合ってしまったのだ。
「藍沢」
目の次は、口だった。肉塊の上に、所狭し。腐肉だけの部分を埋め尽くすようにして次々と顕れたそれらは、獰猛な喜悦に歪められた。
「そこにいたの」
空を覆う数の、呪詛が飛んでくる。その一つ一つが孕んでいるのは、致死量の悪意。そして、今の桜には、それを避ける術はない。藍沢桜は、再び死を覚悟した。
しかし、予想外にも、彼女が細切れにされることはなかった。赤く揺れる障壁が、シシオリの視線を全て跳ね除けたのだ。
「ごめん、ここ千年くらい本調子じゃなくて、これ一回しか使えないから。合図したら走るよ」
傍らで葉書ほどの大きさの紙を複数枚掲げていた妖狐が、そう言って舌を出した。彼女は海咲程ではないにしろお調子者のようで、飄々とした態度で言葉を重ねる。
「はい、効果切れるよ。五、四、三…」
「えっ、えっ、合図は」
神経質な桜は、一の後に動くのか零と同時に動くのか、気になってしまった。この緊迫した状況下で、その間違いは致命的な事故に繋がりかねない。
そんな桜の心配を他所に、いなりはカウントを進めた。一、と言うや否や、いなりは札を空中に撒き捨てると、桜の手を引いて家屋の奥へと駆け出した。そして、裏口から外に出ると、迷いなく振り返る。
「いなりさん、ここだとシシオリに丸見え…っ」
「大丈夫大丈夫」
「でも…!」
桜がそう言って神社の方角に振り返ると、シシオリは全ての瞳を一点に向けて、怒号を上げていた。
蒼白いものが、肉の塔の前に浮かんでいた。あまりにも神々しく、荘厳で―桜は、それを神の使いと誤認した。
巨大な翼を旭光のように広げたその姿は、どこか慈愛に満ちていた。しかしそれは、主の愛を伝える―神の使いなどではない。死をもたらす、破壊の神そのものだ。彼女は由香里にとって、死神に他ならない。
呪詛は、確実に当たっていた。臓腑は捻じ切れ、骨は折れ、筋肉は全て千切れ飛んでいる。その筈だった。
超回復に対して、呪詛の発現が間に合わない。骨格をコンマ数度だけ歪ませられた段階には、海咲の体は元の形を取り戻してしまう。
血涙を振り撒きながら、シシオリは絶叫した。それは、彼女にとって数百年ぶりに体感する、被食者としての本能的な恐怖だった。
無言のまま、海咲は銃を象った右手を掲げた。左手を添えたそれは、先程の銃撃よりも、苛烈な攻撃を示唆している。
精密機械を強引にショートさせたような、破裂を伴う断続音。それは、恒星の放つ熱量を内包した霊子が、超高圧下に晒されたときに発するものである。
真っ当な神霊、異能力者―あるいは、『妖魔』の類であれば、この音を聞いた時点で威勢よく踵を返すことだろう。しかし、由香里は動かない。
「天裂き星を穿て―」
尤も、異能に目覚めたあと、訓練などしてこなかった彼女には、臨界エーテルの破壊力など、予期することなど出来ないのである。
「―『裂衝』」
この地域に満ちる全ての霊力を食い尽くして、海咲は炎熱の矢を解放した。長大な詠唱は必要ない。これは、彼女の―否、彼女の血筋に由来する、彼女だけのオリジナル。
櫓諸共、一筋に纏められた炎に巻かれ、由香里は蒸発した。炭化すら生温い。彼女には相を変化させる暇もなく、その巨大な体躯は忽ち昇華した。
周辺の気体が加熱されて、蒸気と共に屋台が巻き上げられた。それらは爆風とともに瞬きの間だけ宙を舞うと、すぐに重力に引かれ瓦礫となって降り注いだ。低圧になった境内に、周囲から気体が流入する。突風に押し流され、瓦礫と混ざり合ったのは、シシオリの肉片。
死にたくない、死にたくない。
圧倒的な異能の差を前にしても、由香里は、花は生を諦めきれなかった。それに、加えて、更に。
「何で、何で生きてるんだよ、藍沢ァ!」
彼女は上半身だけ肉の袋を急造すると、突風の盾にしていた肉塊から分離させる。そして、風にも負けず神饌の破片に群がってきた野犬を、二本の腕で蹴散らしながら、瓦礫の陰から陰へ移動する。
海咲はすぐに―今は翼の形となった箒を駆り、追撃を開始した。理論上亜光速まで加速しうるそれは、音速の二倍ほどの速度で低空飛行を開始した。衝撃波が巻き起こり、再び瓦礫の一部が吹き飛んだ。屋台、炎、血液。濃度の異なる様々な赤が、突風に煽られ夜空に舞っていく。
その中の一つには、由香里の腹部から零れる黒々とした血も含まれていた。新しく作った体であるはずなのに、傷が開いた。刺された傷が、治らない。
ふざけるな、ふざけるな。これでは、どちらが化け物か分からない。こんな姿になってまで、私は『生』にしがみついたのに。藍沢やあの地雷女の方が、私より余程、人外の化け物ではないか。
境内の端、唯一まだ建築物としての体裁を保っていた屋台。その陰に身を隠し、炎に炙られた村人の死骸を貪り食う。少しは、腹の足しになった。
息を殺して、回復に努める。追撃の手は緩まった。この場所なら、暫くは姿を晦ませられるだろう。
死体の大腿からつま先にかけてを、骨までしゃぶる。身を隠した屋台の中に、炭化していない死骸があったのは、由香里にとって僥倖だった。沸騰寸前の村人の血液が、噎せ返るような鉄の匂いを振り撒き、澱んだ水音を伴って滴り落ちる。
「追いかけっこは、終わり?」
ふいにそう声を掛けられ、由香里は天を仰いだ。元々耐火性のない屋台の屋根は、祭り会場全体を包む炎には到底耐えられなかった。
由香里は、神饌の脚を放り捨てた。赤熱した金属のように鮮やかな緋色の瞳が、由香里を見下ろしていた。
由香里は、都合の良い正義感に燃える瞳で、海咲を睨んだ。
木村と高橋は、藍沢に殺された。齋藤と廣瀬は、藍沢のせいで死んだ。野本と吉村は、藍沢のために死んだ。全て全て、藍沢が悪い。
仇を、取らなくてはならない。藍沢を殺さなければ、死んでいった彼らが報われない。
由香里と花の人格は、乖離し始めていた。しかし、互いの人格との相互作用で歪んでしまった性質は、果たして元に戻ることはなかった。由香里の記憶は、花の所業を正当化するように歪められる。そして花の憎悪の向かう先は、自身を封じた巫女ではなく、藍沢桜へ。加えて、彼女の目の前を悠々と飛行する、目の前の怪物へ向かっていた。
こいつだ、こいつのせいで。
由香里は、歯軋りした。最早顎の力すら残っておらず、彼女はかたかたと歯を震わせる。
こいつのせいで、全てが狂った。藍沢は生き残り、私は死ぬ。なんて理不尽、なんて、不合理。
「捻れろ、捻れろ、捻れろ…っ!!」
必殺の呪詛は、最早ささやかな抵抗にしかなり得なかった。呪詛を伝える媒介<霊子>が、殆ど残っていなかったからだ。直撃したにも関わらず、呪詛は少女の体を歪ませるには至らない。
由香里の瞳から滲む、絞り出されるような生への渇望を、彼女は全て受け止めた上で―黙殺した。
「火葬の時間だよ、噉相」




