3話 獅子織村、到着 <後編>
桜は由香里を憎々しげに一瞥した。彼女たちは荷物を降ろしたり降ろさなかったりしながら、大きな荷物を開けては閉じて男衆を困らせていた。
その姿を横目に見ながら、桜と吉村は女将に連れられて旅館の中に入った。外側の威圧感とは一転、清潔感と高級感のある玄関ホールを通り、二人はカウンター前のテーブルへ通された。氷点抹茶とお茶請けが出され、二人はそれぞれ汗を拭う。
「先生、運転お疲れ様でした。ありがとうございます」
「ああ、どうも。酷い山道だっただろう」
「ふふ、そうですね。舌を噛みそうになってしまいました」
「その割には静かだったじゃないか」
「舌を噛みたくなかったので」
二人が中身のない会話をしているうちに、女将が書類とペンを持って戻ってきた。吉村は書類を受け取ると、軽く目を通してからサインした。
「お荷物はお部屋にお運びしておきます。お戻りは何時くらいを予定されておりますか?」
「ええ、お願いします。そうですね、十六時には戻れるかと」
書類を渡すと、吉村は抹茶を一口飲んだ。手続き自体は済んでしまったので、あとはチェックインまで学生の引率をするだけである。吉村は大きく息を吐き出すと、肩の力を抜いた。
空調が効いているにも関わらず、ガラス張りの待合室は夏の陽射しに焼かれてじりじりと暑い。おまけに、窓の外でまだ騒いでいる大きな子供たちのことを考えると、吉村は毎年のことながら胃が痛くなった。しかし幾ら胃痛の種であっても、学生は学生。責任をもって、安全に送り返す義務が、吉村にはあった。それに、一度決めたことはやり抜くというのが、彼の信条であったのだ。
ただ、今年は例年より幾分かマシである。少なくとも吉村は、そう考えていた。
「それにしても、まさかこのバカ騒ぎに、君が来てくれるとはねぇ。よ、学年一の才媛。日本民俗学の星」
冗談目化した吉村の言葉に、桜はきまりが悪そうに微笑んだ。
吉村からすれば、不可思議な話である。彼女は文句無しに学年一、いや大学一の秀才。その彼女が態々手続きを踏んで医学部から転部した先が、法でも経済でもより実践的な社会学部でもない、文化人類学部を選んだこと自体がそもそもの謎。加えて、その中でも人気のない日本民俗学に学徒としての生を捧げると言うのだから、当時の教授陣は面食らってしまった。何せ、今からでも経済学部に転部しないかなどと、学内の世界的に著名な権威から、直接声がかかる程の逸材である。
「在学中に司法試験に受かってしまうなんて。それに、元々は医学部だもんね?」
「そんな…。法については独学で、特に司法試験に関しては、合格したのは運が良かったとしか…」
殆ど覚えていませんし、と彼女は付け加えた。形の整った眉を困ったように歪めながら、桜は氷点抹茶に口を付ける。ひんやりとした口触りから、たちまち良い香りが広がった。
「そもそも、なんで日本民俗学を?」
「それは…」
桜はハンカチで口元を覆った。
「…興味が、あったからです」
「そうか。それはいい事だね。面接の時にも聞いたかもしれないけれど、どこに興味があったの?」
少女は少し困惑したように視線を泳がせると、恐る恐るハンカチを降ろした。
「実は…」
「先生!準備出来ましたよー!」
「あ、先生と藍沢さん、お茶飲んでる。ずりー」
硝子窓の外から、他の学生が手を振っていた。桜は口をきゅっと噤むと、ハンカチをしまった。
「…さ、皆さん準備が出来たようですし。今日はこれから郷土資料館に行くのでしたっけ?」
「うん。近くのお蕎麦屋さんでお昼にしてから、郷土資料館に行こう」
そう言うと、吉村は女将に挨拶し、席を立った。
彼に追随するように、桜も席を立つ。
ふと、背筋に悪寒が走り、桜は窓の外を見た。