38話 『覚者』
由香里は肩で息をすると、額を抑えた。頭が、割れるように痛い。さすがに、遊びすぎた。窮鼠とて時として猫を噛む。ドブを這う鼠共に、反撃の機会を与えてしまった自分が憎い。
「くそっ、くそっ―は?」
腹部に、鈍い痛みを感じた。由香里は、緩慢な動作で視線を落とした。まるで腹から生えるようにして、錫杖が突き立っている。
「さっさと、死ね」
桜は、錫杖を力任せに押し込んだ。深く深く、一メートルほどの錫杖が、由香里の体を貫いている。光り輝く金色のそれは、化生の赤黒い血に濡れていた。
絶叫を上げ、由香里はもがき苦しんだ。容赦なく、彼女の下腹部からは血が噴き出していく。錫杖には、巫女の霊力が残されていた。それは、妖魔であるシシオリからすれば、劇物に等しい。体内で炸裂した霊力は、破壊的な激痛を伴って内部から由香里を、花を崩壊させる。
痛い。痛み以外のことを、考えられない。由香里は奇声を発しながら悶え苦しんだ。
「おおん!おおおん!おん!おおお!おん!」
その姿に合わせて、神饌たちは狂喜した。九十度近く傾いた口を開け、一斉に歯をうち鳴らす。その拍子は、神社に聳える櫓で奏でられる、祭囃子と似ていた。奇怪な打楽器の音は機関銃の斉射のように響き渡り、村全体を揺らした。
「おおん!おおん!おおおん!おん!」
終末を告げる喇叭が、鳴り響くように。蘇った死者たちは、瘋癲に支配されたように、高らかに唄う。さながら地獄のような光景が、苦しみに喘ぐ少女を中心にして、形成されていた。神饌たちは一心不乱に踊り、叫び、そして自壊していく。鮮血の赤い花が至る所で咲き乱れ、有村由香里の白い肌を醜く彩る。
由香里のシルエットは、徐々に崩壊していた。
由香里の存在が、溶ける。カタチが、膨れて、溢れて―どこまでも、際限なく。
落ちた太陽の代わりに、いつの間にか空に昇っていた細い三日月は、燃えるような血の色をしていた。
「嫌だ、嫌だあ!助けて!お父さん!お母さん!幸樹!吉村先生ェ!瑞希ィ!」
その言葉を最後に、由香里の顔面は消失した。ずるりと皮膚が爛れて液状化し、彼女は膨張していく。際限なく白桃色の肉が溢れて、彼女は人を超えた何かへと姿を変じようとしていた。
腐臭を放つ巨大なアメーバが、軽トラックの運転席を踏み潰した。身を隠していたことが仇となり、廣瀬は押し潰される。脱出を試みようと彼が懸命にダッシュボードを叩く音が、虚しく響く。そして断末魔のあとには、何も聞こえなくなった。
「はあ、はあ…」
桜は荷台から降りると、距離を取った。その間にも、由香里は無謀な膨張を続けており、瞬く間に大型トラックほどの肉塊が姿を現した。それは触手を伸ばし、神饌を捕まえると、巨大な口へと運び込む。濃厚な死の臭いを含む湯気を放出しながら、由香里は神饌を捕食した。
そうか、神饌は。
由香里は、唇の周りの肉を舐めとった。
このために、あるのか。
由香里は次々と神饌を捕らえると、吸収していった。そして、肉塊は白色の蛆の姿を取ると、頭に相当する部分に、巨大な由香里の顔を浮かび上がらせる。
「藍沢」
由香里の口が、桜の名前を呼んだ。反射的に、桜は薙刀の要領で錫杖を突き出した。錫杖の刃先が白い肉を穿ち、赤い穴を刻むが―浅い。錫杖が由香里の体を貫いた直後に、桜の胴体は地に落ちた。
「ひっ…」
遅れてきた激痛に、桜は体を捻った。ない。手足が、ない。彼女の手足は、ペンネのように捻れて切れてしまったようで、桜の周囲に散逸していた。おびただしい量の血が噴き出す。出血のショックで、桜は昏倒しかけた。
「藍沢ぁ…」
恍惚とした表情で、由香里は舌を出した。一メートルほどもある舌に顔を舐め回され、桜は悶絶した。吐き気を催す腐臭が、桜の潰れた鼻に直接叩きつけられる。
ああ、これは。もう、ダメだ。
「うおえぇぇ…」
情けない声を上げて、桜は今まさに流れ出ている貴重な水分を、思い切り口から放出した。切れた部分に胃液が染みたが、その痛みは四肢の痛みに掻き消される。
由香里は口を大きく開き、そのまま桜を飲み込んだ。咀嚼し、口の中で弾ける赤色を味わった。
神社の方から、太鼓が響いている。その拍子は一定で、先程まで神饌が奏でていたものとは異なっていた。
「何だ」
由香里は、首を傾げた。最早首と体の区別はつかなくなっていたが、恐らくは首に相当する部分のはずである。彼女は目を凝らしたが、ここからでは一段高い神社の境内を確認することはできなかった。
「それに、藍沢、美味しくなかった」
憎い相手を食べた筈なのに、腹は全く満たされなかった。味もそこそこで、別に神饌と変わらない。おかしい、彼女には何か、異能があったはずなのに。
「ひ、ひひ…」
まあ、いい。今は、質よりも量だ。まだ、食べ足りない。神饌を補給しなくては。
由香里は体を引き摺りながら、神社へと向かう。鳥居を薙ぎ倒し、彼女は祭の中へと消えていった。
その場に残されたのは、神饌の残骸。そして、桜だけであった。
「へっ、あっ、ひ、ひうっ」
恐怖と痛みのあまり情けなく泣きじゃくりながら、桜は周囲を見回した。四肢は、捻れたままだ。由香里は散々自分を舐め回した後、何故か別のところにいた神饌を桜と誤認し、飲み込んだ。理由は、推し量りようもない。
「たしゅ、助けて、痛いぃ、誰かぁ」
奇しくも由香里と同じ格好になった桜は、ずりずりと這うようにして移動を始めた。
血は止まっていない。意識が朦朧とする。
怖い。ここを、一刻も早く離れなければ。今の自分は、神饌より遥かに弱い。もし襲いかかられるようなことがあれば、一溜りもない。吉村先生が命を懸けてまで繋いでくれた命を、こんなところで無駄遣いすることは、できない。
「痛い、痛い、痛いぃ!」
何が『退魔巫女』。手足をもがれて、妖魔と戦えるものか。或いは―放っておけば、生えてくるのだろうか。老婆の、樹木と化した足のように。
非科学的だ。そんな馬鹿なことが、あるはずがない。しかしそれでも、私はまだ終われない。四肢がなかろうが、退魔巫女にならないといけない。弟の、病を治すため。私は、ここで死ぬ訳にはいかない。
「ふぅ、ふぅ…っ」
菊、菊、菊。弟を思い、毎秒毎秒、懸命に生を掴み取る。
肩を動かし、腰を捻って、前に進む。その度に、今はない四肢の付け根が、耐え難い痛みを訴えた。
「…へ」
息も絶え絶えの彼女の前に、見なれないスニーカーが二足、姿を現す。それは突然、何も無かったはずの場所に現れると、桜に向かって歩み寄ってきた。




