36話 『あんよが上手』
「齋藤くんだ、どうする!」
運転席から、吉村が叫んだ。助けたい気持ちは山々だが、彼は既にシシオリに寄生され、しかもどうやら様子がおかしい。この緊急事態に、彼は何故か全裸なのである。可哀想に気が狂ったのね、と桜は思った。
これが齋藤渾身のジョークであれば、常日頃から半裸にカウボーイハットの男性芸人を愛好している桜的には、満点であった。しかし、恐らくそうではないだろう。
トラックを停めさせる、何のために。有村由香里―シシオリにとってあまり好ましくないこと、彼女がしたいこと。そのための手駒、脅迫。彼自身が実行部隊であり、また彼自身が人質。
「ごめんなさい、齋藤くん」
桜の卓越した推理力は、この異常事態に対して瞬時に数パターンのストーリーを紡ぎ出すに至った。そこから更に、論理と確率を用いて、最適な一手を導き出す。彼女は暫く考えたあと、運転席の吉村に、殺人を頼むことにした。
「…退かなければ、轢いてください」
「無茶を頼むね、藍沢さんは…!」
殺人を依頼されたことなど、吉村の五十数年の人生でも、初めての経験であった。
こうなることを知っていたら、文化人類学など志さなかった。まさか、この年で殺人犯になる羽目になるとは、大学教授というのは損な役回りである。
吉村は、滑稽な姿で軽トラックに求愛のダンスを踊っている齋藤に向けて、怒号を飛ばした。
「齋藤くん!僕は君を轢くぞ!死にたくないなら、退いてくれ!」
吉村の説得も虚しく、全裸の齋藤は大の字になり、奇声を上げて車の前に躍り出た。彼は必死に叫ぶと、涙ながらに助けを求めた。
「助けてくれーっ!!」
「ちぃ…っ!」
とんだ蛮勇である。畢竟、チキン・レースに敗北したのは、吉村の方であった。記憶の中の齋藤の姿を思い出してしまい、彼は車を減速させてしまったのだ。このままでは、本当に彼を轢いてしまう。そして、吉村がブレーキを踏んだ瞬間、齋藤は尋常ではない身のこなしで、軽トラックの荷台に飛び乗った。
「藍沢ァ!」
「なっ…!?」
齋藤は桜を押し倒すと、桜の細い首を締め上げた。一瞬の出来事に、桜を含め誰も対応が出来なかった。
「死ね、死んでくれ、頼む!でないと、俺、由香里に殺されちゃうんだよぉ!」
目を血走らせながら、齋藤が腕に力を込める。桜の視界は、酸欠による明滅を始めた。
「藍沢さん!?」
バックミラーで荷台の状態を確認した吉村と廣瀬が車内から飛び出そうとしたが、彼らの視界に神饌たちが映り込む。
「せ、先生ェ…!」
彼らは車内から出ることが叶わず、再び車を走らせた。そうしなければ、今度は神饌たちに襲われてしまうからである。
「マ、マァ」
桜と同じく、荷台にいた野本が、ふらりと立ち上がった。まだおしめの取れていない彼は、馬乗りになって桜の首を締め上げる齋藤に、かつての母の姿を重ねた。三人兄弟の長兄として、貧しい母子家庭で育った野本。彼の一歳下の弟は、空腹に耐えかねてぐずる度に、癇癪を起こした母に首を絞められていた。彼はその姿を見て、育ってきたのだ。
「ママァ!」
野本は、揺れる荷台の上で齋藤に抱きついた。彼は体格で劣る齋藤を持ち上げると、頬にキスをして、彼の胸に頭を沈めた。
「な、何すんだよ!野本!やめろ!おい!」
そして二人は、縺れ合うようにして走行中の車から落ちた。全身から酷く出血しているにも関わらず、野本はすぐに起き上がり、齋藤に抱きつき、泣きながら甘えた。そんな二人に、神饌たちが群がる。
「ふざけるな!あと少しだったのに!野本、お前のせいで、お前のせいだ!」
どうにかして野本を振りほどこうとする齋藤と、彼の乳首を舐め回す野本。母と赤子の関係であるが、膂力に関して言えば、リミッターの外れた赤ん坊に軍配が上がった。
桜が頭を上げると、神饌たちに襲われる齋藤と野本が、徐々に小さくなっていく。
「齋藤くん、野本くん…」
救ってあげられなくて、ごめんなさい。桜は心の中で、二人に謝罪した。




