33話 籠城
彼女たちは息を切らしながらも、気の違った村人たちの猛追を振り切った。村の地理など知りようもないので、桜たちはただ身を寄せあいつつ、闇雲に逃げる他なかった。
そうして辿りついたのが、この古ぼけた会議室。村の奥まったところにある木造の公民館のあるエリアは、比較的安全であった。ここへ来る道程の間に遭遇した、正気を失った村人たちは、皆神社の方向を目指していた。桜たちは公民館に身を隠すと、バリケードを築いた。幸いにも、公民館には大量の椅子や机、棚などが用意されており、狭い出入り口を封鎖するには十分すぎるほど潤沢な設備が残されていた。
彼らは最初に、携帯電話でヘリなどの救援を呼ぼうとしたが、その試みは失敗に終わった。どうやら、ここには電波が届かないらしい。
固定電話に関しては、村人の手によって回線が切られていた。桜たちは知りようもないが、現代人としての知恵を付けた花こと由香里は、村人を操って村と外界とを繋ぐライフラインを徹底的に破壊していた。同時に電気系統は順次破壊しているようで、現時点で獅子織村に残されているインフラ設備は水道とガスだけである。
「ママぁ…ママぁ…」
この狂気的な状況下は、ただでさえ怖がりの野本にとって地獄と差程大差がなかった。精神に異常をきたした野本は、公民館の机に母性を感じてむしゃぶりついている。
桜は彼のその様子を憐れに思ったが、特に世話をする気にはなれなかった。彼女も、彼女以外の生存者も、自分のことで手一杯であった。
もしかしたら、彼女の狙いは自分だけであり、自分さえ投降し凶刃にかかることを良しとすれば、他の人間は助かるかもしれない。そんな考えが一瞬過ったが、桜はすぐにそれを棄却した。
無謀な自己犠牲をするなら、今ではない。ここで死んだら、無駄死に以外の何物でもない。それに、自分が死んだら、誰が菊を救えるのか。
「吉村先生」
「何だい、藍沢さん」
多弁症を発症しながら、歯を鳴らし、震えて蹲る廣瀬。彼を横目に、桜は吉村の隣に座った。幸い、吉村はまだ瞳に生気が宿っていた。
「どうしましょうか」
どうにもなりそうもない、という前提のもと、桜はそう語りかけた、
「どうしよう、と言ってもなあ」
桜の言葉に、吉村は苦笑いで以て返した。暫く思案した後、困ったように顎を撫でると、吉村は閃いたように言った。
「錫杖。あれを有村さんにぶつければ、事態は解決、とかにならないかなあ」
「はは。恐らくならないでしょうね」
「イベントボスとはいかないかあ」
「ふふふ、どういうことですか?」
脳内では忙しなく打開策を思案しつつも、桜は比較的穏やかな心持ちでいた。恐怖が一周回り、気が狂ってしまった訳では無い。どうにか緊張を麻痺させようと放出された脳内物質と、束の間の平穏に、彼女の副交感神経は暴走してしまったのだ。
くすりと笑うと、桜は野本の頭を撫でた。歳の割に、苦労しているのだろう。野本の頭頂部は、少し薄めであった。彼はわんわんとみっともなく泣き喚くと、長机と熱い接吻を交わした。学友の唾液と、掃除の行き届いていない机表面の埃が混ざっていく。桜は少しだけ気持ち悪くなり、形の整った眉を顰めた。
「スーパー・パワーはどう?使えそう?」
「できるなら使っています。あ、先生。お湯が湧いたみたいですよ。コーヒーでいいですか?」
「いただくよ」
公民館への電線は切られており、その証拠に無謀にも高枝ばさみで高電圧に挑んだ村人の死体が、公民館外の道路に転がっている。カーテンで隠した窓の外から、焦げ臭い風が吹き込んできたのは、つい先程のことだ。
桜たちからすると、不便な点と言えば会議室の電気ケトルが使えないことくらいであった。仕方なく、彼女たちは給湯室にあったガスコンロで熱湯を沸かす羽目になってしまった。どうやらガスはまだ無事なようであり、栓さえ開いてしまえばライターで着火することができた。
やかんから、沸騰したミネラルウォーターを注ぎ入れて。インスタントのコーヒーを作ること、二カップ。残りの二人は、最早コーヒーという言葉の意味すら不明瞭であるようだ。桜はそれらを会議室に持ち込むと、自分と吉村の前に置いた。
「まさか、こんなことになるなんてなあ」
熱々のコーヒーに一口だけ舌をつけると、誰に向かって言うでもなく、吉村はそう呟いた。
「実の所、こういう非科学的なものと出会いたくて、日本民俗学なんてイロモノに手を出したんだけどなあ。いざ遭遇してみると、最悪だな、これは」
「そうだったのですか。そんな理由が…」
桜は少し驚いた。勤勉で真面目で、誠実そのものであった吉村が、そのような動機でこの世界に入っていたとは。目を丸くした桜に、吉村は微笑みかけた。
「昔から、不真面目な方でね。科学より魔法、動物園より見世物小屋―文春より『ムー』の方が好きだった」
彼は過去を慈しむように語ると、言葉を続ける。
「学問を志す切掛けなんて、何だっていいんだ。必要なのは、やり遂げること。初心を忘れず、最後までやり遂げることさ。
大学だってそう。ここは学問をやるところだなんて、ふんぞり返っている先生方もいるけれど。大学を就職予備校として使ったって、いいんだ。僕は、それでいいと思っている。入りたい企業があって、そこに入るために必要な知識やスキル、人間関係を得るために、大学に入る。または友達が欲しいから、大学生活を楽しみたいから。そんな理由でもいいのさ。
大切なのは、満足するまで逸れず曲がらず、突き通すこと。そしてそれは、学生自身の意思決定で以て行われるべきだ。我々の教員の、強制であってはならない」
「…だから先生のゼミは、とても楽なのですか?学生の意思決定を、阻害しないために?」
冗談目化した桜の言葉に、吉村は苦笑した。
意外にも、才媛藍沢桜は冗談を述べる性質のようだ。同僚に、いい土産話ができた。
「これは、手厳しいな。そう、藍沢さんの言う通りだよ」
初志貫徹。そしてその最初の志は、何でもいい。貫き通すことこそが、何よりも肝要である。それが、吉村の哲学だった。
吉村の影響か、桜は今一度、自分の原点に立ち返った。自分の原点は、弟の笑顔だ。それを取り戻すために、生きている。彼女は再び、そう確信することができた。
懐からスマートフォンを取り出すと、桜はそれを吉村に見せる。
「弟です」
あまりに突然のことで、困った表情をした吉村に、桜は説明を続けた。
「そう言えば、私がこのゼミに参加した、本当の理由を先生にお話していなかったと思いまして。
…数年前に、彼は病気を―先祖曰く、血筋の呪いを発症しました。これは、現代医学の力の及ばない、文字通り『非科学的』な―いえ、現時点では、非科学的とされる
事例です。
私は当ゼミに参加する前から、彼の体を蝕む病が科学の延長線にないと考えていました。それは、フォーラムや学会を通して世界中にコネクションを作り、医学的に彼を調査しても、何一つとして症状の詳細がわからなかったことに起因します。
…こんな姿になっていますけど。弟は、菊は話すことも出来るのですよ?」
この木の塊がかい、と吉村は口に出しそうになったが、桜に失礼だと思い言葉を噛み潰した。代わりに、彼女に配慮しながら、問い掛けてみる。
「…気を悪くしたらごめん。それは、冗談?それとも、本当の話?」
驚きを隠せない様子の吉村に微笑んで、桜は話を続ける。
「本当の、話ですよ。肉声も、ほら」
桜が見せた動画には、桜自身と言葉を交わす菊の声が録音されていた。吉村は思わず感嘆の声を上げた。
「興味深いね」
「ええ、本当に。ですから、私は考えたのです。例えば、樹木のように固まった肺で呼吸をするとか、声帯を震わせて声を出すとか。医学的には、科学的には、有り得ないことなのです。
だから、これは、呪いだと。そう、予想したのです。そして、呪いを学問として取り扱っている可能性がある知の枠組は、民俗学だと知りました。もしかしたら、日本各地の伝承に、彼を襲った呪いの正体が隠されているのかもしれない。そして吉村先生なら、弟の病状に近い伝承を、何か知っているのかもしれないと思いました。
それが、理由です。私が、このゼミに入った」
「そうか。それが、理由だったんだね。なら、この旅行で、答えは出たんだろう?」
吉村の問に、桜は首肯で返した。
「ええ。かの洞窟にて、かつてシシオリを封じた巫女に、私の先祖に、教えていただきました。弟の、菊の症状は、私の血筋に宿る異能が原因です。菊は私より、遥かに優れていました。優れているが故に、異能に体を奪われてしまった。
でも、もしかしたら。藁にもすがる思いですが。一つだけ、菊を救う方法が、あるそうです」
「…そうか。失礼、スマートフォンを使っても?」
「…はい?構いませんが…」
桜の決意を、彼女の力強い声色から感じ取って、吉村も決心を固めた。彼はスマートフォンを取り出すと、夢中で何かを書き込んでいった。一分ほど集中すると、スマートフォンを胸ポケットにしまった。
「じゃあ、君はこんなところでは死ねないな」
轟音と共に、公民館が揺れた。バリケードに塞がれた入口に、軽トラックが突っ込んだのだ。元々、老朽化した木造建築である。バリケード諸共、公民館の壁は木っ端微塵になってしまった。侵入してきた村人たちの怒号で、静寂が支配していた公民館が一気に騒がしくなる。
「やれやれ。男性は下半身でものを考えるとはよく言うが、下半身の脳味噌でも車が運転できるとは」
普段の吉村であれば、絶対にしないような発言である。桜は口調だけは刺々しく、内心は笑いながら、敬愛する指導教員を諌める。
「先生、セクハラですよ」
「失敬」
彼女たちは、生き残ることを選択した。トンネル部分の土砂崩れさえ越えてしまえば、道路沿いに逃げることができる。その後は、ヒッチハイクなり真夏の行軍なり、人里に駆け込む手段は幾らでもある。
問題は、何にせよ神社の前を通らなければならないということだ。公民館へ来るまでの人の流れから、恐らく村人たちは一度神社に集結しているようである。突破するには、何かしら秘策が必要だ。
「駐在所に、銃とかはあるのかなあ」
「先生、撃てるんですか?」
「昔、バブルの時にハワイでね」
「アテにしていますよ、先生」
「む、信じてないね」
元々のんびりした性格の吉村先生のことである。緊迫した場面で安全装置が、などと言い出す場面を想像して、桜は苦笑した。あまり期待はしないでおこう、と彼女は心に刻み込んだ。
「野本くん、ほら。行きますよ。あんよが上手、あんよが上手」
桜は、この短期間に愛する長机と交合う寸前まで進展した学友に声をかける。野本は朗らかにへらへらと笑うと、桜の後ろを四つん這いで着いてきた。
「廣瀬さんは、どうされます?」
桜の声に、びくりと肩を震わせた廣瀬は、ふらふらと産まれたての子鹿のようにして立ち上がった。焦点は定まっておらず、口ではぼそぼそと文句を垂れていた。
「分かりました、置いていきます」
素っ気ない態度で、桜は踵を返す。その後ろ姿を見て、廣瀬は正気を取り戻した。彼は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、力なく叫んだ。
「行く、行くよぉ!置いてかないでくれよお!」
世紀末のようにして、農具を片手に猛り狂った男たちが、公民館に雪崩をうって駆け込んで来た。彼らを迎え撃つには些か不釣り合いな面々ではあるが、仕方がない。吉村は覚悟を決めて、会議室の扉を開けた。
扉を開けるなり、鎌を振りかぶった男が吉村に斬りかかった。反射的に桜は吉村を突き放し、自身は男の股間に鋭い蹴りを放つ。
美しい弧を描いて、桜の細い足は的確に男の睾丸を、引いてはそこに巣食う蛆を叩き潰した。男は股間を抑えて白目を剥きながら泡を吹き、その場に倒れた。鮮やかな一撃。これが仮にゲームであれば、三視点くらいからリプレイが再生されていたに違いない。
「ひえっ…」
思わず情けない声を漏らした廣瀬に、桜が向き直る。彼女は乱れてしまった髪を後ろで結ぶと、パワフルに微笑んだ。
「任せてください。これでも私、昔バレエを嗜んでいたので」
股間の胡桃割りとバレエ・ダンスの関連性が全く見えず、廣瀬は戦慄した。




