20話 藍沢の巫女 <後編>
老婆の両足は、大腿から先が暗褐色に変色し、複数に分かたれていた。それは、まるで樹木の根のようであった。
否、事実それは、樹木なのだ。藍沢家の異能は、木行に由来する。血筋の力を御しきれない術士は、己の力に内側から喰い潰される。老婆の足は、修行不足の証左であった。
「その、足…」
「おや、その反応だと、他にもこれを見たことがあるようだね。体のどこかがこうなってしまったかい?それとも…」
家族の誰かが。そう言いかけた老婆は、桜の涙を見て言葉を止めた。
「…そうかい。それは、気の毒だったね」
桜は、老婆に全てを打ち明けることにした。最愛の弟が、全身を樹木に置き換えられてしまったこと。両親が、弟を見限ろうとしていること。そして、弟が元の姿に戻れるなら、自分は何でもするということ。
「何か、何か方法はないんですか…?」
老婆に聞いたところで、仕方がない。そんなことは、桜も承知の上であった。もし仮に方法があったなら、老婆は自らの足のために、とうの昔に実行しているであろう。
「ない、だろうね。気の毒だが。少なくとも、私の知る範囲では、無理だ。弟君は、力が強かったのだろう。血筋による力の発現は、本人の意思とは無関係だ。私の妹も、強い力に振り回されて、最後には巨大な木になってしまった」
悲しそうに、老婆はため息をついた。桜のことを案じてくれているのだろう、彼女は憐れみを込めて、桜を見つめていた。
そして桜は、放心してしまった。彼女は湯呑みを手放すと、生気が抜けたように項垂れた。
菊のために、全てを捧げてきた、つもりだった。彼に自分の人生の全てを与える気でいた。彼の回復を祈って、弛まぬ努力を続けてきた。
その結果が、これか。
旅路の果てに、彼女に突きつけられた現実。彼女が漸く辿り着いた真実。よりにもよってそれは、思い描いた中で最も悲惨な結末に終わってしまった。
「はは…」
何という、悲劇だろう。シェイクスピアですら、こんな駄作は世に出さない。もう、どうなってもいい。一層のこと、残りの一生を塀の中で暮らそうか。これまで必死に、自分で考えて、努力して、苦しんだ。あとはもう、看守に言われるまま食事をして仕事をして、時々獣のように性的欲求を満たして、眠るだけでいい。
「貴女には、力がある」
老婆が何か言っているが、その言葉は桜にはもう届かなかった。
弟一人救えなかった自分に、力なんてあるわけがない。仮にあったとしても―菊<おとうと>のことすら助けられない力なんて、菊をあんな目にあわせた力なんて、私に必要あるわけがない。
「貴女の助けを、必要としている人たちがいる」
気持ちが、悪い。
「その人たちは、私に何をしてくれるの?」
これだけ、これだけ人生を捧げても、尚。まだ足りない、と。私に奉仕しろと、神さまはそう言うのだろうか。
「菊を、弟を救ってくれるの?私のこれまでの人生を、努力に費やした時間を、返してくれるの?それとも、私が遊んで暮らせるだけのお金をくれるのかしら?」
綺麗事を並べる老婆に無性に腹が立って、桜は年甲斐もなく大声で捲し立てた。
出来ることなら、もっと、幼い子供のように。ふざけるな、とただひたすらに声を荒らげたかった。癇癪を起こして、鉄瓶を老婆に叩き付けてやりたかった。しかし、彼女の屈強な理性は、そう易々と主の逃避を許さない。ぎゅっと唇を強く結んで、桜は耐えた。耐えて、これまで通り耐え忍んで、老婆の言葉を待った。
数秒の沈黙の後に。老婆は重々しく、口を開いた。
「…衆生を救いあげることが、弟君を救うことに繋がるかもしれない、と言ったら?」
「…え」
老婆の言葉に、桜は目を見開いた。
「…まだ、希望はある。希望と呼んでいいのかどうかは、分からないがね」
「希望?」
そんなものがあるなら、老婆の妹は樹木になどなっていない。桜は老婆が都合の良いいい加減なことを言っていると勘違いし、怒り狂いそうになった。そんな彼女を、老婆は制した。
「佐藤、という男がいる」
鈴木、という男もいる。新宿駅で周りを見渡せば、視線の先に十人はいる。煮えくり返った桜は思わずそう皮肉を口にしそうになったが、老婆の沈鬱な様子を見て踏みとどまった。
心做しか老婆は、怯えているように見えた。どこにでもいる在り来りな苗字の話をするには、その様子は極めて不自然であった。
「男か、いえ、女かもしれない。この星に、いやこの銀河この宇宙に巣食う、邪悪そのもの。私たち、全ての異能の根源の一つと言い換えてもいい。そして彼は私たちが降ろす力のうちの、一柱。
本当の名前は別にあるが、今は人間に擬態するため、佐藤と名乗っている」
スケールが大き過ぎて、現実からは遠い話に感じた。しかし、老婆の感じている恐怖だけは、本物である。それは、心理学に精通している桜だからこそ、理解出来ることであった。老婆の恐怖が桜にも伝染したのか、彼女は恐る恐る問いかけた。
「…その男なら、菊を救えますか?」
桜の期待に反して、老婆は重々しく、首を横に振った。
「分からない。でも、彼の力は常軌を逸している。当の私も、その力の一端しか見たことはないがね。私たちの力がそうであるように、あれは宇宙の理すら、容易に捻じ曲げるだけの力を持っている。彼なら或いは―異能による病を取り除くことも、可能かもしれない。恐らくは―ただとは言わないだろうがね。
妖魔を祓い続ければ、いつかは彼に辿り着く。いや、向こうから、貴女に会いに来るだろう。他ならぬ『五大巫術』の二番目を、みすみす見逃すことはない。
だから、貴女も退魔巫女におなりよ。血筋の定めだから、世のためだから、とは言わないよ。貴女のために、弟のために。その力を振るうんだよ。貴女のために、助けを求める、弱い人たちを救うんだ」
そうすれば自ずと彼に会えるだろう、と老婆は言葉を結んだ。
「…分かりました。万が一にも、可能性があるなら」
寧ろ、ただ闇雲に走るだけだったこれまでより、進展したとも考えられる。
「菊を、救えるなら」
前向きに、考えることにした。信じ難い話に、未だ混乱こそしているが、段々と事情が見えてきた。桜は、まだ諦めるには早いと悟った。それがどんなにか細いものであっても、希望が見えてからは、心が軽く、そして熱くなった。
「私、なります。退魔の、巫女に」
力強く決意を固めると、老婆も頷いた。彼女は桜の両手を握ると、強い口調で言った。




