1話 涼やかな藍色
学舎としての大学の在り方に変革がもたらされたのは、極々最近である。大学の門戸を叩く若者の割合は年々増加し、若年層全体の教養レベルの向上と引き換えに、学府としての権威は寧ろ陳腐なものとなった。本当の意味で学問を志す者は年々少なくなり、如何に名門校と言えど、たかが就職予備校と揶揄された。
しかしながら、学府としての在り方にさえ目を瞑れば、大学で学べることは意外に多い。『使える』他人の見つけ方、コンパやサークルを通じた人脈作りの方法。或いは、退屈な講義を如何に怠けるか、如何に楽な講義を見つけるか。
つまるところ。大多数の学生は、学問に取り組むために大学を目指している訳では無い。彼らは『大卒』の肩書きを得る為と、この若者に風当たり厳しい社会の、『上手』な生き抜き方を学ぶ為に、大学を目指しているのだろう。その証拠に、本来は学術の粋たる論文の為のゼミナールでさえ、より甘く、より楽なところが人気を博す傾向にある。
例えば、S大学、吉村ゼミ。日本民俗学を取り扱うこのゼミは、特に前述したような学生が集まる傾向にあった。一応は日本民俗学―特に土着信仰など民間伝承の権威である吉村孝雄教授の取仕切るこのゼミは、出席自由、中間発表等は年一回のみ、おまけに学生の自主性に全幅の信頼をおいた画期的な指導方針である。
そのような実態が学生ネットワークの中で広く喧伝され、吉村ゼミは一言で表すならば『意識の低い』学生の格好の溜まり場となった。
念願叶いS大学に現役で合格した、有村由香里もそのような学生の一人である。S大学に入学した由香里を待っていたのは、受験中の甘い幻想を全く逸脱することの無い、夢の『キャンパスライフ』であった。週三回以上の飲み会に、酒と性に爛れたサークル活動。単位より、アルバイト代とSNSのいいね稼ぎに奔走する日々。
取っかえ引っ変えした彼氏は、現在で五人目だ。順風満帆だった彼女の学生生活は、四年目にして益々の追い風を受けていた。
教授の運転するバンの中、由香里は内定先である大手薬品メーカーからのメールを眺めていた。就職は、驚くほど難なく終わった。元々、由香里は昔から人とコミュニケーションをとることが得意であり、面接の類も苦手ではなかった。外面取り繕うことに彼女は何の抵抗も覚えなかったし、彼女を担当した面接官は、皮肉にも彼女の言葉に嘘偽りない誠実さを感じていた。
「内定先から?」
ふいに、横に座っていた青年から声を掛けられる。由香里は彼の言葉に、微笑みで応えた。
「そ。あっ―と驚く、■■製薬から。まだ社員じゃないんだから、研修のメールなんて送ってくるなっての」
薬さじ一杯分のアイロニーを込めて、メールを『お気に入り』に転送すると、由香里は青年の肩に頭を預けた。彼女は整えられたセミロングを揺らすと、付き合い始めて数ヶ月のパートナーに甘えてみせた。
「幸樹はコンサルでしょ?給料いいんだっけ?」
「おうよ。オフィスは渋谷だし、将来はタワマンでパーティ三昧的な?」
「楽しみにしてる。期待はしないけど」
「なんでさ」
由香里の現在の交際相手こと、齋藤幸樹。彼は大手食品メーカーの役員を父に持つ、選りすぐりのエリートであった。由香里とは大学一年生の時から知り合いで、お互いに交際相手を次々と乗り換え、収まるべくして収まった形になる。
そんな二人は、示し合わせてこのゼミを希望し、高い倍率にも関わらず、まんまと入ってのけたのだ。
狙いは勿論、華々しい自身の日常を『研究活動』などという無価値で不快なものに阻害されない環境と、フィールドワークと称した、この旅行である。
吉村教授は、その専門の性質上、日本各地の村落に精通していた。それらの中には勿論のこと、広大なインターネットの検索にすら引っかからないような、隠れた名所も存在する。そういった場所には大抵、長い歴史や龍神伝説などの民間伝承が付き物であり、学術的な面でも魅力的な場所である。そういった都合で、実態は学生の乱痴気騒ぎであるこの研究旅行も、辛うじてアカデミックな意義を持つと言えるのであろう。
ゼミのメンバー全員で話し合った結果。由香里の鶴の一声により、今回の旅行地は山梨県山中のとある温泉地に決定された。車でしか辿り着けないその村は、近隣の著名な集落の影響で民放テレビ局も近寄らないため、グーグルマップと地図帳でのみその存在を確認することができる『秘境』であった。
この時期は子供の休みに合わせて帰省を考える者も多く、高速道路はやや混雑していた。長らく中央道を走行していたバンは漸く停車し、由香里たちは茹だるような夏空の下へと降り立った。
「暑いね」
中央道を降り、バンは寂れたコンビニエンスストアに停められた。ゼミの主であり、引率の吉村は少し伸びをすると、額の汗を拭った。
「もう少し走るから、君たちもトイレを済ませるなり、飲み物を買うなりしなさい。山道に入るから、軽食を買うなら程々にしておきなさいよ。『コンビニ袋』の世話になりたくなければね」
学生たちは軽快に返事をすると、我先にとコンビニエンスストアに吸い込まれていった。
「それにしても、暑いな」
吉村は学生たちの後ろ姿を見送ると、スマートフォンの天気アプリを起動した。気温は凡そ三十五度。夏の山梨県にしては平凡な気温だが、それもここ最近に限った話である。
数年後には還暦を迎える吉村からすれば、ここ数年間の夏はかなり堪えた。技術の進歩により高性能なエアコンが登場したとしても、彼のノスタルジーの中に根ざすセピア色の夏は、もう少し涼しいものであったに違いない。
「運転、お疲れ様です」
ふいに―吉村の前に、冷えたペットボトルが差し出された。彼はまだ露に濡れたそれを受け取ると、少し驚いたように差し出し主を見つめた。結露によって艶やかに濡れた白く細い手の先、黒髪の女性が小さく微笑む。
「私の奢りです、先生」
少女の涼しげな声色に、吉村も顔を綻ばせる。
「ああ、いいのかい。ありがとう、藍沢さん」
くすりと笑い、彼女はバンに戻ってしまう。吉村は少し照れくさそうに口元を歪めると、ペットボトルの蓋に手を掛けた。
彼女の名前は藍沢桜。名門S大学に首席で入学した才媛であり、吉村ゼミ所属の学生であった。入学当初は医学部であり、医学系の権威ある国際学会でも一目おかれた秀才として知られていた。文武に美貌に何かと目立つ彼女は、学内では良い意味でも悪い意味でも有名人であった。
学部の主任を務める吉村は、桜から『転属のご相談』というメールが送られてきた時、ノータイムでメールをゴミ箱へと叩き込んでしまった。差出人欄の『藍沢桜』という文字列を見た瞬間、新手の詐欺か学生の悪戯と判断したからだ。そして後日、本人が直接ゼミを尋ねてきた際には、腰を抜かしかけてしまった。
「…何か良い、転機となればいいんだけど」
例年、代わり映えのない陽気な学生で占められていた教室に、吹き込んだ爽やかな冷風。芽生えた変化の兆しに、吉村は少しばかり期待していた。
店員を除き凡そ人の気配がなかった店内は、数人の学生によって瞬く間に喧騒に包まれた。
トイレを済ませ、特に買うものもなく店内を物色していた由香里の目に、一人の女性が映り込む。
艶のある長い黒髪を嫋やかに揺らしながら、その女性は初老の男性に飲み物を差出した。別に珍しくもない光景であったが、由香里にはその姿が甚だ醜く映った。
「由香里、何見てんの?」
背後から声を掛けられ、由香里は肩を跳ねさせた。聞き慣れた声に振り返ると、友人の木村が怪訝な顔を浮かべていた。
「藍沢。また吉村に媚びちゃってさ。慣れてんのかな―知ってる?藍沢がパパ活やってるって噂。六本木で『パパ』を取っかえ引っ変えしてるらしいよ」
実際には幾分か尾鰭の付いた噂を、由香里は衒ってみせた。木村も聞き及んだことがあるのか、彼女は下卑た笑いを浮かべながら鼻で笑った。
「あーね、確かにやってそう。…それよりもほら、皆で今日の夜飲むお酒選んでるからさ、由香里も選びなよ」
由香里は頷くと、木村に続いた。
田舎にも拘らず―『田舎だから』かもしれないが―缶酎ハイのコーナーは、それなりに充実していた。色とりどりの缶を眺めながら、Tシャツにホットパンツの今どきな女学生は思案する。木村は軽めのビールとジュース同然の酎ハイを一缶ずつ両手に把持すると、さっさとレジへ向かってしまった。ビールはあまり好きではないので、結局由香里は『いつもの』を手に取ることにした。度数は九パーセント、ウォッカ・ベースの淀んだ退廃。それは、彼女の爛れた青春の味であった。
道程は山道、それも中々の悪路に差し掛かった。がたりがたりと車が跳ねる度、車内には笑いが起こる。
「やば、エグいて笑」
「ストーリー上げるから、こっちちゅうもーっく」
木村の方に、運転手ともう一人を除く一同の視線が集中した。
「山でーす!」
「言いたいことはマウンテンマウンテンだけども!」
「ちょ、つまんな!」
振り向いておどけた男子学生を、齋藤が後ろから叩いた。同時に、がたんと一層車が揺れ、撮れ高も十分。木村は鼻息荒く、それをSNSに投稿した。
「…あー」
華やかな車内の雰囲気を切り取った動画の中に、不愉快な存在が一つ。投稿した後に気が付き、木村は舌打ちした。
「スタンプで消しとくんだった」
「何がー?」
由香里は木村のスマホを覗き込んだ。しかし、揺れる車内では木村が噛み潰した苦虫の所在は掴めず、由香里は自身の端末を使う羽目になった。
「私は違うアピとかいらないんだけど。つまんないよー?」
木村の言葉を、桜は完全に黙殺した。動画の中で唯一桜だけが、彼女のスマホに顔を向けなかったのである。
それは至極当然のことで、ワイヤレスイヤホンのノイズキャンセリングを使用していた桜には、木村の声など文字通り耳に入らなかったのだ。
そんな事情は露知らず、尚も無視され続けていると勘違いした木村は、聞こえよがしに舌打ちした。
「何なの、何か言いなさいよ…!」
「はいはい、空気悪いよー!山なのに!なんちて」
そう言って場を収めたのは、彼女たちの中で唯一一留している、高橋だった。ひょうきん者でひとつ上の高橋は、木村と桜が衝突する度に仲裁していた。そのせいで木村からは相当に嫌われているが、本人は自覚していない。
「高橋さんエグいて笑」
「さすが笑」
険悪になり掛けた雰囲気を、高橋をダシにして取り直す。傍からすれば空虚なコミュニケーションの中でも、それぞれが頭を働かせ、気を回していた。