表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/45

16話 藍沢家の家紋

  どれくらい気絶していたのだろう。桜は、泥の中で体を起こした。頭が割れるように痛い。全身、打撲だらけだ。左腕は、熱を持っていた。折れてはいないが、痺れて上手く動かせない。


  既に夜の帳は降りて、冷たい雨が降っていた。


 「寒い…」


  彼女はぬかるんだ地面の上で、雨に打たれ続けてしまった。故に真夏にも関わらず、桜は凍えてしまっていた。


  落下の衝撃による脳震盪が収まっていないのか、桜は三回立ち上がり、三回転んだ。四回目の挑戦で何とか二本の足で地面を捉えることには成功したものの、その足取りは覚束ない。桜は体を引き摺りながら、木陰を目指すことにした。元より心許ない月明かりは暗い雲に隠され、周囲の様子は全く掴めない。


  獣たちの息遣いが、近くに聞こえる。野犬注意の看板を思い出し、桜は泣きそうになった。


  思えばこの村に来てから、何から何までが踏んだり蹴ったりだった。由香里に背後からぶつかられたことを皮切りに、古民家では老婦人を怒らせ、宿ではスマートフォンを部屋に忘れた。今日に限っては、このザマである。運良く司法試験に合格した際に、自身の豪運は底を着いてしまったのだろうか。


 「はは…」


  桜の口から、自嘲の声が零れた。


  丁度いい岩壁に、桜は寄りかかった。


 「菊…」


  疲労と体温の低下による猛烈な眠気が、桜に襲いかかった。


  仮にもう一度、幸せな夢を見てしまうようなことがあれば、自分は二度と目を覚ますことはないだろう。桜の脳裏に、不吉な予感が過ぎった。


 「菊、お姉ちゃん、頑張ったよ…」


  まだ何も成していないにも関わらず、桜の心は達成感に満たされていた。それは逃避であり、現実の拒絶であることを分かっていても、困憊した脳から放出される暴力的な脳内麻薬が、彼女の精神を蝕んでいった。


  そう言えば、先程のあれは何だったのだろうか。体を動かす余裕を喪失した代わりに、桜はぼんやりと思索を巡らせた。


  化け物、と呼称してもいい。何にせよ、非科学的な存在の群れに襲われた。


 「ははは…」


  この世は、科学だけが支配している訳ではない。桜は、そう確信した。菊の体は、呪いに蝕まれている。その可能性は、ゼロではない。それどころか、五分の段階まで来ていると考えてもいい。


  それが、何だというのだろう。


  呪いを祓えるような力は、桜にはなかった。そして、必死の思いで形成した、グローバルなコネクションの中にすら、存在する可能性は限りなく無いに等しいだろう。


 「…はは」


  全てが、馬鹿らしくなってしまった。大人しく、彼処で死んでいたなら。幸せな夢を見ながら、死ねたのではないか。


  これだけ頑張って、やっと手にしたのは、ただの可能性。寧ろ、現代科学の光が全く及ばない深淵がこの世に存在するという、最悪の事実。そして、菊はその深みに呑まれているのかもしれないのだ。


 「菊。お姉ちゃん、どうすればいいんだろ」


  痺れた左腕を、桜は右腕で慰めた。そうすることで、少しでも無力感を遠ざけようとした。


  打撲で麻痺したと考えていた左腕には、肩の方から血が伝っていた。


 「…ああ」


  桜の指ほどの太さの枝が、肩の中心に突き立っていた。


  彼女がS大学に入った頃。桜は、外科を志望していた。熱心に学んだ講義の中で、刺傷については、無闇に抜かないこと―そんなことを学んだ気がするが、初歩的な事すら思い出せないほどに『藍沢桜』は摩耗していた。


  彼女はハンカチを噛み締めて、その枝を力任せに抜き取った。耐え難い痛みと共に、どろりと生暖かいものが零れた。桜は左腕をだらりと垂らすと、傷口を圧迫し止血することもせず、ハンカチを無造作に投げ捨てた。


 「…少し、疲れたな」


  彼女は、そのまま瞳を閉じた。深く深く、意識が生温かい泥の中に沈んでいく。


  彼女の血液はどくどくと流れ、左手を伝い、岩肌に落ちた。血は更に岩肌を伝いながら、一つの模様を形成する。


  青白く輝いたそれは、桔梗の花。藍沢家の、家紋であった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ