15話 犠牲者
吉村は、絶句した。
文字通り、全く言葉が出なかったのである。
彼はぱくぱくと陸に上がった魚のように口を開いたり閉じたりすると、酸欠のあまり昏倒しそうになった。
木村は、何者かに首を折られて死んでいた。そして、高橋が言うには、それは藍沢桜による犯行だった。
「…高橋くん、警察に電話してもらえるか?」
ようやくそう声を絞り出すと、吉村は木村の亡骸を抱きかかえて泣きじゃくっている由香里を、今朝まで教え子だった肉塊から引き剥がした。
「有村さん。気持ちは分かるが、警察が来た時に困ってしまう」
由香里は吉村を睨みつけると、ヒステリックに叫んだ。
「警察!?そんなの必要ないじゃない!やったのは藍沢なんでしょ!」
吉村は言葉に詰まった。
何故、桜が犯行に及んだのか。吉村にはそれが全くわからなかった。常に冷静で分別があり、先を見据えて行動できる。藍沢桜は、そういう人物であったはずだ。
まさか、研究旅行から人死が出てしまうとは。吉村は現実が受け入れなれなかった。学者生命、娘の学費、責任問題、来年度の予算、賠償…。様々な言葉が、吉村の脳内を掻き回した。
「高橋くん、藍沢さんはどこに?」
携帯電話を必死に弄っていた高橋は、山道を指さした。
「あそこから逃げていきました」
それより先生、と震える声で高橋が続けた。
「ここ、圏外になっています」
吉村を始め、彼らは一斉にスマートフォンを見た。そして全員が、外界との連絡手段を失ったことを確認した。
「…わかった、取り敢えず下山して…」
吉村の言葉は、茂みからの呻き声によって中断された。飢えた獣の声。数頭の野犬が、姿を現した。
「ひっ…」
野犬たちのぎらぎらと血走った瞳に当てられ、野本は再び失禁しそうになった。幸い、彼の膀胱の中身は全て空になっていた。
いつの間にか、晴天だったはずの空は、厚い雲に覆われていた。今にも泣き出しそうな空に、黒衣の烏たちが旋回していた。
「木村さんを置いて、下山しよう」
吉村がそう言うと、由香里は首を強く横に振る。
「有村さん!」
「由香里…!」
吉村と齋藤に手を引かれてもなお、由香里はその場から動こうとしなかった。
痩せこけた野犬たちが、理性の欠片もない双眸を光らせながら、ゆっくりと距離を縮めてくる。吉村は、由香里に諦めるよう諭した。
吉村を無視して、彼女は尚も木村を抱き締めて離さない。時折、彼女は何かを妄執して、意固地になることがあった。今回も、その発作が出たようだ。
「由香里…!」
「んむっ…」
だから齋藤は、由香里の唇を奪った。突然のことに、由香里は目を白黒させた。齋藤の生暖かい舌が、彼女の舌にねっとりと絡む。
「…ぷはっ」
最高。我を取り戻した女は、そう思った。
彼は、私の気を引くために、私の唇を奪ったのだ。タールのような欲望が、由香里の内―彼女の心の奥深くから溢れ出す。
とても、好みの男だ。知り合いの中には、とても彼のような男はいない。欲しい、齋藤が欲しい。この男が、永遠に、私の―私だけのモノになればいいのに。
「逃げよう、由香里」
自分だけの王子様が、その整った顔面で自分の名前を読んだ。この瞬間だけは、由香里の思考回路は木村のことを計算から除外していた。
「…うん」
傍目から見れば齋藤の行為は完全に奇行の類であったが、畢竟彼の行為は正しかったと言える。齋藤のおかげで、由香里はようやく冷静になることができた。
彼女は子鹿のように立ち上がると、齋藤に支えられながらもふらふらと歩き出した。野犬の群れは、彼女たちのすぐ側まで距離を詰めていた。
「よし、じゃあ下山しよう。私から離れないように」
そう言って、吉村は歩き出した。由香里は最後に振り向いて、木村の亡骸を見た。
可哀想な瑞希。彼女はこれから、野犬たちに、烏に、蛆に、食い荒らされるのだろう。全ては、あの女のせいだ。
「藍沢…っ」
憎しみを込めて、由香里は桜の名前を呼んだ。
山道を暫く歩き、そろそろ村が見えてくると思った矢先。野本は、絶望のあまりまた失禁しそうになった。今度は、後ろの穴からである。
山道は、途中で崩落していた。これでは、村に戻ることができない。
「何だよ、これ」
廣瀬が呻いた。崩落した山道の手前、そこには確かに、乱闘の形跡があった。
夥しい数の人間の足跡が、ぬかるんだ地面に残っていた。その他、這いずった後や、吐瀉物に血痕、そして何より、千切れた金色のぼろが散乱していた。
「落ち着いてください。この近くは熊が出ます。人里近くに降りてくることは稀だとしても、です。きっと、誰かが熊に襲われ、そして崩落に巻き込まれたのでしょう」
吉村は、ぺらぺらと一息に喋った。全てが出任せだが、学生たちを落ち着かせるには効果があった。
「熊が出るのは不味いですね。音を立てながら、迂回しましょう」
まだ通れる道はないこともない。吉村は学生たちに熊避けをさせながら、再び歩き出した。
暗澹とした空からは、ぽつりぽつりと雫が落ち始めていた。




