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13話 神仙さま <中編>

 「藍沢さん…?」


  彼は血の気を失った顔で、桜と木村を交互に見比べた。あらぬ方向へ首を曲げ、血だらけで横たわっている木村。そして、両手を木村のものと同じ赤に濡らしながら、彼女の首筋に手を当てていた桜。


 「違う、違います…」


  絞り出されるように、桜の口から漏れた悲鳴は、否定の言葉だった。桜の聡明な頭脳をもってしても、今の彼女にはこれしか言葉を紡ぐことができなかった。


 「俺…藍沢さんを呼びに来て…」


  高橋は、ふらふらと腰を抜かした。


 「そしたら、木村さんが死んでて…」


  彼は震える指で、桜を示した。


  桜には、動機がある。昨晩の剣幕、見たこともない、桜の苛烈な側面。高橋のシナプスが一つの結論を弾き出すのに、そう時間は必要でなかった。


 「ひ、人殺し!」


  大声で、高橋が叫んだ。彼は喚き散らすと、滝の上にいる友人たちに呼びかけた。


 「助けてくれ!誰か、誰か!」


  桜は、呆然としていた。高橋の行動と思考は、全く桜の予想通りであったにもかかわらず、である。


 「違うんです、私じゃ、ないんです」


  震える声で、桜はそう言った。


  驚くべきことに。意識こそ呆然としていながら、彼女の優秀な演算回路は、この危機的状況下においても、最大のパフォーマンスを以て現状把握に努めていた。


  検討されるべき要素は五点。一つ、ここには自分と高橋しかいない。二つ、高橋は木村が自殺した瞬間を見ていない。三つ、殺害動機含め状況証拠は揃っている。四つ、自分は木村の首に触れてしまった。五つ、自分が塀の中に入れられるようなことがあれば、菊は助からない。


  フルオートで演算と予測を繰り返していた桜の頭脳であったが、心的ストレスによる極度の緊張の影響か、彼女のメイン・コンピュータは最低最悪の一手を選んでしまった。言い換えるなら、その一手を選んでしまうほどに、桜は追い詰められていたのだ。


 「違う、私じゃない、私じゃない…!」


  そう無実を訴えながら、彼女の体はその場からの逃走を選択した。藍沢桜は、法にも明るい。その場から逃げるより、時間をかけてでも無罪の主張に徹した方が、遥かに有利であると分かっていた―にも関わらず、桜は弟のため、逃げずにはいられなかった。


  叫び散らす高橋を背に、桜は駆け出した。山道に入り、必死の思いで走る。


  逃げると言っても、一体どこへ。その疑問を、桜は懸命に押し止めた。もう、何もかもが遅い。初手で逃避を選んでしまった時点で、彼女には何処へなりとも逃げ続ける以外に選択肢が残されていなかったのだ。


  走る、走る。息が切れ、心臓が早鐘のように打っても、足を止める訳にはいかない。鉛のように重くなる足を回して、回して、ひたすら回す。


  かつり、と何か固いものが足に激突する。山道から顔を出していた岩に蹴躓き、桜は土の上に両手を付いた。


 「あ…」


  危うく、彼女は山道から転落するところであった。山道はぬかるんでおり、迂闊に端に立とうものなら、土砂崩れを起こす危険性がある。


  視線を落とす。錆色にじっとりと濡れた、自身の華奢な両手。桜は、か細い声で、現実を拒絶した。


 「どうして」


  どうして、こんなことに。精一杯、精一杯やってきたのに。何も、報われない。このままでは、菊も、自分も、誰も救われない。


  彼女の心は―どんな状況でも、諦めずに前を向き続けていた彼女の鋼の精神に、罅が入る。現実が、空から重くのしかかる。


 「うぅぅ、うぁぁぁぁ!」


  ぎゅっと、土を握りしめた。彼女は、金切り声を上げ、力任せに土塊を叩き壊した。そうしなければ、先に壊れていたのは彼女の心であった。瘋癲に駆られた桜は、何度も何度も、繰り返し両手を地面に打ち付ける。小さい石の破片が刺さり、木村の血と自分の血が混ざる。耐え難い腐臭は、段々と強くなってきた。気持ち悪さと、悔恨と、行き場のない怒りに打ちのめされて。彼女は服が汚れることも厭わず、地面に突っ伏した。


  ぬかるんだ臭い赤土は、少女にとって不愉快そのもので。彼女は、全て忘れて眠ることすらできなかった。桜は、この土地にも嫌われていた。


 「贄、だ」


  ふと、声をかけられて。桜は弾かれたように顔を上げた。




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