12話 神仙さま <前編>
鬱蒼と茂るシダ植物に、大きな蜘蛛が這っていた。湿気に濡れた地面には、黒光りする虫が足の踏み場もなく闊歩している。
桜は、頭を抱えた。どうして、こんなことになってしまったのか。桜の手は、血に濡れていた。ぽたりぽたりと零れるものは、彼女自身から出た赤ではない。それは、木村瑞希の血液だった。
よくやった、と頭の中で声がする。
私じゃない、と彼女は力なく反論する。
巡り巡り思考が回転し、桜は混濁の中を押し流されるように―掻き分けるように、歩いていく。
事態は、数分前に遡る。
廣瀬が発見した滝上への道。桜はさほど興味を惹かれず、その場に残ることにした。
普通の人間からすれば、ここは気持ちの良い場所である。空は蒼、水は清い。そよ風に揺れる青々とした木々の葉は、互いを擦り合わせることで心地よい音楽を奏でている。
「うっ…」
胃の中身をぶちまけたい衝動に駆られ、桜はえずいた。昨晩、海咲たちが言っていたことが、桜はようやく理解できた。
ここは、臭すぎる。異常なまでの、『死』の臭気。夥しいほどの腐乱した死が、桜の足元に満ちている。桜には霊感がない。霊感など、欠片も持っていない―そのはずであった。
いつの間にか、同僚たちは姿を消しており、その場には桜一人だけが残されていた。
「おえっ…」
吉村たちがいなくなったことなど、桜にとっては最早、意識の枠を割くほどの事柄にはなり得なかった。それよりも、何よりも、ただ強い吐き気が桜の脳内を支配していた。彼女は自身が、この世界から拒絶されているかのような錯覚を覚えた。
意識すればするほど、耐え難い気持ち悪さが臓腑の奥から立ち上ってくる。山道を歩いている時から感じていた悪寒が、ここへ来て頂点に達していた。
一刻も早く、この場所を離れた方が良さそうだ。
桜はスマートフォンを取り出すと、高橋にメッセージを残そうとした。
「藍沢」
背後から声を掛けられ、桜は振り返る。
そこには、由香里たちと共に滝の上に向かったはずの、木村瑞希が立っていた。
彼女は正気を失ったような笑顔を浮かべており、焦点の合わない瞳で桜を見つめていた。
「…木村さん。接触は禁止されたはずでは?」
木村の尋常ではない様子に気圧されはしたものの、桜は気丈に言い放った。
木村は何がおかしいのか、けたけたと虚空を見つめて笑いだした。
「贄、だ」
「…はい?」
彼女の言っていることが分からず、桜は聞き返した。
木村は、今何と言ったのだろう。
ニエ、と言ったのか。
混乱する桜の頭に冷水を浴びせるように、木村が一歩進み出た。
「…っ、近づかないで!」
桜はそう叫んで、両手を前に押し出した。木村は桜の言葉を意に介さず、真っ直ぐに歩み寄ってくる。
理性の光を失ったままの混濁した瞳で、木村は自らの手の甲を掻きむしった。痒いのか、それとも『痛い』のか。執拗に、執拗に。血が滴り河原の石に赤い染みを作るまで、木村は手の皮を剥がし続けた。
「ひっ、来ないで…!お願い…!」
恐怖と困惑で、桜の脳は忽ち機能不全に陥った。彼女はか細い声でそう告げると、木村に背を向けてその場から逃げようとする。
鈍い、音がした。
血に濡れた両手で、木村が自らの頚椎をへし折ったのだ。通常なら彼女が絶対に行使出来ないような、人間離れした怪力。薄ら寒い笑顔を貼り付けたまま、木村は自身のまだうら若い生命を、渾身の膂力で断ち切った。
「いひ、いひひひ」
生きているのか死んでいるのか、それとも生死の狭間で、人ではない別のものになろうとしているのか。木村の不気味な嬌声が、腥く湿った空気に木霊する。桜は反射的に、木村の方へ駆け寄った。
「木村さん!」
桜は木村を抱き起こし、懸命に声をかけるが、全てが遅かった。桜は木村の首筋に手を当てる。脈は、辛うじて残っていた。しかし、木村の細い首は回復不可能な方向へとねじ曲がっており、狂気に支配された瞳は、段々と力を失っていった。
「何、何が起こっているの…?」
恐怖より疑問が先んじて、桜は目を泳がせた。その定まらぬ視線の先、滝上への道から、高橋が姿を現す。
およそ考えうる中で、最も悪い状況だ。桜は無意識に下唇を噛み締めていた。




