9話 桜の内に巣食うもの
夕食は、各部屋ではなく大広間で摂ることになっていた。由香里たちは目の前に料理が運ばれると、喜び勇んで食べ進めた。
「最高~!」
「それな!」
由香里の感嘆の声に、木村が追随した。彼女たちは、獅子織村の誇る新鮮な山の幸と、地酒を思いきり堪能していた。
中でも、川魚の塩焼きは絶品だった。女将曰く、この近くで採れる特産の魚であり、脂の乗った白い身に柚子胡椒を付けて食べれば、忽ち舌がとろける、との事である。獅子織様が祀られている、獅子織滝の奥で湧く清水が魚の生育に良いらしい。女将は、是非そこに足を運んで欲しいと熱弁していた。
「藍沢さん、魚、美味しいですね!」
隣に座っていた男子学生―野本にそう言われると、桜は困ったように笑った。
由香里たちは川魚を喜んで食べていたが、唯一桜だけは、川魚に手をつけることを渋っているようであった。
「すみません、野本さん。私、ちょっと川魚は苦手みたいで…。少しだけ箸をつけてしまいましたが、もし宜しければどうぞ」
「いいんですか!ありがとうございます!」
野本は喜んで桜から川魚の塩焼きを受け取った。どちらかと言えば、彼にとっては塩焼きそのものより、桜の食べかけという方が価値ある要素であったのだが、その辺に鈍感な桜は全くと言っていいほど気にしていなかった。野本に対し、吉村を除く男性全員からの視線が突き刺さったが、彼は気にしないことにした。
「そういえば」
給仕をしていた女将に、一同の視線が集中する。
「明後日は、お祭りがあるんですよ」
女将がそう言うと、学生たちは大いに盛り上がった。村外れの大きな神社で、昼から縁日をするらしい。旅程的には既に村を発たねばならない時間であるが、学生たちにせがまれて吉村も渋々承諾していた。
「お祭りだって!エモみじゃん!」
「それな!」
由香里たちは、各々祭りに思いを馳せながら、朗らかな団欒の時間を過ごしていた。
「女将さん、お祭りは何がメインなの?お神輿?盆踊り…はまだちょっと早いか」
学生の一人、廣瀬に訊ねられて、女将は笑顔で答えた。
「ええ、ええ。お祭りは盆踊りがメインイベントです。獅子織様と神仙様に納めるために、日の入りから、日の出まで踊り続けるのですよ」
「ははあ、神に奉納する、きちんとした盆踊りなのですね。それは、神社の裏などではなく、表でやるのですか?」
女将の話が興味深かったようで、吉村も食い付いた。彼の言うように、盆踊りには二種類がある。一つは祭りの中心の櫓で音楽を掛けながら踊る、所謂普通の盆踊り。もう一つは、神事として神社に祀られた神に奉納するものである。後者は通常公開されず、神主を含めた数人で、人目につかない場所でひっそりと行われることが多いとされている。
「ええ、そうですね。獅子織様に祈りを捧げるために、村全てを挙げて盛大な盆踊りを行います。獅子織様は、村に富と雨をもたらして下さいました。時として荒御魂となりましたが、その度に祭を執り行って鎮めてきたのです」
「ははあ、それは…」
吉村は益々興味が出てきたようで、女将の話を熱心に聞いていた。
「というか、先生知らなかったんだ」
由香里がそう言うと、女将は快活に笑った。
「おほほ。広く喧伝しているものでもないですし、特に祭りは九年に一度なのですよ。ですから、吉村先生がご存知なくても、無理はないかと…」
「すみません、勉強させていただきました」
「あはは」
一同が笑っていると、桜が水を差すように手を挙げた。
「あの、女将さん。一つ、お聞きしたいことが…」
「…?はい、なんでしょう」
桜の改まった態度に、女将は怪訝な顔をした。
「その神社は、獅子織様を祀っているものですか?それとも…稲荷神社ですか?」
桜の問いかけに、吉村を含めた面々は困惑した。女将が散々獅子織様に向けた祭りだと説明しているのに、何故桜がそのようなことを言い出したのか理解出来なかったからだ。
当の女将は、小首を傾げながら答えた。
「はて、神社そのものは、獅子織様を祀っていますが…。いえ、そうですね。本尊の裏に、お稲荷様を祀った祠があったはずです。それが、どうか致しましたか?」
女将に対し、桜ははっとしたような表情で固まった。暫く硬直した後、彼女は微笑みと共にお礼の言葉を述べた。
「…いえ、なんでもありません。教えて下さり、ありがとうございます」
桜は、それっきり言葉を発しなかった。
由香里と木村には、その態度が甚だ気に入らなかった。
「それで、首席入学の天才藍沢さんは、一体何を知りたかったの?」
「ええと…そうですね。獅子織様の正体、とか」
正直にそう述べた彼女に、木村は食ってかかる。
「獅子だって言ってたでしょう?稲荷神社はどこから出てきたの?」
「…ええと」
棘のある木村の口調に、桜は困ったように笑った。彼女は箸を止めて、斜め向かいに座っている木村を一瞥する。嘲るような表情で、彼女は桜を見つめていた。
高橋がいつものように場を取り直そうとするが、彼は木村に睨めつけられ、動けなくなってしまった。
「だから。聡明たる藍沢様の素晴らしいお読み通りに、稲荷神社があったみたいだけど。それが?」
「こら、二人とも。そこまでにしなさい」
流石に、吉村が割って入る。しかし、彼のその行為が余計に木村を焚き付けてしまった。
「また、私はあなた方みたいな凡百とは違いますアピール?私は解ってます、的な?キモいんだよ。ウザいんだって言ってんの」
「木村さん、二回目だ。やめなさい」
今度は、吉村が低い声色で言った。由香里の横で、齋藤や廣瀬はただ木村の剣幕に気圧されていた。
「…不愉快にさせたのなら謝ります。ごめんなさい。今後は、気をつけます」
その場を収めるために、桜は譲歩することにした。彼女は木村に頭を垂れると、許しを乞うた。
しかし、木村は攻撃の手を緩めることはなかった。奇貨居くべしとばかりに彼女は桜を鼻で笑うと、傲然と言い放った。
「で、この場は謝って逃げるつもり?流石、不気味な写真を待ち受けにして悦に浸ってるような女は違いますねー。はは、キモいのはスマホの待ち受けだけにしろよ。何あれ?化け物の生ハム?」
どろり、と桜の奥底から、黒い何かが溢れ出した。彼女がこれまでの人生で徹底的に押さえつけてきたそれは、彼女の理性の抵抗虚しく、深淵から無慈悲に滲み出してくる。
「ははあ、何ともこれは、失礼ながら、おぞましいですね」
病室に足を運んだ外科医は、菊を見るなりそう言った。
「あそこのお姉さん、可哀想ね。あの薄気味悪い病気が、お姉さんにまで伝染らなければいいけれど」
隣の個室を担当する看護師は、影でそう囁いていた。
愛想笑いで、誤魔化してきた。ずっとずっと、我慢してきた。愛する弟に、弟のために尽力する自分に向けられる、鋭利な言葉の刃。桜は、それが何よりも嫌いだった。
黒いヘドロは、次々と溢れだしてくる。一度ならず二度も、彼女は菊を侮辱したのだ。
長い葛藤の後、桜は低い声色で木村を威嚇した。
「訂正しろ」
予想外の反応だったのか、木村は驚いたように切り返した。
「はあ?何を?待ち受けがキモいこと?」
木村の態度に、堪忍袋の緒が切れた。
桜は立ち上がると、木村を睨みつけた。桜は彼女から最も遠い位置にいた女将の耳にすら入るほど、大きな音を立てて歯を食いしばった。
何度挑発しても食いついてこなかった、仇敵藍沢桜の余裕のない表情に、当の木村は高揚を抑えきれなかった。彼女は自らが捕食者だと言わんばかりの獰猛な表情を浮かべると、桜の激情を煽り立てる。
「は?何マジになってんの?キモ原木で弄られんのそんなに嫌?」
「訂正しろと言っているんだ!」
目に涙を浮かべながら、桜は激昂した。癇癪を起こした子供のように、桜は叫ぶ。
その情けない姿を見て、木村は勝ちを確信した。
「やめないか!」
吉村がかつてないほど声を張り上げた。木村は小動物のようにびくりと体をはね上げると、吉村の方を見た。
「何だか知らないが、これ以上藍沢さんを傷つけるのはやめなさい。それに」
吉村は立ち上がると、女将に頭を下げた。
「すみません、うちの馬鹿共が。私の教育不足です」
女将は困ったような顔をすると、愛想笑いをして立ち去った。見方によれば、大広間にいた人間で最もストレスを受けたのは、彼女だろう。なるべく足早に、彼女は大広間を後にした。
「やるなら他所でやるといい。食事も不味くなるし、何よりも他の人に迷惑がかかる」
吉村が指し示したのは、少し離れたところで食事をしていた海咲たちである。二人は分かりやすく顔を顰めて、由香里たちを眺めていた。
「…すみませんでした」
木村は渋々といった体で吉村に従った。唯一未だ臨戦態勢だったのは、桜一人だけだ。
「…謝れ」
彼女は立ち上がったまま座ろうともせず、木村を睨みつけていた。
「謝れって、言っているのよ…っ!」
しつこい上に、気持ちが悪い。焚き付けたのは自分―それは、分かっている。しかし彼女は桜ほどではないが聡明であり、引き際は見極められる。それ故に、藍沢桜という浮世離れした女の異常性に、木村は正直なところ辟易した。
「藍沢さん。気持ちは分かるけど、いい加減に…」
吉村も立ち上がり、桜を座らせようとしたが、彼女は全く応じようとしない。桜は吉村の腕を払い除け、配膳をなぎ倒しながら今にも木村に掴みかかりそうな勢いであった。
■してやれ。
桜の中に巣食う『何か』が、彼女を唆す。
道具はある。箸で脳漿を掻き混ぜてやればいい。目玉を突き刺して、二回、三回。それで、お終い。お前を、弟を悪く言う人間に、何を遠慮する必要がある。
これまで、桜の『モラル』という表面張力によって、辛うじて封じられていた呪詛が、堰を切ったように際限なく溢れ出す。木村は不運であった。彼女は『藍沢桜』という器を用いた、チキン・レースに負けたのだ。
桜は、心の声に流されるまま。いつの間にか手の中にあった箸を、常軌を逸した怪力で握りしめて―。
「桜さん」
腕を振り上げようとした、その時。耳触りの良い声で袖を引かれ、桜は振り返った。それは正に、青天の霹靂のような一言で。煮えたぎり、泡を吹いていた桜の思考に、そっと刺し水がなされた。
肩で息をしていた桜を諭すように。海咲は、震えながらも箸を握っていた手を、そっと包んでやる。丁度、桜の『殺意』が他人から見えないように、自分の袖で隠しながら。
「こっち来て、一緒に食べましょう」
怒りはどこへやら、訳も分からず桜は目を白黒させる。そして海咲にぐいぐいと腕を引かれるまま、桜は海咲たちのテーブルに連れていかれた。
「すみません、うちの連れが勝手なことをして…」
誰もが呆然とする中、黒髪の少女が勝手に桜の分の配膳を運んでしまう。当の桜は海咲によって座らされ、ハンカチで顔を覆いながら、力なく肩を震わせていた。
「あの…」
急な出来事に我を失っていた吉村が、海咲に声をかける。海咲は溌剌と笑うと、吉村に言った。
「桜さん、お借りしますね。今日、仲良くなったので」
傲岸不遜で我儘に、あれよあれよと周りを押し流す。海咲は遂に、その場を収めてしまった。
「…はあ、その。藍沢さんをよろしくお願いします」
海咲はくすりと笑うと、由香里たちのテーブルを後にした。
その後ろ姿は何故か桜を想起させ。由香里は、海咲の存在が酷く気に入らなかった。




