プロローグ
鬼、それは、角を生やした者。
鬼、それは、異形の化け物の見た目である者。
鬼、それは、忌み、嫌われる者。
鬼、それは、人々が恐れる者。
鬼、それは、常に強者であり続ける者。
鬼、それは・・・。
山間から秋風が靡き、真夜中の冷たい風が肌を擦る。
上を見上げると、雲隠れの朧月夜が浮かんでいる。
風情のある情景とは裏腹に、この寒空の下、小さな集落で響き渡る人々の怒号と悲鳴。
集落の中央の広場にて、鐘を打ち立てる屈強そうな男の叫びが集落に響き渡る。
恐怖と焦りが入れ混じったようなひどい表情で喚き叫び、彼の声は緊張と恐怖をはらんでいた。
「魔物の大群だぞ!」
老若男女、集落に住む人々が家から飛び出た。矢先。
人々の視界に写る、絶望と畏怖の光景。それは平穏な日常を過ごす人々にとって、目を疑うものだった。
目の前の地平線に、恐るべき影が揺れ動くのが見えてくる。それは、集落に向かって続々と集まってくる異形の魔物たち。それらはまるで、影から這い出してきたかのように着実と姿を現わしていく。
豚のような頭部を持つ巨大な人型の魔物、体中の皮膚が焼けただれたような犬型の魔物、人が何人いても持てなさそうな棍棒を片手で持つ、一つ目の魔物・・・。
多種多様な異形象る魔物の群れが、目前まで迫っていた。
「男は武器を手に取って戦え!女子供は・・・」
男は、人々に指示を出そうとした瞬間、嗚咽のような声を出し、宙に飛ばされる。
血飛沫を撒き散らしながら。
男は背後まで迫って来ていた魔物に気付いていなかったのだ。
数秒後、地面に叩きつけられた人間の男だったモノがそこにはあった。
人々の恐怖は頂上に達し、逃げ惑う者、祈りを捧げる者、卒倒するもの、泣き叫ぶもの、呆然とする者と反応は様々だった。
しかし逃げ場はない。何故なら、既に集落は大量の魔物によって囲まれていたからだ。
次第に人々は、おしくらまんじゅうのように背を向け固まっていった。
手前にいた人間から嬲り殺されていく。巨大な爪で四肢を引き裂かれる者、直接手に取られ貪り喰われる者、所持した武器で突き殺される者。
「この野郎!」
一人のローブを纏った男が、杖のようなものを手に携え、先頭へ出た。
「お父さんやめて!」
どうやら父親は、凡そ十にも満たないようなこの少女の父親らしい。
父親は娘の声が聞こえたか聞こえていないのか、魔法の詠唱を始める。
周囲の人々は、男が魔法を使うことができるのを知っているのか、期待のこもったどよめきが走る。
しかし、その表情はどこか怪訝な顔をしていた。
周囲の魔物の足元に、黒色の複雑そうな魔法陣が次々と現れる。表情のわかる魔物は、少し不穏な表情を浮かべた。
「くらえ!」
瞬間、地面を伝う衝撃、そして爆風が吹き荒れる。魔法陣から次々と爆発が巻き起こったのだ。
黒煙から吹き飛ぶ魔物。人々のどよめきは次第に歓声へと変わっていった。
「俺らもやるぞ!」
囲んでいた魔物の陣に穴が開き、隙が生まれた。男たちは波のように突き進み、集落の武器庫へと駆けていく。一筋の希望が人々の気持ちに沸き起こる。
しかし、男たちは武器庫の前、地面の違和感に気がつかない。そこには、少女の父親が先程出した魔法陣に似たモノが、地面に出現していた。
少女の父親だけが、男たちが武器庫目前まで迫っていた頃、その地面の違和感に気づく。
「やめろ!行くな・・・」
武器庫の前についた瞬間、男たちを包む目を覆っても防げないであろう強烈な光。周囲の人々の体中に圧がかかるような感覚とともに、次に伝う、頭に重くのしかかる爆音。
数十秒はたったであろうか、男たちと武器庫があった場所には、大きな穴。男たちは消し炭の塵となり、跡形もなく消滅していた。
またしても巻き起こる、残った人々の悲鳴と絶叫。少女の父親はどういうことだと言わんばかりの呆然としたような表情を浮かべつつ、男たちのいたさらに先に視線を向ける。
黒煙が揺らぎ、その煙が薄くなってきたと同時に浮かぶ、先に佇む影。
体長は3メートルほどだろうか。少女の父親と同じようなローブを纏った、巨大な杖を持った魔物が佇んでいた。
爆発を齎した魔法陣を発動したのがこの魔物であることは火を見るよりも明らかであった。
周囲を囲む魔物は、その光景を見て高笑いをしていた。
そしてローブの魔物は杖を先の固まった人々に向かって振り下ろし、人ならざる者が出す雄たけびをあげた。その号令を見た魔物たちは、視線を集落の残った人々に向ける。
どうやらローブの魔物が、これらの魔物たちを引き連れてきたリーダーらしい。
「クソッタレ!ふざけるな!」
少女の父親は、背後の娘を守るように立ちはだかり、杖をもう一度構え、魔法を詠唱し始める。
しかし、すでに号令とともに動き始めた魔物たちに間に合うはずもなかった。
少女の父親の胸に突き刺さる刃、そしてその刃は頭に向かって引き裂いていく。
「ガハッ・・・」
そのまま頭部を引きはがし、首だけとなった人だったモノを上に掲げ、巨大な魔物は先ほどやられた魔物たちの仇をとったと言わんばかりの雄たけびを上げる。
そしてその周囲の魔物たちも同じように雄たけびを上げる。
次に標的になるのは、その背後にいた少女であるということは火を見るよりも明らかであった。
「そんな、おとうさん!」
少女は、父親だったモノに近づこうとするも、父親が目の前で壮絶な死を遂げる光景を見てしまった。そのため、少女のひざががくがくと震える。また、近づいてももう無意味だということを自分では理解しているため、動き出すことはできないのであった。そして魔物は、ニタニタと笑いながらゆっくりと少女に歩み寄る。
少女は一滴の涙を零すとともに、小さく、震えた声で呟く。
「誰か、助けて・・・お父さん、お母さん・・・、鬼さん」
それは、少女にとって、自然にでた言葉。
この集落には、昔から言い伝えや巻物で伝わる昔話に、いつも鬼がいた。
巻物にあるその鬼は、人ならざる禍々しい1本の角を額に生やしていたため、さらに鬼は、百人力にもなる力を宿していたため、常に迫害の対象であった。
その鬼を人々が協力して退治するといった内容である。
しかし、鬼がなにか、悪さをしたような描写はどの巻物にもなかったのだった。
ただ異形の化け物という見た目、その力の強さを持っているだけで、いつも人々の敵役であった。
実は、少女と父親は、魔法を扱う人であるというだけで、周囲の人間からは恐怖の目で見られ、忌み嫌われていた。
少女はいつも、その昔話に登場する鬼に自分を重ねていた。そのため鬼という存在をどこか心の拠り所にしていたがために、鬼に助けを求めたのだった。
そして魔物は別の武器、ハンマーのようなものを少女に対して振り上げた。
その魔物の背後、夜空の今宵の満月は、雲で隠れてしまっているのだった。
(最後くらい、お月様、見たかったな)
もう叶うことのない最期の願いを胸に抱き、数秒後に起こる死に対しての恐怖は、もはやなかった。
そして、覚悟を決めたかのように静かに目を閉じた。
しかし、少女に死が訪れることは果たして、なかった。
数秒後、少女の背後にいる人々のどよめき。
少女が目を瞬時に開けると、目の前にいた魔物の頬に向かって飛び膝蹴りを食らわす人影。
巨大な魔物は、手にしたハンマーを宙に投げ出し、30メートルほど先まで軽く吹き飛んでいった。
魔物は村の外、広い平野の地面に身を投げ出され、何度も回転しながら転がっていき、ようやく止まったころにはすでに絶命していた。
そして目の前に佇む、月明かりに照らされた人、いや鬼の姿。
伝承で伝わるような角、長い1本の角を額のデコ右側に生やした、鬼と呼ばれるものがそこにはいた。
しかし、肝心の姿形は、伝承とは打って変わって異形の化け物というにはほど遠いものだった。
見た目は人間の年で見るとまだ10代前半だろうか。
服装は、上は前が大きく開いた黒の羽織を着ており、胸にはサラシを巻いていた。下は膝丈ほどまでの蘇芳色の小袴に、足には下駄を履いていた。
そして、この地域では見ることのないような、腰まで真っ直ぐと伸びた綺麗な黒髪。そして、闇夜に光る、紅い瞳。
あの巨体を吹き飛ばせるほどの力がどこにあるのかと、心底想像もつかないような華奢な身体。
少女よりも幼く見える、童女の姿がそこにはあった。
「どうした、何を泣いている?そんなに涙を浮かべてたんじゃあ、この美しい満月も、目が霞んでロクに見れないだろ?」
目の前の小さな鬼は、軽く、無邪気に笑って少女に手を差し伸べる。少女はいつの間に腰が抜けて、尻もちをついていた。
そうして、涙が溢れるほど流していたことに気付いたのは、その小さな手を取り、立ち上がってからだった。
この鬼の童女の背後、夜空に浮かぶ泡沫の月は雲から顔を出し、月明かりが二人を照らす。
「こんなに立派な満月だ。静かに酒を飲みつつのお月見もいいけれど、こんな騒がしいお月見も悪くはないねえ」
すると童女は、どこからだしたのか、盃と徳利を手にしていた。
そのまま盃に酒を注ぎ、グイっと一気に飲み干す。飲み干すや否やぷはーと息を吹き出し、赤い頬を浮かべながら、「うまい!」とニコニコと言い出した。
少女はこの不思議で異常な光景と、能天気な目の前の鬼の笑顔のギャップにつられ、まだ涙を浮かべながらも笑うのであった。
しかし、状勢は変わっているわけではない。周囲の集落の人々は、ほとんどが何が起こったのかわからないといったような表情でその光景を見つめる。
対して魔物たちは、目の前に得体のしれない、人によく似たナニかがいきなり出てきたと思いきや、いとも簡単に仲間を倒してしまったという事実に、苦い表情をしていた。
そこでローブの魔物はその空気を察したのか、再び鼓舞するように雄たけびを上げる。そして魔物たちは、標的を鬼の童女に絞り睨むようにして構える。少女はその雄たけびを聞き、先ほどまでの恐怖を思い出した。再び身震いし、うずくまってへたり込んでしまった。
そんな姿を見た鬼の童女は、赤らめた頬をぽりぽりと掻いて少し考える素振りをし、少女を抱きかかえ耳元で呟く。
「もう大丈夫だ。安心しろ。これ以上は一人も死なせん」
とても温かみのある声音でぽつりとでた言葉は、少女を安心させるには十分なものだった。
その言葉を聞いた少女は、極度の緊張、恐怖から解放された安心感に包まれ、そのまま腕の中で目を閉じ眠りに落ちた。鬼の童女は、それに少し驚いたような表情をし、そっと少女を地べたに寝かせた。
そしてすぐさま魔物のいる方へ振り返り、腰を低く落とし空手の構えのような戦闘態勢の姿勢をとる。 闇夜に光る鬼の童女の紅い瞳は鋭い視線を放っていた。そして静かに息を吸い、語気を強め言い放つ。
「私は筋の通らないことが大嫌いでね。力の弱き者たちを無意味にいたぶり、恐怖に陥れようとするその薄汚い根性・・・。すべて叩き潰してやる」
童女の口元に、冷たい微笑みが広がる。その圧倒的強者と思わせる振る舞いに、集まった魔物たちも思わず一歩、後ずさる。
鬼の童女は一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと息を整え、そして大地を踏みしめると一気に飛び出す。
「さあ、始めようか。今宵は満月。最高の舞台だ。この鬼である私が、本物の恐怖というものを教えてやるよ」
そして夜空に、鬼の豪快な笑い声が響く。
月明かりに照らされたこの小さな集落で、1匹の鬼と500はいるであろう魔物同士の戦いが幕を開けるのであった。
少女は、窓から差し掛かる太陽の光に照らされ目を開いた。
寝床から上体だけを起こしあたりを見渡す。自分のいる寝床の横には、机と椅子があり木目基調の簡素な部屋が広がっていた。集落に住む誰かの部屋だと理解したと同時に、部屋の扉が静かに開く。
顔を覗かせたのは良く知る顔の人だった。
「おはよう」
どうやら、少女が小さな頃から知っている、近所のおばあさんの家の一室のようだ。
このおばあさんは、魔法を扱う人に対して恐怖を示さず、普通の人のように見てくれる、数少ない理解者であった。
おばあさんは部屋に入り、少女の目の前にやってきて腰を低くし目線を合わせる。朗らかな表情で手を少女の頭にのせ、撫でおろす。
「大変だったね。でも、もう安心なさい」
少女はその言葉を聞き、昨夜の鬼の腕の中で眠ってしまう前、鬼に言われたことを思い出す。
次第に、父親が壮絶な死を遂げたという事実も思い出し、涙が頬を伝う。
その信じたくない現実をいったん噛みしめ、涙ながらに弱々しい声音で少女は口にする。
「魔物は・・・鬼はどうなりましたか?」
おばあさんはゆっくりと、優しい口調で言葉を紡ぐ。
「鬼様は、あっという間に、魔物を片付けていったよ。それを私たちは静かに見守っていたわ。まさに鬼神の如き動きでね。鬼様は全ての魔物を一匹も残さず倒したあと、名も言わず、褒美も要求しないで静かに村をでたわ」
「そうですか・・・」
少女は、とりあえず村が助かったという事実に胸を撫でおろす。
ただ、やはり少女の胸には心残りがあり、行方知らずの命の恩人に対して、静かに思う。
(私にもう一度、お月様を見させてくれて、ありがとう)
またいつか、あの小さな鬼に出会えたらと願い、再び出会えたら感謝を直接伝えようと心に誓った。
次第に少女は静かに寝息を立て、目を瞑るのであった。
それから、どれほどの年月が過ぎたろうか。この出来事を知る当事者はとうに現世から姿を消し、この出来事を知る人がもはやいるのかもわからない。
ただ1匹の鬼を除いては。
そして、現在。
川のせせらぎと、鳥のさえずりが絶えない、見渡す限りの豊かな自然に囲まれた森の中。
動物が住んでいたと思われる洞穴に、大きなあくびをして体を起こす童女の姿。
「今日は何処へいこうかねえ」
その鬼は、自由気ままに流浪の旅をしているのであった。
鬼、それは、
力強き、心優しき者。