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私を無視する旦那様が記憶を失ったら、やたらと甘えてくるんですけど?

作者: 玖珠ゆら


 私と旦那様は、よくある政略結婚です。

 流行病でご両親が立て続けに儚くなり、若くして伯爵家当主になった旦那様からの打診でした。互いの家に充分な利があったために、この結婚は整ったのです。


 けれども旦那様──アルバート・セーラス様とは、一度もきちんと顔を合わせることもないまま、とうとう半年が経ってしまいました。

 


 旦那様はとてもお忙しいらしく、結婚前の顔合わせも叶わず、結婚式当日を迎えてしまいました。

 そして、その晩。大切な初夜です。

 夫婦の寝室に、旦那様が現れることはありませんでした。


 

「君を愛することはない」


 そんな言葉を旦那様からいただけたならば、また少しは違ったのかもしれません。

 他に愛する人がいるとか、そもそも女嫌いだとか、旦那様のお考えがわかれば、これほど悩むこともありませんでした。

 お飾りの妻でしかないから何もするな、もしくは、女主人としての仕事はこなせ、なんて仰っていただければ、身の振りようも考えられたのです。


 しかし、旦那様からは何もありません。本当に、何も…………。



 約半年の間、私は徹底的に旦那様に避けられ続けているのです。



 はじめの一月は、何もせずに過ごしてみました。丸一日ぼんやりして、お客様のようにただ使用人の世話を受けるだけでした。

 使用人は皆親切でした。

 旦那様は何も言いませんでした。

 

 次の一月は、女主人らしく振る舞ってみました。家の中を花で飾ってみたり、使用人の手を借りて、模様替えなんかもしてみました。

 執事長が、屋敷内が明るくなったと喜んでくれました。

 旦那様は何も言いませんでした。

 

 その次の一月は、与えられた予算を使い、買い物をしてみました。ドレスを少し買い足して、部屋のカーテンも好みの色のものに変えてみたりして。

 侍女が、奥様によくお似合いだと褒めてくれました。

 旦那様は何も言いませんでした。


 

 要するに旦那様は私が何をしようと、関心がないのでしょう。

 幸いにも、伯爵家に仕える使用人たちは、ちゃんと従ってくれます。主人に認められていない妻である私でも、蔑むことなく快適に過ごせるよう計らってくれます。

 旦那様との交流は諦め、好き勝手過ごすことにしました。そう決めてしまえば、この生活も悪くありません。



 そんなある日。

 旦那様が、結婚してはじめてお客様を連れて帰って来ました。

 侍女が大変困惑した様子で「旦那様がお帰りです」と声をかけに来たのも、はじめてのことでした。しかし伝えられれば、出迎えないわけにもいきません。


 玄関に向かうと、そこには普段遠目にちらりとしかお姿を見ることのない旦那様と、見知らぬ男性が入って来るところでした。

 慌てて「お帰りなさいませ」と声をかけます。

 


「やぁ、はじめまして奥様。僕はジル。一応、アルバートの上司になる。よろしく」

「シェリーと申します。ジル様、いつも夫がお世話になっております」


 そう言いながら、少し心配になりました。

 奥様面をして挨拶するなんて、旦那様が不快に思われるのではないかと考えたのです。

 そっと窺い見た旦那様は、私の顔をじっと見つめています。


「アルバート、可愛らしい奥様じゃないか。羨ましいよ」

「……ああ……。そうですね、信じられない……」

 

 ぽつりと呟くように言った旦那様の言葉を信じられないのは、私の方です。


「こんなに美しい人と俺が結婚しているだなんて、夢みたいだ……」



 目の前にいるこの方は、一体どなたでしょう。


 旦那様は、社交界では「鉄仮面」と呼ばれているのです。

 どんな時も表情を変えない、何を考えているのかわからない、と。それは貴族としては、褒め言葉でもあります。若くして伯爵家を継ぐことになったのですから、そのご苦労は想像にかたくありませんし、決して外で弱味を見せることなど出来ないのでしょう。そんな旦那様を、ご立派だと思います。


 ──けれど。

 現在私から目を離さない旦那様はというと、頬を赤く染め、わずかに微笑みを浮かべているのです。

 結婚式以来、まともにお顔を拝見する機会さえもつくってくださらなかったのに、どうしてしまったというのでしょう。



 あまりの驚きに何も言えなくなってしまった私を見て、ジル様がきまり悪そうに口を開きました。


「あのー……、セーラス夫人。ご覧の通り、君の旦那様が、ちょっと困ったことになってしまったんだ」

「…………そのようですね……」



 玄関先につっ立ったまま、それぞれ困り果ててしまった私たち三人を見かねて、使用人たちが応接室へ場所を移すよう、気をまわしてくれました。


 応接室のテーブルには、すぐにティーセットが用意されました。テーブルをはさんで、向かいにジル様が座ります。そして何故か旦那様は、私を隣に座らせました。とっても気まずいです。


 落ち着いたところで、ジル様がことの経緯を説明してくださいました。

 


「セーラス夫人は、アルバートの仕事についてはご存知なのかな?」

「はい。王宮直属の魔法薬研究に携わっていると窺っております」


 旦那様は、とても優秀なお方なのです。

 少数精鋭の魔法薬研究所にお勤めされるのは、大変名誉なことです。

 伯爵家当主の仕事以外にも、王宮でのお仕事もこなしているため、非常にお忙しいのです。

 


「実は今、記憶を消す魔法薬の研究中なんだ」

「記憶を……消す?」

「そう。特定の記憶を消すことが出来れば、王家にとって都合の悪い情報を得た人間を、処分しなくても済む。知られたくないことだけ忘れてもらったら、優秀な人材をその後も便利に使える、ってわけだよ。あ、これ、極秘情報だから口外禁止だよ」


 ジル様が口元に人差し指を当て、にこりと微笑みました。

 ……王家の闇を覗き見た気がします。


 こくこくと頷くと、ジル様はその顔から笑みを消し、少しだけ身を乗り出しました。

 

「で、ここからが本題なんだけどね。その魔法薬の試薬品を、アルバートに飲んでもらったんだ」

「えっ……!」


 思わず、隣に座る旦那様を振り向きました。

 旦那様は相変わらずほんのり赤く頬を染めたまま、私を凝視しています。やっぱり様子がおかしいのは……。

 

「旦那様は、記憶喪失になってしまったのでしょうか……。まさか、ご自分のことも何もわからないのでは……?」

「いや、安心して欲しい。アルバートが失った記憶は、ただ一人。セーラス夫人、君についてのものだけだ」


 ……私ただ一人分の記憶だけ?何故そんなことになってしまったのでしょう。


「いやぁ、申し訳ない。こんなはずじゃなかったんだよ。直前に強く考えたことを忘れる薬のはずなんだ。だからね、アルバートには薬を飲む前に、忘れたいことを宣言しろと言ったんだ。誰にでもあるだろう? 消し去りたい黒歴史ってやつが。そうしたら、こいつ……。妻だ、って言って薬を飲み干してしまった」

「……!」

「君たち今朝、夫婦喧嘩でもした?」



 夫婦喧嘩なんて……。

 一度もしたことはありません。出来るはずがないのですから。


 それでも旦那様は、私を忘れたいと願った。

 私は、それほどまでに旦那様から疎まれていたのでしょう。きっと旦那様は、私と結婚した事実を消し去りたかったに違いありません。せめて、記憶の中だけでも────。


 何故それほどまでに嫌われていたのか、心当たりはありません。

 酷く悲しい気持ちになります。



 俯いた私の手が、勢いよく誰かによって握られました。びっくりして顔を上げると、旦那様のお顔が間近に迫っています。

 

「すまない……! 愛する妻を忘れてしまおうだなんて、俺はどうかしていた。謝っても許してもらえないかもしれない。でも、わかって欲しい。今の俺は君のことを大切にしたいと、心から思っている」 


 鉄仮面と呼ばれている旦那様。

 知りませんでした。こんなにも情熱的なお方だったのですね……。それにしっかり拝見すれば、とても整ったお顔をされています。

 真剣に私に訴えかけるその表情に、ドキドキしてしまいます。 


 そんな旦那様の様子を見て、ジル様が安心したように息をつきました。


「そうか、良かった。記憶を失っても、アルバートの夫人への愛情は消えていないようだな。まぁしばらく、独身時代の初々しさを思い出して楽しんでくれ。一週間もすれば、治療薬が完成すると思うよ」

「! 旦那様の記憶は戻るのですか?」

「僕を誰だと思ってるんだ? 薬の開発で失敗することなんてないよ。だからこそ、治療薬をつくらなかっただけだ。やろうと思えば出来ないことはない。今回のは完全にアルバートが悪い」


 ジル様が不服そうに眉を顰めました。

 旦那様は上司の不機嫌には顔色を変えず、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と一言だけ謝りました。そして再び私へと視線を戻します。


「ジル様は、天才と名高い魔法薬師だ。きっとすぐに治療薬をつくってくださるだろう。もちろん俺も、全力でジル様のお手伝いをする。君との記憶を取り戻すために」

「は……はい…………」



 旦那様は、とても真摯に私に向き合ってくださいます。だからこそ、複雑な感情が湧き出てくるのです。



「俺の記憶が戻るまでの間、辛い思いを強いることになるだろうが、どうかよろしく頼む」 

「こちらこそ……よろしくお願いします。シェリーと申します」


 とっても自然にはじめましての挨拶が口をつきました。こうしてご挨拶するのは、本当にはじめてですから。

 皮肉にも結婚して約半年、ようやく私たちは夫婦として向き合うことが出来たのです。


 私の挨拶に、旦那様がほっとしたように頬を緩めました。


「ああ……。ありがとう、シェリー」

 



 ◇◇◇



 

「シェリーは黄色が好きなのか。……ああ、だから屋敷内に飾られた花は、黄色いものが中心なんだな」

「はい。明るく見えるので好きなんです。旦那様は、何色がお好きですか?」

「…………そうだな。紫だろうか。シェリーの瞳の色だ」

「……っ。そ、そうですか……」


 

 夕飯の席で、私は旦那様から質問責めにあっています。私もまた、旦那様のことは何も存じ上げないので、色々とお聞きする良い機会だと思っています。

 けれど……。

 まるで恋人に贈るような旦那様の甘いお言葉に、どう答えて良いものかわかりません。



「シェリーは食べ物の好き嫌いはないのか?」

「はい、特には。いつもお屋敷の食事は、美味しくいただいております」 

「甘いものを好む女性が多いと聞くが、シェリーもか?」

「そうですね。甘いお菓子は大好きです」

「そうか。では明日、土産を買って帰る」

「お気遣いありがとうございます、旦那様」

 

 旦那様はとてもお優しいです。

 こうして話をするほど、何故今まであんなにも避けられていたのか、わからなくなります。


 笑顔でお礼を言ったのに、どうしてか旦那様のお顔が少し曇りました。


「その…………シェリー」

「なんでしょう、旦那様?」

「その、旦那様というのは……。少し他人行儀すぎないか? 俺たちは夫婦だ。名前を呼んではもらえないだろうか」

「…………あ…………」


 旦那様のお名前を呼ぶ。考えたこともありませんでした。

 旦那様の仰ることは、もっともです。

 しかし記憶を失う前の旦那様のお考えがわからない以上、言われるがままお名前を呼んでしまうことは躊躇われます。

 


「……申し訳ありませんが、今は遠慮させてください。旦那様の記憶が戻った時に、お名前を呼ばせていただきたいです」

「……そうか、そうだな。……すまない。俺が君に酷いことをしたというのに、無神経だった」 


 旦那様は、私の言葉を違う意味にとらえたようでした。 わかりやすく気を落とす旦那様に、なんだか悪いことをしてしまったような気がしてきます。

 旦那様は、全然鉄仮面なんかじゃありません。

 社交界の噂というのは、あてにならないものです。



 

 旦那様と食事を共にした後。

 湯浴みを終え、大きなベッドに横になり、ようやく一息つきました。


 予想外のことが次々と起こって、この状況について冷静に考える暇もありませんでした。疲れているのに、妙に頭がさえています。


 ──一週間。

 治療薬が完成するまで、私と旦那様は、こうして交流を続けていくのでしょう。記憶が戻った時、旦那様は何を思うのでしょうか。

 


 ベッドの天蓋を見つめながら考え事をしていると、静かに扉が開きました。

 驚いて体を起こすと、なんと旦那様が入室して来ました。


「だっ……旦那様! どうしてこちらに?」

「……どうして、とは? ここは夫婦の寝室だ」


 そうでした。

 いつも一人で眠っているので、すっかり忘れていました。

 ──と、いうことは、まさか……。

 この大きなベッドで、旦那様と一緒に眠ることになるのでしょうか……。


 私が見越した通り、旦那様は何食わぬ顔でベッドに入ってきました。すぐ隣に、旦那様のお顔。あんなに大きいと思っていたベッドが、急に狭く感じます。


 ……どうしましょう。全く眠れる気がしません。


 

「シェリー」

「はっ……! はいっ!」

「……。もしかして、緊張しているのか」

「…………はい」


 気持ちを見透かされて、恥ずかしいけれど観念して正直に頷きました。そんなことあるはずがないのに、私のうるさいほど大きな心臓の音が、旦那様に聞こえてしまったと思ったのです。


「俺もだ」

「えっ!?」

「君が、君のことを忘れた俺のことを許せないのは当然だ。決して君に触れることはしないと約束する。だから、そんなに警戒しないでくれ」

「……えっと、……はい……」


 旦那様は、どうやら勘違いをされているようです。

 極力ベッドの隅に寄って背を向けたのも、きっと私を気遣っての行動なのでしょう。確かに旦那様は、私以上に緊張されているのかもしれません。

 


「あの、旦那様。そんなに端に寄っては、ベッドから落ちてしまいます。もう少し、こちらへ」


 そう声をかけると、勢いよくこちらへ顔を向けられます。

  

「シェリー。さっきの言葉は撤回させてくれ。手を繋いで眠ってもいいだろうか」

「えっ!?」


 私たちはお互い、ほんの数時間前にはじめましての挨拶を交わしたばかりです。距離をつめてくるのが早すぎます。

 どうお断りするか迷ったのですが、返事を待つ旦那様は、不安で仕方ないというお顔をしています。可哀想になってきました。……とても、嫌だとは言えませんでした。


 小さく頷いた私に、旦那様は心から嬉しそうな笑顔を見せます。表情がころころ変わる、私の旦那様は、とても可愛らしいです。

 


 その晩は、旦那様と手を繋いで眠りました。

 初夜のことを思い出せば、本当に有り得ないことです。緊張して眠れないかと思ったら、いつの間にかぐっすり眠りについていました。 




 ◇◇◇



 その後も、旦那様の豹変ぶりは留まるところを知りません。


 目を覚ますと、旦那様が至近距離で私の顔を覗き込んでいました。寝起きの心臓に悪いです。


「眠っているシェリーがあまりに可愛らしくて、目を離せなかった。しかし起きているシェリーもまた、可憐で美しい」


 起き抜けから、なんて攻撃を仕掛けてくるのでしょう。これではまるで、心から愛する妻に接しているようです。



 朝食の席でも旦那様は、 

「君と朝食を共に出来るなんて、この上ない幸せだ」

などと仰り、うっとりするようにこちらを見つめてくるのです。



「離れがたい」と言いながらも魔法薬師として出勤したかと思えば、昨日の約束通り、王都で今大人気の焼き菓子を、お土産に買って帰って来てくださいました。



 朝晩食事を共にし、旦那様のお出かけとお帰りの際にはご挨拶をし、夜は同じベッドで手を繋いで眠る。

 それがすっかり習慣となりました。


 

 もし結婚直後から旦那様が今のようにしてくださっていれば、私たちは間違いなく円満な夫婦関係を築けていたでしょう。

 


 そして数日が経った頃。

 ジル様からお手紙をいただきました。

 ジル様と旦那様の職場である、王宮内の魔法薬研究所に招待するという内容のものです。旦那様を驚かせるために、内緒で来て欲しいと書かれていました。

 旦那様に黙って勝手な行動をすることに戸惑いはありますが、相手は旦那様の上司です。要望通り、お邪魔することを決めました。


 

 当日、旦那様を送り出した後、私もこっそり研究所へ向かう予定でいました。しかし旦那様の態度は、日に日に甘くなる一方です。

 玄関前で眉を下げた旦那様は、子どものように駄々をこねました。

 

「…………行きたくない。君と離れたくない」

「まぁ、そう仰らずに。旦那様は、王家のお役に立てる重大なお仕事を任されているのですから。私は、そんな旦那様を誇りに思います」

「シェリーがそんな風に言ってくれるならば、頑張ろう」

「はい。頑張ってください」

「でもその前に、君を抱きしめてもいいだろうか」


 旦那様は、決して許可なく私に触れようとはしません。毎回、必ずこうして確認します。そして返事を待つ間、いつも不安げに瞳を揺らすのです。


「もちろんです。夫婦ですから」

「ありがとう、シェリー」 


 旦那様が、優しい力で私を抱きしめました。

 が、しかし……。 


「あの、旦那様。私のつむじの辺りで深呼吸するのはおやめください」

「シェリーの香りがする……。癒される……。ずっとこうしていたい」


 旦那様を引き剥がすのにも一苦労でした。 



  

 なんとか旦那様には出勤していただき、王宮内の一角にある研究所の扉をたたきました。



「やぁ、いらっしゃい。セーラス夫人」

「お招きいただきありがとうございます、ジル様」 


 出迎えてくださったのは、ジル様でした。

 開いた扉の隙間から見えた研究所内は、見たこともない色とりどりの薬品が入った瓶がひしめき合っています。魔法薬の材料と思われる数々の素材も、籠に山盛りになってテーブルを埋めつくしています。

 その奥に、旦那様のお姿も見られました。

 お屋敷にいる時とは違う、難しい顔をして薬品と向き合っています。

 

「アルバート! お客さんだよ。君の大事な奥様だ」

「はっ!? なんでっ……シェリー!」


 ジル様が声をかけると、旦那様が慌てた様子で立ち上がり、机の角に体をぶつけながらこちらへやって来ました。

 旦那様と同様、薬品と睨めっこをしていた同僚と思しき数名の薬師の皆さんも、ぎょっとしたように視線を向けています。


 旦那様は、見たこともないくらい怖い顔をしていました。どうやら怒らせてしまったようです。


「旦那様の許可なく、勝手に来てしまって申し訳ありません」

「なんでセーラス夫人が謝るのさ。僕が来るように頼んだんだよ?」

「ジル様! どういうことですか!?」

「なんでアルバートは怒っているんだ? 愛する妻が会いに来てくれて、嬉しくないの?」

「……それは……」


 旦那様が口篭ります。

 旦那様が私を忘れてしまって以来、仲良く出来ていたつもりでした。でも、私の思い違いだったのでしょうか……。


 不安になる私でしたが、ジル様は呆れたように旦那様の背中を軽くたたきました。

 


「君が夫人を大事に思っていることはわかっているよ、アルバート。素直に喜べよ。僕から君たち夫婦へのサプライズだよ」


 そう言うと、小さな小瓶を旦那様の目の前に差し出しました。


「治療薬が完成した。驚かせたかったんだよ。これで大好きな夫人の記憶を取り戻せるよ」

「ジル様……! ありがとうございます」


 旦那様が、ひったくるような勢いでジル様から小瓶を受け取ります。

 その焦りように、ジル様も苦笑しました。


「喜んでもらえて何よりだ。それで? 僕が夫人を呼びつけたのが気に入らなかった理由は何?」

「…………。シェリーが心配なんです。過保護と思われるでしょうが、屋敷の外に出て、何かあったらと思うと……。よその男に声をかけられたりしたら、と想像しただけで不安になります。そもそも妻が俺以外の男の視界に入ること自体、本当はとても不快だ」

「…………………………」


 深刻な顔で語られた旦那様の本音に、ジル様は「重症だな」と呟いて額を押さえました。

 近くで様子を窺っていた他の魔法薬師たちも、驚愕の表情で何かを囁きあっています。

 

「鉄仮面が剥がれているの、初めて見た……」

「アルバート様にも人の心があったのか……」



 小さく息をついたジル様が、呆れたような視線を再び旦那様に向けました。

 

「そんなにも愛する夫人の記憶を、なんでまた忘れようとしたんだ、君は?」

「俺にもさっぱりわかりません。でも、これを飲めばはっきりします」


 とろりとした黄色い液体が入った小瓶を、旦那様が掲げます。

 この魔法薬を飲めば、全てが元通りになってしまうのでしょうか。私と旦那様の関係も……。

 

 そう思ったら、つい余計なことが口をついて出ました。


「あの……旦那様。本当に、その魔法薬を飲むんですか?」

「もちろんだ。何故そんなことを?」


 不思議そうに問う旦那様に、どう言えば納得してもらえるのでしょう。


 私は怖いのです。

 旦那様に、無視される生活に戻ってしまうことが。

 優しくて可愛らしい旦那様との今の生活が、とても楽しいのです。失いたくありません。

 

 

「私たち、以前の記憶がなくても、夫婦として問題なく生活出来ています。だから、このままでもいいのではないかと……」


「セーラス夫人。おかしなことを言うね、君は」


 不自然な私の言い分を指摘したのは、ジル様でした。その瞳が、意地悪そうに細められます。

 

「思い出されては都合の悪い何かが、君たちの間にはあったのか? 例えば……君の不貞だとか、ね」

「……!」


 そんな事実はありません。

 けれども確かに私は、旦那様に記憶を取り戻されては都合が悪いのです。



  

「ジル様! シェリーを責めるような言い方はやめていただきたい!」

「へぇ? アルバート、夫人を庇うんだ? 何も覚えていないのに?」

「例えどんな記憶が戻ったとしても、俺の気持ちは変わらない自信があります。俺たちの間に何があったとしても、シェリーを受け入れる覚悟もある」


 旦那様が私に視線を移しました。

 正面から真剣な瞳と目が合って、胸がぎゅっとなります。


「俺は君との思い出を、どうしても取り戻したい。はじめて会った日のこと、結婚式のこと、半年間の結婚生活のこと……。大切な宝物だったはずの記憶をなくす選択をした自分を、俺は許せない」


 私と旦那様の間には、思い出なんてひとつもありません。あるのは、旦那様が私をいないものとして扱っていた、その事実だけ。

 それなのに今ここにいる旦那様は、私を愛おしそうに見つめています。


「俺が君と過ごした時間は、記憶を失う前の半年間には遠く及ばない。それでも俺は、君がどんな人が理解しているつもりだ。君は自分のことを忘れた薄情な夫にも、丁寧によろしくと挨拶をしてくれた。出会いをやり直すように、俺の話に耳を傾け、俺自身についても沢山質問をしてくれた。俺の事を拒絶しようとはしなかったし、屋敷中を紫の花で飾ってくれた。そんな健気な君のことを愛する気持ちは、きっと以前と同じはずだ」 


 旦那様が、私の手を優しくとりました。

 

「君の全てを知りたい、シェリー」



 こんな風に気持ちをぶつけられて、どうして嫌だと言えるでしょう。

 私には、頷くことしか出来ません。



 その時、ジル様が小さく咳払いをしました。

 ふと周りを見ると、魔法薬師の皆さんが、気まずげに視線を彷徨わせています。ジル様も、うんざりしたように顔を顰めていました。

 

「もういいよ。聞いているこっちが恥ずかしいよ。さっさと飲めよ、アルバート」


 

 ジル様に促され、とうとう旦那様が治療薬を口にしました。



 誰もが固唾を飲んで見守る中、薬を一気に飲み干した旦那様は、空になった瓶から私の方へと目を移します。そしてその表情を一変させました。

 眉間に皺を寄せ、顔を歪めたその様子に、はっきりとした感情を読み取ることが出来ました。

 

 ──それは、嫌悪。


 やはり旦那様は、私を嫌っていたのでしょう。

 そう確信したら、途端に血の気の引く思いがしました。


 もう二度と、優しい笑顔も、甘い言葉も、私に向けてはくださらない。

 旦那様のことを知らなかった以前の私とは違います。ひとつ屋根の下で共に暮らしながら、旦那様の気配をほとんど感じることのないような生活なんて、耐えられそうにありません。


 涙が滲みそうになって、慌てて部屋を飛び出してしまいました。失礼ながら、何の挨拶もなしに。

 後ろからジル様の私を呼ぶ声が聞こえましたが、振り返ることも出来ませんでした。

 

 旦那様が私を呼び止める声が、耳に届くことはありませんでした。引き止めてももらえませんでした。



 

 その後、旦那様がいつお屋敷に帰られたのかは存じ上げません。

 久しぶりに一人きりの夕食でした。使用人たちは気遣わしげに私の様子を窺っていましたが、何も言いませんでした。


 ──何もかも、元通り。

 

 そう、元に戻っただけです。それなのに、心にぽっかり穴が空いてしまったようです。

  


 

 寝室の大きなベッドに横になると、その広さに落ち着きません。

 手を広げても、手触りの良いシーツの感触があるだけです。寂しくて、また涙が滲みます。


 枕に顔をうずめていると、物音がしました。

 誰かが室内に入って来る気配がします。 


 ……まさか……。


 夫婦の寝室に入って来られる方なんて、たった一人しかいません。けれども私は、顔を上げられませんでした。旦那様のあの嫌悪の表情を、二度と目にしたくはありません。


「シェリー」


 もう聞くことはないだろうと思った、旦那様の声です。

 名を呼ばれた──ただそれだけで、体が喜びに震えます。


 ぎし、とベッドの軋む音がしました。旦那様が腰掛けたのでしょう。


 

「今まですまなかった。君と改めて話がしたい」


 白い結婚についてのお約束でしょうか。それとも、離縁についての話し合いでしょうか。


「旦那様。私からもお願いがあります」

「何だ? 君には申し訳ないことをした。俺に叶えられることならば、何でも聞こう」

「この王都のお屋敷ではなく、領地のカントリーハウスに住まわせてください」

「……な、何故……? 俺と一緒に、ここには住めないということか?」

「はい。その方が、互いのためだからです。そうすれば、顔も見なくて済むでしょう」

 

「まっ、待ってくれ! その願いは叶えられない! 俺はもう、君なしの生活は考えられない。たとえ嫌われていようとも、君を手放すつもりはない!」


 どういうことでしょう。

 慌てたように旦那様が放った予想外の言葉に、枕から顔を離して体を起こし、旦那様と向き合いました。


「……旦那様は……私のことを、お嫌いなのではないですか?」

「そんなはずがないだろう。君を夜会ではじめて見かけた時から、ずっと気になって目で追っていた。俺が望んだからこそ、君の家に結婚を申し込んだんだ」


 初耳です。完全に政略結婚だと思っていました。


「君はとても心優しい。その分、押しに弱いだろう。ダンスを申し込まれれば絶対に断れないし、苦手な相手に話しかけられても、笑顔で相槌をうつ。決して自分から話を切り上げたりしない。最後まで付き合う人だ」

「……本当に、よく見ていらっしゃったのですね」


 確かに私は、はっきりとお断りすることが苦手です。誰にでも悪く思われないよう、無難な態度で接するのも、自信の無さの表れで、自分の欠点だと思っています。

 それを指摘されるなんて、恥ずかしいものですね……。


「そんな君が、とても心配だったんだ。俺が守ってあげたいと思った。急遽伯爵家当主になってしまい忙しく、ようやく身辺が落ち着いて、結婚の打診に踏み切れた。受けてもらえて、本当に良かった」

「でも……。それならどうして、私をずっと無視なさっていたのです?」

「無視だなんてとんでもない! やっと君を手に入れて、今まで想いを募らせすぎて、慎重になりすぎた。君に嫌われたくなくて、どう接すれば好感を持ってもらえるかわからず……。情けない話だが、勇気が出ずに、結婚前の顔合わせの日も初夜も、直前になって怖くて逃げた」


 

 社交界で鉄仮面と呼ばれ、魔法薬師と伯爵家当主を立派にこなす旦那様が──。

 私に嫌われることが怖くて逃げた、なんて、そんなことがあるのでしょうか。


「ではどうして、私を忘れようとされたのですか?」

「ぐっ……。初夜に逃げるだなんて、大変な失敗をしたと自覚して以降、君に合わせる顔がなく……。日が経つにつれ、どんどん顔を合わせ辛くなるし、どうにもならなかった。いっそ全て忘れて、出会いからやり直せたら……と」


 聞けば聞くほど、確かに結婚生活は、旦那様の黒歴史に他なりませんね……。


「薬を飲んだ後の君との日々は、本当に理想そのもので……幸せだった。しかし治療薬で全て思い出したら、自分の調子の良さに心底嫌気がさした。俺は自分のしたことを忘れて、また逃げただけだった。本当に情けない……!」


 と、いうことは……。

 治療薬を飲んだ後のあの嫌悪の表情は、ご自分に対してということでしょうか。なんて紛らわしいのでしょう。


「旦那様……。私はずっと、旦那様に嫌われていると思っていました。半年間も避けられ続ける生活は、とても辛いものでした」

「シェリー! 本当にすまない……!」

「でも、ここ数日間、旦那様と過ごした日々は、私にとっても幸せ……だったと思います」


 ずっと不安げに揺れていた旦那様の瞳に、希望の光が宿った気がしました。


「それは、その……。少しだけ、自惚れてもいいのだろうか。シェリーもまた、俺を想ってくれていると……」

「はい。優しい旦那様を、お慕いする気持ちが芽生えております」

「シェリー! どうか、名を……。アルバートと、呼んで欲しい」

「はい。アルバート様」


 旦那様が私を抱きしめました。これまでとは違う、遠慮のない力強いものです。

 そのままベッドに押し倒されました。


「夢のようだ……。もう我慢しなくていいんだな。シェリー、初夜をやり直させてくれ」


 …………性急すぎはしませんか。

 旦那様はやはり、距離のつめ方が早すぎる気がします。


「お待ちください」


 思わず口をついて出たのは、制止の言葉でした。



 意気地無しな旦那様のせいで、私は半年も悩まなくていいことで悩み続けたのです。身勝手な旦那様のせいで、記憶をなくした彼に散々翻弄されました。

 旦那様は私のことを、押しに弱いと仰いました。

 このまま勢いで押し切れば全て許されると思われたのならば、非常に癪に障ります。


 ──決めました。

 私は、旦那様をしばらく許しません! 



「私は半年も苦しめられたのですから、旦那様ももう少し我慢してくださいませ。この先半年、私には指一本触れないと約束してください」


「なっ……! シェリーに触れられないだと!? しかも、半年……!! いくら何でもそれは……」

「何でも聞いてくださると仰いましたよね?」

「ぐっ……!!」


 旦那様が、がっくりと項垂れました。

 しょんぼりする旦那様も、可愛らしいです。


 

「望みを叶えてくださった暁には、初夜をやり直しましょう、アルバート様」


 にっこりと微笑みかければ、旦那様の顔が赤く染まりました。夫を手のひらで転がす妻、というのも悪くありません。

 この先の私たちの結婚生活はきっと、明るいものになるでしょう。




 ────さて、その後。

 

 旦那様の悲しい顔と押しに弱い私と、距離をつめるのが早すぎる旦那様。

 指一本触れないという約束は、三日ともちませんでした。


 あんなにも強く決心したというのに、この有り様……。

 ベッドの中、旦那様の腕にすっぽりと収まりながら思いました。このままではこの先の人生、旦那様に翻弄されっぱなしになるのでは……。


 隣で眠る旦那様を見ると、随分幸せそうなお顔で眠っています。可愛らしいです。


 

 …………私も幸せなので、よしとします。


 

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アルバートに対して思うことは山ほどあるけど、それよりなによりまずジルは主人公に謝れーー!
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