(後編)
「それにしても本当によかったのですか。あなたが住んでいたところよりも、もっと何もない。こんな場所で」
「武彦さんのご両親やご兄弟が眠っている場所ですもの。これから私たちでにぎやかにしていけばいいじゃありませんか」
若いおじいちゃんが玄関の扉を開けて、明かりを灯す。
こんなに近い場所にいるのに、おじいちゃんには僕の姿が見えていないようだ。
おじいちゃんに続いて、“みやこさん”がこつりと靴音を立てて玄関に入ってきた。
明かりでよりはっきりとした、みやこさんことおばあちゃんは、目鼻立ちがはっきりとしていて大きな黒目が印象的で、近くにいるとなんだか少しどきどきしてしまう。
「家にも魂が宿る、と聞きます。私たちの新しいおうちさん、これからよろしくお願いしますね」
おばあちゃんも同じく僕の姿は見えていない様子だったのに、その時だけは澄んだ瞳がこちらを向いた気がした。
おばあちゃんは、昔からなんだか不思議な人だった。
僕がこの家に遊びに来ている間も、色んな物にはひとりひとりの妖精さんがいるから大事にしてね。と言って、時折手間をかけてひとつひとつの食器を磨いたり、毎日欠かさず玄関を拭いたり。
ある頃からは方便のようなものだと思うようになったけど。
廊下の明かりもつけて、キッチンのある部屋に二人は向かっていく。
明かりがついたことで鮮明になった家の中を見て、やっぱり、と思った。
この家は何度か水回りをリフォームしているはずだけど、台所の見た目は半世紀ほど前の造りをしている。
「これって、きっとおじいちゃんたちが結婚したばかりの頃の家だよね」
昔の夢でも見てるのかな、と独り言をもらす。
なつめに話しかけた後、急に眠くなって気がついたらこれだから。
なつめが知っているこの家のことを思いめぐらせた矢先のことだったから・・・。
あの鼻キスを合図に、この世界に引き込まれた。
なつめが見せている夢なのかな。と思ってもみたけど、これはなつめが生まれるずっと前の光景のはずだ。
「やっぱり、ただの夢かな」
それにしてはカエルの鳴き声や畳の匂い、頬を撫でる夜の風の心地良さといい、やけにリアルだけど。
台所がある部屋には、お昼にスイカが置かれていたものとよく似た大きな木製の丸机と座布団が二つ。
二人は少しの間隔を空けて寄り添うように座り、漬け物と白いおにぎりを少しずつ箸でつついている。
ふいに、おじいちゃんが箸を止めて立ち上がり、食器棚の上から細長い青い箱を取り出した。
「食事中ですが、早くこれを渡したかった。僕と一緒になってくれた、感謝を込めての贈り物です」
おばあちゃんが受け取った箱を開けるのをのぞきこむと、小さな白い玉が連なったネックレスがきらりと光った。
「まあ!真珠ですか?」
「はい。みやこさんの夜空のような髪と、よく合うと思って」
おばあちゃんの色白の頬が、ぽっと紅くなる。
「ありがとう。大切にしますね」
そう言って、おばあちゃんはネックレスを身につけてはにかんだ。
「今日は質素な物しか用意できませんが、落ち着いたらまた改めてお祝いをしましょう」
「材料さえ手に入れば、作ってあげたいものがたくさんあります。できれば、前にお話ししたキッシュを。用意できる道具や食材で上手くできるかはわからないけど」
「時間がかかるものと聞きました。僕もお手伝いさせて下さい。一緒に作りましょう」
あのネックレス、どこかで見たことがある気がする。
どこにでもあるようなデザインだから、そう思うのかもしれないけど。
カチッという音がして、部屋が真っ暗になる。
電気が突然消えたかと思えば、ぐいっと引っ張られりような眠気がやってきた。
夢の中なのに眠気って、変な感じだ。
「あ、今日はおとうさんたちの結婚記念日だね」
瞬きすると、明るくなった部屋の中に立っていた。
さっきと同じ場所のようだけど、台所が新しくなっている。
置いてある調理器具も、さっきよりももっと増えているようだ。
そして、僕の目の前には、僕より少し年下であろう男の子が立っていた。
後ろを振り向くとエプロン姿の、長い巻毛を一つに束ねた女の人がお皿に乗せられたキッシュの周りを彩るように葉野菜を乗せていた。
「おとうさんが外の窯で焼いてきてあつあつよ。まだ触らないでね」
僕とそっくりな形の、少しだけ濃い眉毛。この子は、僕のお父さんだよね・・・。
そうだ。昔はおじいちゃんの手作りの小さな窯でキッシュを焼いていたんだよね。
今でも広い庭には、その名残がある。
今よりもっと時間がかかるはずなのに、手間のかかるものを二人で作って毎年結婚記念日にお祝いをしていたらしい。
それにしても、香ばしい焼き立てのこの匂いを嗅ぐとお腹が空いてくる。
卵と生クリームのやさしい甘い香りにお肉の匂い。そしてほのかな酸っぱい香り。
クリーム色の中に浮かぶあの赤は、トマトだ。
なんでこの夢、こんなに現実味があるんだろう。
「庭の池で冷やしておいたワインも持ってきたよ」
部屋に、さっきよりも少し歳をとったおじいちゃんが入ってきた。
「お祝い、はじめましょうか」
長方形の机と四脚の椅子のセットに変わった食卓に、お肉とトマトのキッシュと緑色の瓶のワイン。みかんのジュース、豆腐のサラダとナスのから揚げ。
三人が椅子に腰掛けるなり、僕のお父さんであろう男の子が「二人の結婚記念日に乾杯!」と音頭を取った。
さっきとあまり風貌が変わっていないように見えるおばあちゃんの首元には、あの真珠のネックレスが光っていた。
そしてまた、急にやってくる暗転。
目を開けると、稲穂が実った田んぼの景色が広がっていた。
風に揺れる稲穂の波の中で、たくさんの赤トンボがサーフィンをしているように飛び交っている。
夕焼けの光を受けた金色に輝く一面のその景色が目に入ってきて、胸がいっぱいになる感じがして思わず声が漏れた。
夏休みに訪れる、一週間の景色しか僕は知らない。
見とれていると、庭池が見えるように設けられた縁側の方から声が聞こえてきた。
「武彦さん、あれを見て!」
興奮しているのをできるだけ抑えようとしているようだ。
農作業服に日焼け止めの帽子を被った女性。
おばあちゃんだと今度はすぐに分かった。
廊下の方から、同じような格好をして首にかけたタオルでおでこの汗を拭く、真っ白な髪になったおじいちゃんが、静かに歩いてくる。
二人とも、さっきの今だと一気に歳をとったように見える。
「見て、あの茶色の毛玉!」
おばあちゃんが指差した先には、開け放った窓から縁側に上がってきたのか、毱ぐらいの大きさのふさふさしたものが丸まっていた。
それは稲穂のように太陽の光を受けて、ところどころ金色にきらめいて見えた。
「・・・あれは、猫かな?」
両手ですっぽり包めそうなそれは、息づかいで小さく上下に動いている。
体はなつめやしの色で、目の色はライム色。ある日突然この家にやってきた小さな茶トラの猫は、なつめという名前になった。
「もうすぐ産まれてくる孫の、良いお友達になってくれるといいわね」
家族げ増えたお祝いに、なつめがこの家に来た次の日、おばあちゃんは新しくなったオーブンレンジでサーモン入りのキッシュを焼いて、おじいちゃんは白ワインを買ってきた。
もちろん、なつめたちのごはんは別に用意をして。
人相手にはよくおびえていたはずのシルクは、座布団の上で丸まってちるなつめの背を、まるで「私がおねえさんよ」とでも言っているような澄ました顔で毛づくろいしてやっていた。
カチ、カチ、と時を刻む音が耳につく。
アンティーク調のもので溢れた部屋に置かれた二つのベッドの内の一つに、おばあちゃんが横たわっている。
傍には顔を俯けたお父さんと、その横でいつもと違う様子に不安がる、あの時の僕の姿。
ああ、昨日見たあの夢だ。
「血圧、上が六十です」
黒縁メガネの初老のお医者さんが、おばあちゃんの腕に巻かれた器具を外して静かな声で言った。
その日の前日は、おじいちゃんとおばあちゃんの結婚記念日だった。
横たわるおばあちゃんの足に寄り添うにして、なつめが丸くなっている。
ぎゅっと胸が締め付けられるような心地がして、僕は逃げ出すようにその部屋を後にした。
そう言えば、おじいちゃんはこの時。
そう思いながらキッチンに足を運ぶ。
微かに、むせび泣くような声が耳に入ってきて、さっと血の気が引く感じがした。
思い切って覗くと、肩を震わせているおじいちゃんの背中が見えた。
僕はおじいちゃんのそばに寄る。
静かに流れる涙を首に巻いたタオルに滲ませながら、おじいちゃんは片手で生地のようなものを一生懸命こねている。
しばらくの間、おじいちゃんのそばから僕は離れることができなかった。
おばあちゃんが体調をくずしてから、おじいちゃんは本格的にこの思い出の味を学ぼうと、まだ会話ができていた時のおばあちゃんに教わって一から何度も作ったらしい。
作り方は、もう頭には入っていたらしいけど。
そして、おばあちゃんの寝ている部屋に、焼き立ての香ばしいキッシュの匂いが広がった。
もう食べることはできないけれど、香りを感じることはできるかもしれない。
しばらくして、おばあちゃんは目を閉じたまま、ひくひくと口を動かしてニコッとした。
「あ、笑った?」
三年前の僕がそう言った後、ふーっと息をついて、やがておばあちゃんの呼吸が止む。
瞳孔などを確認したお医者さんが、臨終を知らせた。
おじいちゃんは、おばあちゃんの横に置いていた、あの青い箱を開けて顔を近づけて囁くように言う。
「夜空のような髪ではなくなっても、このネックレスは君の笑顔によく似合っていたよ。ありがとう」
ぐーっと引っ張られるような感覚が来て、また視界が暗くなる。
意識が途切れる前に暗闇の中、ぼんやりとした光の中でその姿を見た。写真の中と同じ、花柄のワンピースを着て穏やかに微笑むおばあちゃんと、その足元にはこちらに背を向けるクリーム色の猫。
「おばあちゃん。シルクに会えたんだ」
おばあちゃんは、ただ静かに微笑んでいる。
答えを聞けなくても、それでよかった。
外では元気に鳴くセミの声。横にはぐでっと伸びたなつめの姿。
目を開けると、不思議な夢を見る前とほとんど同じ光景があった。
時間はあまり経ってはいないようだけど、すごく長い夢を見た気がする。
なつめを起こさないように立ち上がり、あの部屋に行く。
写真立てと一緒に置かれた、柔らかい手触りの青い箱をまた手に取って開くと、きらりと光り連なる粒が、なんだか夜空に浮かぶ星の光に似ているような気がした。
玄関の方から、おじいちゃんが僕を呼ぶ声がする。
大ぶりのトマトがごろごろと入った籠を持ってタオルで汗を拭くおじいちゃんは、ちょっとだけそわそわして見えた。
「山岡さんが子猫を保護したらしいんだけど、一匹もらってくれないかって言うんだ」
「僕も、挨拶しに行くよ」
なつめが歓迎してくれるなら、今夜はもしかしたら家族が増えるお祝いになるかもしれない。
「そうだ、おじいちゃん。今年からは僕も一緒にキッシュを焼きたいな」
おじいちゃんは少しだけ目を丸くして、どこか嬉しそうに、ほっほっと笑った。