第三話 カラーレンジャー 後編 10.道
冬休みが終わり、三学期に入ったのはあっという間だった。
夏と違ってあまり皆で集まる機会も無くて、(皆が気を使ってくれただけかもしれないけど)顔を合わせたクラスメイト達は皆久しぶりだった。
「一年なのに、もうこんなの書かされるんだね。」
三学期初日の放課後。HRで配られた進路調査票を皆それぞれが眺めている。希望の大学を決めていなくても、大体どんな職業に付きたいとか、進学か就職かだけでも書けば良いらしい。
具体的な将来なんて自分の中には何も無くて、子供のままではいられない現実を突きつけられた気がした。
「進学か就職か、って聞かれたら、一応は進学だけどな。その先なんて考えてないしなー。」
と、桃井も同じような感想を口にする。
「白田は?何か決めてるんだっけ?」
「今のところ、やってみたいのは学芸員かな。どの分野を選ぶのかは決めてないけどね。」
「がくげーいん、って何?」
赤木が紙を鞄にしまいながら聞いた。
「博物館とか水族館とかで働く人の事だよ。大学に行って資格を取らないといけないからね。」
「そうなんだ!」
「まぁ、希望の一つだけど。」
「へぇー、すげーな。」
「赤木はどうなの?」
「やりたいことなんて、サッカーぐらいだな。広樹は?」
「うーん。俺は、まだ悩んでるんだけど」
「あ、分かった!警察官だ!」
「・・そういう事は覚えてるんだな。」
「小学校の文集に書いてあったもんな。」
「じゃあ、警察学校に入るの?」
「うん。そこを悩んでるんだよな。大学出てからでも遅くは無いだろ?でも卒業してすぐ入ると、将来がそこに限定されちゃうからさ。どうしようかと思って。」
「あー、成る程ね。」
目の前で交わされる会話に、私はすっかり蚊帳の外だった。意外に皆ちゃんとやりたい事を持っている事に驚いた。
私は本当に何にも無い。
「そういえば、黒沢はどうするんだろうな。」
桃井が教室には居ない黒沢の事を口にする。
彼はHRが終わってすぐ、教室を出て行っていた。今日は皆で日本史の課題をやる予定だったから、こうして皆教室で黒沢の事を待っているのだ。黒沢には先に始めててくれ、って言われてたけど、すっかり進路調査票の話に花が咲いていた。
「黒沢も考えてそうだもんな。」
赤木の言葉に心の中だけで同意する。
実を言うともしかしたら、という思いはあった。けど、本人に確かめてみない事にはなんとも言えない。
そこに、横開きの教室のドアを開ける音がして皆振り返った。予想通り、そこには黒沢が立っていた。
赤木が声をかける。
「お、黒沢おかえりー。」
「始めてなかったのか。」
「悪り!ダベってた。」
「じゃあ、始めようか。」
白田の言葉で皆進路調査票をしまい、課題を始めた。
「結構かかっちゃったね。」
「あぁ。」
学校を出たのはもう7時近くだった。この時期空はもうすっかり暗くなっている。学校の前で赤木・青山と別れ、駅のホームで逆方向の桃井・白田と別れた。
そして私達はまだホームで次の各駅停車を待っていた。
黒沢の横顔を見る。けど、思っていた事は聞けない。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは黒沢だった。
「今日、進路調査票出してきた。」
「・・早いね。前から決めてたんだ。」
「あぁ。」
黒沢は私の顔を見ない。それが余計に不安を煽る。
「どうするのか、聞いていいの?」
「・・・卒業したらアメリカに留学しようと思ってる。」
すぐには言葉が次げなかった。しばらく反芻して言葉の意味を噛み締める。
やけに胸がドキドキした。黒沢と初めて手をつないだ時のドキドキとは明らかに違った。奇妙なBGMの様に心臓の五月蝿く、気分が悪かった。
「そっか。すごいね。」
私は黒沢から顔を逸らしてそう言った。上手く笑えなかったからだ。
今度は黒沢が私を見た。その表情は目を逸らしている私からは見えない。
「ごめん。もっと早く言えばよかった。」
何?どういう意味?
「・・どうして?」
「・・・・・。俺達が、付き合う前に話すべきだったかもしれない。」
「だって、二年後の話でしょ?」
私は思わず鞄を持つ手を握り締める。手には汗が滲んでいた。
「・・・・・。留学も短期じゃなくて、カリフォルニアの大学を卒業しようと思っているんだ。殆ど日本には帰って来られなくなる。」
「黒沢。真面目すぎだよ。二年後なんてどうなってるか分かんないじゃない。もしかしたら私は宇宙に行きたいなんて言ってるかもよ。」
「・・・そうだな。」
黒沢が小さく笑った。けど、心からの笑顔じゃない事は見て分かる。
もしかして、留学の話を私が初めから知ってたら、付き合わなかったんじゃないか、って思っている?
「私は・・」
言いかけた所で電車がホームに入ってきた。
私達はそのまま言葉を交わさずに、電車に乗った。
俺は馬鹿だ。最初から俺には分かっていた筈なのに、どうして黙っていたのだろう。
その事ばかりが最近俺の頭を占めていた。そこに進路調査票が配られ、もう逃げていられなくなった。
いつか来る別れを分かっていたのなら、回避する方法だってある。
少なくとも緑川には選択肢があったのだ。知った上で、俺と付き合うかどうか。本人は青山を選ぶ事だって出来たかもしれない。
分かっていたのに、何故あの時彼女の手を握ったのだろう。
あの時は彼女の事しか頭に無かった。触れたい衝動に身を任せただけだった。
嬉しかった。幸せだった。
けど、その幸せが今度は俺を追い詰める。
もし彼女と三年続いて別れるのなら、別れることが分かっているのなら、これ以上大切になる前に別れた方がいい。
緑川の泣く顔なんて見たくない。彼女の為のようでいて、結局は俺のためだ。
この気持ちは俺の我儘だ。だから緑川には必要な言葉を言わなくちゃならない。
そう思った。思ったのに。
付き合った期間なんて関係なかった。自分の口から別れようとは言えなかった。言葉が出なかった。
俺は卑怯で臆病だ。彼女が悲しむ事を分かっていて、それでも別れたくないと思っている。誰にも渡したくないと思っている。側に居て欲しいと思っている。
なんて我儘なんだろう。それでも、夢を諦められないでいる。
いつか訪れる別れの日に、待っていて欲しい、なんて傲慢な言葉を言う気なのだろうか、俺は・・。
誰よりも何よりも彼女の事が好きだ。
卑怯でもいい、青山にだって渡したくない。もっと彼女と一緒にいたい。彼女に触れたい。笑った顔が見たい。これからずっと・・。
彼女の為に、俺がしなくてはいけない事。それはもう分かっているのに。
電車を降りて黒沢と別れた。
駅から家に着くまでの間、ずっと黒沢との会話を頭の中で繰り返していた。
もしかしたら、留学を考えているのかもしれない。黙っていたけどそれはずっと前から分かっていた。黒沢のバイトのお店、よく読んでいる英語の本。部活をしないのも英会話教室へ通う為だと知っている。
黒沢は別れたいとは言わなかった。けど、言葉の裏から感じる。多分黒沢は別れた方が良いと思ってる。
三年後はどうなっているか分からない。
確かにそうだ。もしかしたら留学の事を知らなくたって私達が三年続くかなんて分からない。三年の間に他の人を好きになって、もうとっくにお互い別の人と付き合っているかもしれない。
そこまで考えて背中に冷やりとしたものが通った。
嘘だ。そんなの嘘だ。
黒沢以外の人と一緒にいる自分なんて考えられない。黒沢を嫌いになるなんて想像もつかない。
あの時自分は言い聞かせようとしてたんだ。そして黒沢の前で平気な顔をしていたかっただけだ。
別に私は大丈夫だよって。黒沢と別れることになっても平気だよって。気にしなくていいんだよ。だからしばらくはこのままで良いじゃない。
そう言いたかったんだ。
なんで上手く言えなかったんだろう。今度はちゃんと言わなくちゃ。言えば良いだけだ。それで解決するんだから。
それなのにどうして、さっきから涙が止まらないんだろう。
涙なんて流したくない。そんな姿を見せて困らせたくない。
だけど、次々に溢れる涙はちっとも止まりそうない。
私、いつの間にかこんなに黒沢が好きだったんだ。こんなに黒沢の存在が自分の中を占めていたんだ。
それなのに、どうして居なくなっちゃうの?
我儘なんて言いたくない。そんなみっともない自分は要らない。黒沢を困らせる事なんて許せない。
「うっ・・うっ。」
頭の中がぐちゃぐちゃで、段々と何も考えられなくなっていた。
ただ流れる涙に、私はどうすることも出来なかった。
土曜日の午後。
今日の授業は午前だけだから屋上には誰も居ない。上を見れば雲一つない快晴だった。
ゆっくり小さな屋上を歩いて、改めて誰も居ない事を確認する。入口上の給水タンクに昇る梯子に初めて手をかけた。
そこを昇ると所々塗装が禿げている部分の錆が手に付いたので、昇りきった所で両手を叩いた。思ったより音が響いたので驚くが、周りに人は居ないので問題は無いだろう。
私は日の当たっている乾いた場所を選んで腰を落とした。
ここ数日、頭がからっぽになる事なんて無かった。
常に黒沢の事があって、黒沢に嫌われないように、困らせないようにしている自分がいた。そういう自分を嫌いじゃないし、間違っているとも思わない。
だけど、我慢していたのも本当だ。最近は黒沢の顔を見る度に、声を聞く度に泣きそうになるのを堪えていた。
何の抵抗も無く右目から涙が零れる。それを拭うと今度は左目だ。段々と片手では拭いきれない量になり、私は体育座りの状態で顔を膝で隠した。
視界が涙で一杯になり、鳴咽が漏れる。もうここに誰が来ても涙を止める事なんて出来そうになかった。
震える体を抱きしめるものは自分の両腕しかなかった。
どのくらいそうしていただろう。涙が止まって、首とお尻の痛みに顔を上げると太陽の位置が随分変わっていた。日なただった自分の場所は半分位日影になっていて、空は夕日に近づいている。
ポケットから手鏡を出して見ると、随分酷い顔をしていた。せめて赤い目と鼻が元通りになるまで此処に居ようと、一度立ち上がって背伸びをした後、日なたに座り直す。
まるであの歌のようになっちゃったな。
そんな事をぽつりと思う。瞼を閉じた時、私の目の前にいるのは黒沢だけだもの。
空を見る。そこは空っぽだ。そこには誰の姿もない。
暫くは一方的でもいいのかな。黒沢の事忘れるまで想い続けて、いつかあの空にみたいに誰も私の中に居なくなるまでは。
黒沢から別れを告げられれば、いつまでも想っていたって幸せにはなれないかもしれない。それでも今黒沢を好きでいる事が私の幸せなんだったら、それでもいいでしょう?
詩織だったらきっとすぐに前を向くんだろうな。でも、そんな事は出来そうにない。
こんなのただの開き直っているだけだって分かってる。それでも今は・・。
薄暗い階段を降りて教室に戻る。置きっぱなしの鞄を取ると同時に、ドアを開ける音がして驚き振り返った。
「・・青山。」
「あれ、まだ居たんだ。」
部活終わりなんだろう。制服を着ているが、スポーツバックとバッシュの入った袋を持っていた。
「あ・・。図書室寄ってたら、いつの間にか寝ってて。」
話しながら顔が気になる。目の赤みは取れた筈だけど、気付かれないだろうか。
教室が薄暗くて助かった。
「もしかして昼から寝てた?」
「うん。みたい。」
「うわっ。すげーな。」
いつものように青山が笑う。その顔をまともに見ることが出来なくて顔を逸らした。
「・・なんか、気のせいだったら、あれなんだけど」
「何?」
「最近、元気無くない?何かあった?」
「えー。そんなことないよ」
止めて。心臓に悪い。笑顔を作っている筈だけど、自分でも笑っているのか分からなくなる。
青山の足音がやけに教室に響く。
「黒沢と、なんかあった?」
「・・・無いよ。」
「俺には話しにくい?」
「違うって言ってるのに。・・なんでそんな事言うの。」
声が震えそうになる。
青山が私の席までゆっくりと歩いて来る。いつもの笑顔は無い。もしかして怒ってる?
青山の手が固く握られた私の右手を覆う様に触れる。息を吸う音が聞こえた。
目が真っ直ぐ過ぎて離せない。
「好きだから。」
その一言で体温が一気に上昇する。それ以上青山の顔を見る事が出来なくて、大袈裟な程大きく横を向いて手を振り払った。
「ごめ・・」
それからはもう夢中だった。
バタバタと教室を出て、長い廊下を呼吸を忘れてひたすら走る。鞄を握る手に酷い汗をかいていた。
玄関口まで来ると、自分の下駄箱の前であまりの苦しさに手をついて息を吐いた。乱れた呼吸は中々落ち着かない。走っていた時よりも苦しい気さえしてくる。
苦しい。
怖い。
怖い。
青山が怖いんじゃない。青山の優しさが怖い。
青山の言葉を聞いた時、まるで地面が揺れたような錯覚がした。あれほど黒沢を想って泣いた筈なのに、青山の優しさに崩れそうになる自分がいた。
嫌だ。嫌だよ。
今はいらない。優しさなんていらない。手の温もりも、好きという言葉も何もいらない。
また涙が溢れそうになる。
乱暴に自分の靴を取り出すと、何かに追われるように急いで学校を出た。
後ろを振り返ってしまったら、もう戻れない気がした。
月曜日。頭が重い。学校に行く気分ではないが、病気のせいではないと分かっているので仕方なくいつも通り家を出る。
最近はすっかり空気が冷たくて、マフラーをしているけど澄んだ空気は怠い体に心地いい。
なんとなく足が駅には向かない。
私は駅を通り過ぎ、河原に向かって歩いていた。
「んー。」
両手を大きく上に向けて伸びをする。深呼吸を何度か繰り返した後、適当に座れそうな場所を見つけてスカートのまま腰を降ろした。自然に生えるがままの雑草が太腿に当たるけど、それほど気にはならない。
日光を反射して川の水が光る。それが眩しくて少し目細めた。ゆったりと流れる川の水はあまり音を起てずに目の前を過ぎて行く。まるで水ではなく光の集まりがゆらゆら流れているようだった。
そのまま目を閉じる。瞼の裏には光の名残が溢れて他には何も見えない。皆と夏に此処でした花火の光に似ている。
みっともなく縋り付く恋愛なんて絶対しないと思ってた。
理想の恋愛なんて程遠い。黒沢と付き合って三ヶ月。こんなにあっという間に別れを覚悟しなきゃいけない日が来るなんて。
隣から居なくなって欲しくない。これからの時間をもっともっと一緒に居たかった。当たり前のように居られると思ってた。
黒沢なら別れたって今まで通り接してくれるだろう。でも、もうあの手が私に触れる事がなくなる。黒沢の特別でいられなくなる。そうやっていつか思い出になって、別れて良かったなんて思える日が来るのかな。そんなのは遥か遠くに思える。
黒沢の前で泣いて縋り付きたい自分がいる。別れたくないって我が儘言って、何でなのって黒沢を責める。そう出来たらきっと楽なんだろう。
でも黒沢が簡単に別れを口に出す人じゃないのは分かってる。だからきっとあの時の言葉も苦しんで言ったに違いないって。
だから言えない。これ以上困らせるような事は言えない。
そうやって私も黒沢との別れを選ぶんだ。
「よし。」
一言、声を出して自分自身に言う。
立ち上がって軽くお尻を払って歩きだす。学校は今頃二時間目辺り。着く頃は三時間目になるだろう。
先生への言い訳を考えながら、私は駅へ向かった。
「堂々とし過ぎだろ。」
授業に遅れてきた緑川に開口一番担任が発した一言がそれだった。
緑川は笑いながら「すいません。」と言う。
「で、どうした?」
「来る途中で定期失くしちゃって。」
「見つかったのか?」
「駅に行く道の途中に落ちてました。」
「向かい風だったから、とか言うよりマシだな。早く座れ。」
「はーい。」
遅れて入った授業がうちの担任で運が良かったように思えるが、緑川の事だから多分わざとだろう。僕でもそうする。
クラスメイトに注目されながら、緑川が席に着く。僕も例外ではなかった。けど、その時の違和感に気付いたのは僕だけじゃないだろうか。
何が、と訊かれたらすぐには答えられない。
別に緑川におかしな所は無い。だけど、なんだ?彼女が席に着く数秒の間に感じたものは。
その分からない何かが、絶対的な落とし穴のような気がして不安に駆られる。らしくもなく心臓が大きく鼓動するのを感じた。
これを気のせいで済ませてはいけない。
いつまでも緑川を見ている訳にもいかず前を向く。
どうするのが最善なのか、授業が終わるまで考えていた。
「緑川。ちょっと手伝ってもらいたいんだけどいい?」
「いいよ。何?」
数学の授業が終わると直ぐに僕は緑川を連れ出した。二人並んで廊下を歩く。僕の目に映る緑川はいつもと同じように見えた。
「定期失くしたってのは嘘でしょ。」
「あははは。やっぱり分かり易かった?」
「どうしたの?」
「寝坊した。」
「それも嘘でしょ。緑川なら、寝坊したなら担任にもそう言うよ。」
「・・・。白田ってエスパー?」
「なんで。」
「だって私よりも私の事分かってる気がする。」
「そんな訳ないよ。緑川は他の人よりちょっと単純なだけじゃない?」
「ちょっと?」
「ちょっと。」
すると緑川は僕から目線を逸らして呟いた。
「・・河原行ってサボってた。」
「川?なんで?」
「サボりたい気分だったから。」
「・・言いたくないなら言わなくてもいいけど。」
「ごめん。心配してくれたんだ?ごめんね。・・・今は話す気になれない。」
「今は?」
「うん。すぐ分かるよ。」
そう言った緑川の笑顔に、これ以上この話題に触れる事ができなかった。
でも何があったにせよ、あの時の違和感を今の緑川からは感じない。
(・・・役立たずだな。)
すぐに行動に移したものの、ただ自分の無力さを再確認しただけに終わってしまった。
(あ。)
いつものように休憩時間中何気なく皆で無駄話をしている時、僕は思わず声を上げそうになって言葉を飲み込んだ。
気付いてしまった。
違和感の正体。緑川と話していた時に感じなかった理由。
僕の前には今皆が揃っている。その斜め前に緑川と黒沢も居た。
僕はちらりと二人を見る。緑川と黒沢は並んで笑っていても目を合わせていない。何もかもがいつも通りに見えるのに、二人の目は互いを見ていない。
だから緑川だけと話をしていては気付かなかったんだ。
一番最初に違和感を覚えたあの時、緑川が席に着く際、すぐ後ろの席に座っていた黒沢と目が合わない訳はない。ただでさえ緑川は遅れて来て、クラス中が彼女を見ていたんだから。
いつもならあそこで照れ笑いする緑川に黒沢が控え目に笑い返しそうなものなのに。
(もしかして、別れた?)
しかし今でも二人はお互いを想い合っているように見える。ふとした瞬間、互いの姿を目で追っているからだ。
(黒沢に・・・)
話を聞いてみようか。そう思ったが思い留まった。
男女間の問題だったら僕が口を挟むべきじゃない。でも正直放ってもおけない。
(いつから、こんなお節介になったんだろうな・・。)
以前なら面倒な事は避けて通ってきた。人間関係に敏感な分、厄介事は上手くかわして生きてきた。
それでいい、そう思っていた筈なのに。
(仲間、か・・・。)
僕は赤木の言葉を思い出していた。何もかも器用にこなす事が出来ても、赤木のように堂々と仲間という言葉を人前で使う事はできない。
自然と口元に笑みが浮かんだ。
(変な集まりだよな・・。)
勝手な事ばかり言う担任だけど、僕達を結び付けるきっかけをくれた事に素直に感謝した。
担任がHRの終わりを告げると、私は下を向いて深呼吸する。握った手のひらには汗が滲んでいた。
私は今日の放課後、黒沢と話をしようと決めていた。最近は黒沢と一緒に帰っていない。だから、一緒に帰ろうと思ったら、こちらから声を掛けなければならない。
緊張を誤魔化すように、手のひらを閉じたり開いたりしてみる。
チラリと、彼の姿がまだ教室にあることを確認すると、私は席を立った。
「黒沢。」
カバンを持って席を立った黒沢に声をかける。私は笑って「もう帰る?」と言うと、「あぁ。」と短く黒沢が返事をする。
「駅まで一緒に行っていい?」
黒沢は黙って頷いてくれた。
あぁ。声が震えなくて良かった。
いつもと同じ帰り道。高校から駅までは歩いて10分ぐらいの道のり。
何を話したらいいのか分からなくて、俺達はしばらく黙って歩いていた。少し前までは隣を歩いてくれるだけであんなに嬉しかった筈なのに。
段々と周りに生徒が居なくなると、緑川が口を開いた。
「黒沢。」
「・・ん?」
「やっぱり別れよっか。」
「・・・・。」
俺はゆっくりと隣を見る。緑川の顔はこちらを見ていない。少し俯き加減で前を向いていて、表情が見えない。
「なんか、お互いギクシャクしちゃったし、このまま一緒にいても楽しくないでしょ。」
「ごめ・・」
「待って!」
緑川が顔を上げる。一瞬俺を見たが、すぐに顔を逸らした。
「謝らないで。・・黒沢は悪いことなんてしてないんだから。」
「・・・・・。緑川・・。」
「先帰るね。バイバイ。」
緑川は走って行ってしまった。
俺は伸ばしかけた手を降ろした。
これが、俺の選択だった筈だ。彼女が愛想をつかせても仕方が無い。
いい歳して、みっともなく涙が出そうだった。
俺が選んだ通りの道なのに、苦しくて逃げ出しそうになる。
頭が痛い。呼吸が出来ない。拳を握り締めるが吐け口が見つからない。
もう、後戻りはできない。