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鳥よ、汝の名は  作者: 桐生瑛
第一章 娘の名
8/19

襲来

 読んでいただき、ありがとうございます。

 少し長めに正月休みを頂き、1/9から第二章開始予定です。


  5


 窓を開けているせいだと思った。作業場は、南向きの窓に砂避けの薄い布一枚を下ろして、外の光を取り込んでいる。風は隙間から勝手に吹き込む。初冬の冷たい風だ。

 でも。

 顔を上げ、風を感じた方向を見る。作業場の入り口に、半ば身を隠すようにして、下働きの女性のひとりが立っているのが目に入った。

 様子が、おかしかった。

 彼女は音もなく立っていた。普段はおしゃべりな女なのに、足音は勿論、息づかいも、布ずれも、何一つ感じさせなかった。まるで、肉も骨もない幽鬼のように。

 わたしとロクサ先生の話を、そこでずっと聴いていたのだろうか。

 嫌悪感がこみ上げた。立ち聞きされたからだけではない。瞬きもせずこちらを見ている目は、死んだ動物のようだった。躰にぴったりと嵌まっていないようにさえ見えた。

 何かが、ずれている。

 まるで丈に合わない衣服のようだ。纏い切れていない。見慣れた女の外見の下から、見たこともない青白い影が、爪先を僅かに覗かせている――。


「誰なの」


 声が零れた。先生が振り向く。わたしの視線を追い、顔をしかめた。


「なんだ、シハ。何の用だ。そんなところに突っ立って……」

「あなたは、誰」


 先生の言葉を遮って、わたしは叫んだ。

 違う。そこに立っている者の躰には、下働きの女シハの名が合っていない。

 偽りの名。力尽くで引き寄せ、強引に躰に巻きつけた、偽物の名だ。

 シハの仮名(かりな)を纏ったものは、無造作に足を踏み出し、作業場に入ってきた。誓文士とその弟子しか立ち入ってはならない、神聖な場所に。

 馬鹿者、出て行けと、ロクサ先生が顔を真っ赤にして怒鳴る。

 わたしは背筋が冷えて、両腕に鳥肌が立っていた。頭が痛い。耐えきれずに、机に手をつく。目の前に暗い靄がかかる。

 いつの間にか、小石を摺り合わせるような音が両目の奥に染み込んできていた。甲高く軋む音。無理やりに引き剥がされ、歪められた名の悲鳴。

 わたしの表情と、シハの姿をしたものとを見比べて、ロクサ先生が声を上げた。


「もしや……称名師か!」


 そうです。わたしは必死に頷いた。これは、偽物です。

 先生はすぐに、赤毛の称名師を思い浮かべたようだった。ついさっき、追い返してやると息巻いたばかりだ。こめかみに青く血の筋が浮かんだ。


「アルーダどのか。何ということを! あまりに無礼ではないか。名を偽って、誓文士の作業場に入り込むなど――」


 いつもの怒鳴り声は、呻き声となって途絶えた。

 入り込んで来たものは無造作に手を伸ばし、ロクサ先生の口をつかんでいた。指が頬に食い込み、骨の曲がる音が聞こえそうなほどだった。先生は相手の手首を両手でつかみ、逃れようとしたが、無駄だった。それは小柄な師の顔を覆い被さるように覗き込んだ。睫毛を触れ合わせんばかりに眼に眼を近づけ、言った。


「――だまれ」


 声もシハの声だったが、そうではなかった。


「黙れ。虫め」


 青白い病の花のように、声が師の顔面を包んだ。

 口を覆った指の影が暗く膨らみ、ずるりと皮膚の下へ潜り込む。

 先生の絶叫は、押しつけられた掌に殺された。老いた短躯が歪み、弓なりに曲がる。狐に捕らえられた兎のように、手足がいっそう激しくもがいた。

 暴れる爪の先が、相手の額を掻き、血の雫が飛んだ。

 称名師は顔をしかめた。深い、凍てつくような息をつくと、偽りの名が滑り落ちた。





 見慣れた中年女の顔が溶ける。白く濁り、流れ落ちたその下から、彫像のように整った()の顔が現れた。


 アルーダでは、ない。


 表情のほとんど動かない顔は、蝋でできているかのようだった。薄青い眼は硝子、褪せた金色の髪は糸。肉の上に張り付いた仮面だと言われても、信じただろう。

 下働きの質素な麻の服や、肥った腹や手足も、次々に流れ去った。代わりに帝国の貴族の衣服が現れた。光沢のある白い礼服。肩の飾り布は高価な青染め。胸には豪奢な黄金の飾りが揺れ、先生の涎で汚れた手には、宝玉をあしらったいくつもの指輪が嵌まっている。腰帯も黄金、留め金には見事な大ぶりの蒼玉。

 恐怖が胸を白く凍らせた。

 なんてことだろう。この、金銭(かね)のかかった身なり。

 アルーダなど比べものにならないほど高位の貴族だ。間違いない。

 胸の飾りに、狼と月の図案があしらわれているのも目に入った。高貴にして精悍なるエリシュラン帝国の紋章。皇帝の許しがなければ、決して身につけることのできない意匠だ。

 そうだ、と思い当たった。帝都には、皇帝のために働く称名師がいる――。

 目の前が暗くなった。いったいどうして、そんな者が、ここに。

 張り裂けそうに見開かれたロクサ先生の眼を覗き込んで、女はつぶやいた。


「おまえは……白く、硬く、重い。荒野の風が吹こうとも、動かぬ。……だが、痛みには弱いな。打たれれば、たやすく崩れ、叫ぶ。惨めな老いぼれよ」


 称名師の手から伸びた影は、今や、先生の全身を這い回っていた。隅々まで入り込み、探り、剥ぎ取り、こじ開け、暴き立てる。師は黒い指に冒され、まるで生皮を刻まれ剥がされているかのように叫び続けていた。

 影が伸びる。老いた躰の最も奥まで入り込み、誰にも許されない秘密を引きずり出す。

 恐ろしい音が響き渡った。

 わたしは泣きながらうずくまった。嘲りの笑みを浮かべて、皇帝の称名師は先生の耳に囁いた。


「――《白砂岩(メランヘル)》」


 それが、ロクサ先生の《霊の名》だった。

 誰に言われずとも分かった。その名は、師の奥深くに在った。長い間、誰にも知られずに、ロクサという人間の有り様を定めてきた名だった。

 老いた誓文士の魂の形を顕す、名。

 ()ばれた名が響く。白く硬い、ざらついて重い音が師の全身から立ち上り、小柄な躰を揺さぶり、包み込んだ。

 称名師の手は、獣の牙のようにしっかりと、その名の片端を握り込んでいた。

 先生の魂を我が物にして、青白い女は皺深い口を塞いだ手を放した。《霊の名》を称ばれ囚われた躰は、死んだように床に崩れ落ちた。称名師は涎のついた掌を不快そうに眺めた。身を屈め、倒れた先生の服で手を拭う。


 そうして、わたしの方を振り返った。


 悲鳴の代わりに、掠れた息が漏れた。

 わたしも同じようにされるのだと、薄青い眸と目が合った瞬間に悟った。

 躰の奥底まで覗き込まれる。あの影の指に這い回られ、最も深くに沈む名をつかまれて、奪われる。二度とこの女に逆らうことなく、支配され、意のままにされる。

 それが、この女の力だ。

 称名師はロクサ先生を見もせずに命じた。


「今日ここで見たことは、全て忘れよ。おまえの弟子は、恩知らずにもおまえを裏切り、出奔した。行く先は分からぬ。知りたいとも思わぬ。以後、誰に訊かれても、そのように答えるのだ」


 撲たれた犬のように身を丸めて、先生は震えていた。両手で頭を抱え、病に冒されたように首を振りながら、ようやく微かに、頷いた。

 うずくまったままのわたしに、称名師は近づいてきた。先生の魂を捕らえたのと同じ手が、髪をつかみ、引きずり起こした。


「アウラ」


 冷ややかな声が称んだ。

幼い頃に使っていた仮名(かりな)が、儚い黄金の輝きを響かせるのを、わたしは頭を刺す痛みの中で聴いた。

 称名師は満足げに微笑した。


「ずいぶんと長く、逃げ回ってくれたものだ。その《才》を持ったままで」


 アルーダと同じだ。慄然とした。この称名師は、わたしに《才》があると思っている。


「だが、もう手放さぬぞ。そなたは、わたくしとともに在らねばならぬ」


 薄青い眸がわたしの眸を覗き込んだ。

 黒い影が肌に触れるのが分かり、全身に鳥肌が立った。

 この女は、わたしの《才》を支配するために、《霊の名》を奪おうとしているのだ。わたしの魂を捕らえ、意のままにして、己の望むように《才》を使わせるつもりなのだ。

 ありもしない《才》のために。


 ――いやだ。


 声を限りに、悲鳴を上げた。無我夢中だった。思い切り足を振り上げ、相手の腹を力一杯蹴り飛ばした。

 称名師の喉から、呻きが漏れた。

 髪から手が離れる。わたしはすぐ後ろにあった椅子をつかみ、振り回し、殴りつけた。怯んで後ずさった相手から逃げ、開けっ放しの窓に駆け寄った。


「《白砂岩》!」


 背後で憤怒の叫びが上がった。

 ロクサ先生にわたしを捕まえさせようというのか。胸に意外なほどの痛みが走った。先生を殴りたくはない。

 だが、振り向いたわたしの目の前で、ロクサ先生は躰を丸めたまま、床に己の頭を叩きつけた。


「お救いくだされ。シタールよ、お救いくだされ! お救いくだされ!!」


 溺死しかかった者の叫びだった。

 師は、誓約を守ろうとしていた。《霊の名》を知られ、称ばれてもなお、抗って。

 わたしを一人前の誓文士にするという誓いは、その日が来るまで、わたしを害意あるものから守るという約束でもあるのだから――。

 涙がこみ上げた。ごめんなさい、先生。ごめんなさい。ろくでもない弟子で。

 わたしは窓枠に足をかけ、砂避けの布を跳ね上げて、外へ転がり出た。



 年内の更新は今回が最後となります。

 皆様よいお年をお迎えください。

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