称名師
2
あまり眠れなかったのに、翌朝はいつもと同じように目が覚めた。
住み込みの下働きと一緒に起き出し、粗末な朝餉をとって、作業場の掃除を始める。
家の他の場所とは異なり、作業場の清掃は下働きの者には任せない。客の中には、誓文士に依頼した誓約詩の内容を秘密にしたい者もいる。詩を彫りかけた石板などが保管されている場所には、誓文士と見習い以外の何者も、決して、立ち入らせない。
まっさらな石板や木版、金属板、貴重な紙の巻物が並んだ棚の埃を払う。小刀や筆や顔料を準備し、今日使う予定の板などと一緒に、作業机の所定の場所に並べて置く。壁の窪みには、鍵のかかった箱が積まれている。詩学に関する書物や詩文の先例を集めた、貴重な写本が収められているのだ。鍵が壊れていないか確認し、埃を払う。
全て用意を調えて、先生が来るのを待つ。
と、換気のために開け放していた窓の戸板を、誰かが外から叩いた。
作業場の窓なのに。しかも、裏庭に面した窓だ。つまり、窓を叩く者は、誓文士の家の裏庭に、勝手に忍び込んだということ。
こんな不作法をする者には、ひとりしか心当たりがない。
振り向くと、思ったとおりの顔が無遠慮に室内を覗き込んでいた。
「ハラン兄さん。ちょうどよかった、相談したいことがあったの」
「何だよ、いきなり」
窓枠に乗って寛いでいた野良猫を追い払って、わたしよりもいくつか年上の男が顔をしかめた。
黒髪を短く切り、がっしりとして大柄で、陽に灼けている。腰に剣を提げた身なりは警備隊の兵にも見えるけれど、それにしては小汚い。
「半年ぶりに会った恩人に、厄介ごとを押しつける気か? たまにはシタール神だけじゃなく、慈愛の女神の詩でも詠んでみろ。少しは俺に優しくなれるだろ」
「茶化さないで。真面目な話なんだから」
ハラン兄さんは肩を竦め、両手を広げた。
兄さんと呼んではいるが、実の兄ではない。わたしの母、カリシャの知人である。
出身はここエディスだそうだが、普段はあちこちの町を転々としているようで、この家には半年に一度くらいしか顔を出さない。何の仕事をしているのかも言わない。尋ねても笑ってはぐらかしてしまう。
母ともどういう知り合いなのか、詳しくは教えてくれない。昔、帝都で知り合ったんだ、と言うばかりだ。
でも、自分で言っているとおり、ハラン兄さんはわたしの恩人だ。
七年前、母から引き離されたわたしをエディスまで連れてきて、誓文士見習いの仕事を紹介してくれた。でなければ、十二歳のひとりぼっちの子どもが、まともに仕事を見つけて暮らすことなどできなかっただろう。
わたしは深い息と一緒に、胸に溜まった不安を吐き出した。
「昨日、変なお客さんが来たの。わたしに話があるって。若い男の人で、貴族だけど、そんなに位は高くないみたいだった」
「若い男? おまえを愛人にしたいとか、そんな話か。物好きな奴だが、いいじゃねえか、たんまり貢がせてやれ」
「馬鹿言わないで」
客人の美貌が頭をよぎり、頬が火照った。
わたしの容姿は、平凡だ。生まれはザンドゥラだけれど、どうもあちこちの血が混じっているらしく、これといって特徴のない外見である。母は生粋のザンドゥラ人だったが、父は、混血の帝国人だったらしい。
とにかく、わたしは貴族の男に見初められるような美女ではない。もつれがちな黒髪も、印象に残らないくすんだ顔立ちも、やせっぽちの躰も、何もかもだ。
「とにかく、そういうことじゃなくて……もしかして、母さんのことを知っていて、何か言いに来たのかも……」
昨夜からの心配を口にすると、ようやく、兄さんも真剣な顔になった。
母から離れ、見知らぬ隊商に預けられた日のことは、今も鮮明に覚えている。
硬く強ばった母の顔。褐色の肌と黒髪、大きな目、艶やかな顔立ち。帝国の東の果て、ザンドゥラに住む民の顔だ。わたしの肩をつかんだ指は長く、痩せていた。痛みが食い込み、骨が軋んだ。
決して、今までの名を名乗ってはならない。母は言った。
名乗れば、名を手繰り寄せる者の耳に、指に、その名が届くかも知れないから。
たとえ魂の形をあらわす《霊の名》ではなく、普段の暮らしに使う仮名であっても、駄目だ。生まれてから十二年ものあいだ纏い続けた名は、わたしの躰との間に絆を持つ。
だから、もう二度と、名乗ってはならない。
でなければ、恐ろしいあの称名師が、おまえを見つけるかも知れないから――。
そうして、母はわたしを隊商に預け、立ち去ったのだ。
帝都を発って、三月。待ちわびた末に迎えに来てくれたのは、母ではなく、ハラン兄さんだった……。
「そいつの見た目は? 仮名は名乗らなかったのか?」
兄さんが尋ねる。首を横に振ろうとして、わたしは思い直した。
――むしろ、そなたにはアルーダと呼んでもらいたい。
「紅雲雀……って、言ってたけど」
口にすると、奇妙な感じがした。かわいらしい小鳥の名。いくら仮名だとしても、本人に合っていない。
「変な名前。ね?」
同意を求めたが、返事はなかった。黙り込んだ兄さんの顔は、灰色に曇っていた。
何か、よくないことを言ってしまったのだろうか。
薄れかけていた不安が、再び暗い靄のように胸を満たした。
「兄さん?」
「まずい……かも知れん。もしかしたら」
硬い声で、ハラン兄さんはつぶやいた。
「そいつは、たぶん、称名師だ。おまえの母さんと同じ、腕利きの称名師だぞ」
いちばん古い記憶は、金色の雌獅子の背のうえだ。
旅の荷物の入った革袋を、小さな手で懸命に抱え込んだわたしを、獅子は背に乗せて走っている。
夏の荒野の匂いが流れ過ぎていく。濃緑の樹に縁取られた街道に光と影が踊り、温かな毛皮のうえで躰が揺れる。雄大で精悍な獣は、大地との境目も定かではない。黄金の温もりに包まれて、わたしは獅子の背に頬を寄せる。
――母さん。
風が歌っている。囁いている。この世のすべてを織り成す名を、密やかな言葉で告げている。
雌獅子は立ち止まり、わたしを背から下ろして、獣の名を脱ぎ捨てる。褐色の腕が伸び、優しくわたしを抱いて、疲れていないか、お腹は空いていないかと問いかける。弾んだ息を整え汗を拭い、大地に二本の脚で立って、ザンドゥラ人の女が微笑む。
獅子の脚は、重い荷を負って長く走り続けるのには向かない。
母は地面に座り、姿勢を低くして、また別の名を称ぶ。
称名師は、名を称ぶ《才》を持つ者だ。
名を称んでそのものを支配し、身に纏って姿を変える。この世のあらゆるものには名があり、名は全てを顕わしている。称名師にとっては、この世は名という糸で織られたとてつもなく巨きな織物だ。《霊の名》であれ仮名であれ、その耳で聴き取り、指で手繰り寄せ、声で称ぶ。
母は豊かな深い声で悍馬の名を称び、引き寄せて、纏った。女の姿は融け消え、栗色の見事な毛並みの馬が、わたしの前に膝を折る。
頭をひと振りしたのは、乗りなさいという意味だと、すぐに分かった。
荷物を背負い、苦労して馬の背によじ登る。再び、温もりが躰を受け止める。
確か、五歳か、六歳の頃。母と二人で、東方の港町キドルを離れ、ほうぼうの町に立ち寄りながら、帝都を目指して旅をしていたときのこと。
まだ、称名師がどれほど暗く、恐ろしく、穢いとされるものなのか、少しも知らなかった頃のことだ。