客人
読んでいただき、ありがとうございます。
第1回ご好評(自分比)につき、年内にあと数回更新します。
次回更新は12/22予定です。
長い時間うずくまっていたせいで、脚が痺れてきた。
のろのろと立ち上がる。割れた粘土板を捨てるだけのことにどれだけ時間がかかるのかと、また先生は怒鳴るだろう。家の中に戻りたくない。気が重い。
けれど、空っぽの胃が、ぐうと鳴った。
午には豆の煮物と麺麭を少し食べただけだ。怒りはまだ収まらなかったが、それはそれ、空腹は空腹。奴隷並みの扱いでも、とにかく住み込みの見習いではあるから、食事は出る。戻って、夕食を待とう。
屋内に入り、詩文を石版や金属板に彫りつける作業場を覗いた。変だ。いつの間にか、明かりが消えている。蝋燭なしに作業ができる時刻ではない。先生は仕事を切り上げたのだろうか。
作業場の代わりに、隣接する小部屋の扉から明かりが漏れていた。誓約詩の代作を依頼しに来る客と打ち合わせをするための部屋だ。
扉に近づくと、低い声が聞こえた。先生が客と話をしている。
こんな時刻に?
エディスの町は治安のいい方だが、それでも、日の落ちた後に出歩きたがる者などいない。
普通の客ではないのだ。好奇心をくすぐられた。例えば、人には言えない誓約を立てたい高位の貴族が、護衛を連れてお忍びで来ている、とか。
音を立てないように扉を少しだけ引き、隙間から覗いてみる。
ロクサ先生と客とは、小さな円卓を挟んで向かい合っていた。先生の髪の薄い後頭部が見える。老いた短躯を顔料と石の粉の付いた作業着に包み、いつものようにやや反り返って椅子に掛けていた。
そしてその向こうに、客人の姿があった。
――一目見て、息が止まった。
若い男性で、顔立ちは整っていた。整いすぎていて怖いほどだ。中でも印象的なのは、眸の色。血の色を帯びた暗い紅褐色だ。まるで貴石。残虐な炎を秘めた宝玉の色。人間の眸の色とは思えない。
炎の色に重なって、なぜか、澄んだ青空の記憶が頭をよぎった。
水の匂いと、草の匂い。やわらかな午後の日差しの下に立つ影。
とても恐ろしい誰か……。
苦しいほど鼓動が速くなっていた。
この人は、誰。
最初に思ったとおり、誓約を立てる客人だろうか。それとも、先生の知り合いか。
客人の容貌は、帝国中を旅して回る歌鳥の民の唄い手にも似ていた。鮮やかな緋色の髪に、大きな目、くっきりとした眉や鼻筋、やや浅黒い肌。色とりどりの衣装と装身具を身につけ、祭りの頃に現れては、歌や楽器、踊りで町の人々を楽しませ、稼ぎを得て、また次の町へ旅立っていく者たち。
しかし、身なりは、流浪の人々のようではなかった。丈の長い上物の平服に、裾に刺繍をほどこした細袴。首から提げた小さな布袋は、護符でも入れているのだろうか。いかにも身分ある帝国人らしい服装だ。椅子に掛けて寛いだ姿勢も品があり、その日暮らしの身に染みつく卑屈さとは無縁だった。
不意に、深紅のまなざしが滑り、わたしを捕らえた。
一瞬、視線が絡む。
息が奪われる。
なんて眸の色だろう――。
冷たい宝玉の色と見えたその眸は、けれど、次の瞬間、悪戯な少年のように瞬いた。
「ロクサ師。本人が来たようだぞ」
そう言った声は、ごく普通の、闊達な青年の声だった。
躰から力が抜けた。言葉を発すると、客人は急に、町に何人もいる貴族の子弟のひとりに見えた。優雅で、お金持ちで、冷淡で、屈託のない貴人たち。詩の代作以外のことでは、わたしに何の関わりもない人々だ。
息をついたのも束の間、先生の禿頭が振り向いた。立ち聞きに気づいたのか、皺深い顔に血の色が上っている。まずい。
怒鳴られる前に、急いで扉を大きく開けた。膝を折り、丁寧に挨拶をする。
「ご無礼をいたしました。ラキスと申します。……公子様」
呼びかけの言葉に迷い、無難に、高位の貴族の子弟に対する尊称を選んだ。より高い身分に間違える分には構わないだろう。
客人は声を上げて笑った。
「いや、俺はそのような大層なものではない。むしろ、そなたにはアルーダと名を呼んでもらいたい――」
「戯れはおやめくだされ」
ぴしゃりと先生が遮った。言葉遣いは丁寧だが、態度に恭しさがない。普段、貴族の客に接するときの態度ではなかった。
どういうことだろう?
先生はぞんざいに手を振り、「下がれ」とわたしに命じる。
客人が異を唱えた。
「いいではないか、ロクサ師よ。彼女は当事者だ。むしろ、彼女にこそ、話を聞かせるべきではないか」
わたしに?
意外だった。この奇妙な客人が、見習い誓文士ごときに何の用があるというのだろう。少なくとも、詩作の依頼ではなさそうだ。
では、何だ?
――まさか。
先程とは全く別の息苦しさが、喉元にこみ上げた。
まさか、わたしの、昔の名前に関係すること――?
心臓がぎゅっと縮み上がった。
先生には話していない。誰にも、話していない。
エディスの町に来て七年。素性を偽り、名前を変えて生きてきた。決して誰にも知られないように、きつく、きつく、口を閉ざして、上から嘘で塗り固めた。
そうしなければならないと、母が言ったのだ。
わたしの強ばった表情を見て、先生は、叱責を恐れていると勘違いしたらしかった。首を横に振り、少しだけ口調を和らげた。
「おまえを咎めようという話ではないから、安心せい。さあ、下がれ。――見てのとおり、臆病な小娘でございます、これは」
言葉の最後は、赤毛の客人へ向けられていた。相手の返答も聞かず、先生は椅子から立ち、わたしの腕をつかんで部屋の外へ押し出した。目の前で扉が閉まる。ご丁寧に静音の言符を貼り付けた気配までした。
扉の内側から、もう人の声は漏れてこない。言符は、真言の《才》を持つ言符師たちが丹精込めて言葉を書き込んだ札だ。効果には、間違いはない。
不安が躰を内側から噛む。思わず、強く唇を噛んだ。
ああ、誓約の神シタール。真実の女神マレ。どうか見逃してください。わたしの嘘を暴かないでください。
この家から追い出されたら、わたしには行く場所がないんです。