44:この人が私の婚約者様(1)
蒸し暑い夏がやって来た。じっとしていても汗が滲んでくる季節。
伯爵家の庭にある大きな木の陰で、フィロメーナは編み物をしていた。
さらさらと風に揺れる葉の音が、涼しげで心地良い。
今編んでいるのは、キリンのあみぐるみ。首の長い黄色い子だ。
小さな二本の角をつけ、体には茶色の刺しゅう糸で模様をステッチしていく。黒いボタンで目と鼻を作り、口元は刺しゅうで表現した。
手足のバランスを整えながら胴体にくっつけると、いよいよ最後の仕上げ。
編み終わりの糸をとじ針に通して、あみぐるみの中へ。中に詰めた綿に絡めるようにしながら、長めに残しておいた糸端をしまいこんでいく。
糸端は何も考えずに短く切ってしまうと、最悪ほどけたりする。だから、こうやって最後の糸始末まできちんとやり遂げることが重要だ。
と、そこに二人の青年がこちらに駆け寄ってきた。フィロメーナの兄、ベルヴィードとオルドレードだ。
「可愛くて可憐なお姫様フィー! こんなところにいたんだね」
「……探したよ、フィー」
兄二人はフィロメーナの頭を撫でて、にっこりと微笑む。フィロメーナも大切で大好きな兄たちに、にこにこと微笑みかけた。
「ベル兄様、オル兄様! 見てください、キリンさんができたのです!」
「……うん、フィーは相変わらず変なものが大好きだね」
「へ、変なものではないのです! 知らないのですか、兄様たち! 今はあみぐるみが可愛いとブームなのですよ!」
そう、古の魔女があみぐるみの封印を解いてから、あみぐるみに恐怖を覚える人はいなくなった。それどころか、「可愛い!」と女性たちに大人気になっている。
おかげで、フィロメーナの作るあみぐるみの需要も半端ない。
フィロメーナはそっと、傍に置いている本を撫でた。
魔女からもらった貴重な本。あみぐるみ作りが得意だったという女性が残してくれたもの。
この本を書いた女性も、きっと喜んでくれていると思う。あみぐるみはもう、化け物なんかじゃない。可愛くて、愛すべきものになったから。
「……そういえば、何か用ですか? まだ午後のお茶には早いと思うのですけど」
「ん? ああ、フィーに客が来たんだよ」
「お客様?」
「そう、婚約者様がね」
兄の言葉に、フィロメーナは瞬時に反応する。頬を紅潮させ、瞳をきらきら輝かせて、兄を見上げた。
「本当ですか、兄様! ……もう! 早く言ってください、そういうことは!」
「だって、あいつが来たらいつも、フィーは僕たちをほったらかしにするじゃないか」
「何を言っているのですか。そろそろ妹離れをしてください!」
フィロメーナは編み物道具を手早く片付けると、兄たちに押しつけた。
「これ、私の部屋までお願いします! 私はすぐに行かないと!」
「フィー……」
兄二人が情けない顔をする。フィロメーナはくすりと笑うと、大好きな兄たちにぎゅっと抱き着いた。
「心配しなくても、私はずっと兄様たちの妹なのです。お嫁に行っても、ずっと、ずっと、兄様たちのこと、大好きなのですよ」
「……うん」
ベルヴィードとオルドレードが、小さく笑い返してくれる。そして、そっとフィロメーナの背を押してくれた。
「行っておいで。彼は応接室にいるよ」
「はい!」
キラキラ光る芝生の上を、軽い足取りで駆ける。夏の日差しにフィロメーナの長い髪がきらめいた。
玄関を抜け、廊下を走り、応接室の扉を開ける。
そこには、赤髪に橙の瞳を持つ美青年が立っていた。フィロメーナは顔を綻ばせ、その美青年に抱き着く。
「レオン様!」
「メーナ!」
レオンハルトはフィロメーナを抱き留め、優しい声で名前を呼んでくれた。柔らかな春風のような香りに包まれて、幸せいっぱいになる。
(この人が、私の婚約者様なのです!)
レオンハルトと共に一晩過ごした後。
驚くほどのスピードで事態は急転した。
まず、王子様との婚約の話があっさりとなかったことになり、間を空けず、「魔」の公爵家からの縁談が舞い込んだ。
兄たちは最後まで渋っていたけれど、フィロメーナの気持ちを尊重した父が、その縁談を受け入れてくれた。
そう、レオンハルトとまた婚約することができたのだ。
はじめの婚約の時とは全く正反対。幸せ溢れる婚約となった。
「メーナはまた編み物でもしてたのか? 指が赤くなっている」
「はい! 今回はキリンさんを作りました。ベル兄様には変だと言われてしまったのですけど……」
そう言いながら、ふとレオンハルトを見て首を傾げる。
「あの、レオン様? 髪や服が少し乱れていませんか?」
「……お兄様がたが、不意打ちをかけてきた」
「またですか?」
ベルヴィードとオルドレードは、妹を奪う男が気に入らないらしい。隙あらばすぐに魔術で攻撃を仕掛けている。
でも、レオンハルトも負けていない。さすが国一番の優秀な魔術師。兄たちの攻撃をなんとか躱し続けている。
「……ごめんなさい、レオン様。兄様たちが失礼なことを」
「いや、良い。これくらい、メーナと結婚できるならなんてことない」
レオンハルトは明るく笑うと、フィロメーナの額に軽くキスを落とした。
柔らかな温かさが額に残り、フィロメーナの心臓がどきどきと跳ね回る。
あみぐるみの時はちょっとしたことで照れたり、気絶していたというのに。呪いが解けてからのレオンハルトは、なんだか余裕を見せるようになった気がする。
それに、改めて婚約し直してからは、周囲が驚くほどフィロメーナに甘くなった。
その溺愛っぷりは、あの兄二人にも劣らない。
あまりにもフィロメーナに対しての愛情があからさまなので、レオンハルトを狙っていたご令嬢たちも諦めたらしい。
まあ、そのご令嬢たちの次のターゲットは王子様になったと聞くので、王子様はすごく大変そうだけど。
「……そうだ、結婚式の後のことで、確認しておきたいことがある」
レオンハルトが乱れた髪を直しながら、フィロメーナを見た。フィロメーナはこてりと首を傾げて、レオンハルトを見つめ返す。
レオンハルトとフィロメーナは、この秋に結婚式をすることになっていた。
出逢ってから約一年。幸せな未来は、もう目の前まで来ている。
「結婚式の後って……初夜のこと、ですか?」
フィロメーナは自分で言っておきながら、真っ赤になってしまう。前世ではそういうことに全く縁がなかったので、とにかく困る。
けれど、レオンハルトが言いたかったのは、そのことではなかったらしい。釣られて真っ赤になりながらも、レオンハルトは手をぶんぶん振って否定した。
「しょ、初夜も大事だが! いや、本当に大事だけども! そうじゃない。そうじゃなくて――……」