40:魔女とあみぐるみの秘密(5)
何も考えられなかった。
レオンハルトに近付こうと努力すればするほど、彼が遠のいていくなんて思ってもみなかった。
フィロメーナは兄の仕事についていくのを止め、伯爵家の自室に籠もるようになった。
(王子様は、優しくて素敵な方です。でも、私は、レオン様が好き……)
ライオンのあみぐるみのお腹に、顔を埋める。部屋の中はカーテンを閉めたままにしてあるので、昼間だというのに薄暗い。
王子様との結婚の話が、フィロメーナの意思とは関係なく、どんどん進む。
そう、貴族の婚姻に、個人の感情なんて邪魔なだけだ。フィロメーナがどんなに嫌がっても、伯爵家の令嬢である限り、これは避けられないことだった。
それでも一応、抵抗はしてみた。
変人扱いされている令嬢であるということや半年ほどレオンハルトと同居していたことを告げて、こんな自分は妃としてふさわしくないのだと訴えた。
けれど、「古の魔女」を手懐けた功績が大きすぎたらしい。
少しくらいのマイナス面は、その功績のおかげであっさり帳消しになってしまう。
(こうなったらもう、伯爵家から出て行くしかないのです)
王子様との婚約が正式に調う前に、フィロメーナは伯爵家の令嬢であることをやめるしかないという結論に辿り着いた。
魔女からもらった一冊の本を手に取る。
この本、実はかぎ針の基本をまとめてあるものだった。編み図に使われている編み目記号や、その編み方が詳しく説明されている。
丁寧に書かれたその本は、「異世界からやって来た、あみぐるみ作りが得意な女性」が書いたものなのだと思う。中身は全て日本語だった。
その女性がいた異世界というのは、きっと芽衣菜がいた世界だったのだろう。しかも、その女性は日本人だったはずだ。
日本にいた、あみぐるみが好きな女性――妙に親近感がわいてくる。
その女性が残してくれたこの本があれば、新しいあみぐるみを作り出すことも効率良くできる気がする。
(これを使って、あみぐるみ職人になることにするのです。伯爵家を出て、あみぐるみを作りながら、どこか遠くで生きるのです。大丈夫、芽衣菜の時に貧乏なひとり暮らしを経験していますし、なんとかなりますよね)
フィロメーナを可愛がってくれている兄や家族と離れるのは辛い。だけど、このまま王子様の妃になるのは、きっと、もっと、辛い。
だって、レオンハルトは王子様の側近だ。妃になれば、嫌でも顔を合わせることになるだろう。
決して叶うことのないレオンハルトへの想いを引きずりながら、どんな顔をすれば良いというのか。
――無理だ。そんなの耐えられない。
馬鹿みたいに、涙が溢れてくる。抑えきれない嗚咽が漏れた。
レオンハルトの温かい手で、頭を撫でてもらいたかった。
優しい声で、慰めてもらいたかった。
ずっと、傍にいたかった。
腕の中にいるライオンのあみぐるみに、涙が吸い込まれていく。
ふと、「古の魔女」の提案が頭をよぎる。このライオンのあみぐるみを渡せば、この状況を打破できるのではないか――。
でも、フィロメーナはぶんぶんと首を振った。これは、やっぱり渡せない。
それに、魔術で彼を手に入れても、きっと後悔するだけだ。古の魔女を利用して自分の望みを叶えるなんて、あのドドガルと同じになってしまう。
そんなの、絶対に、嫌。
早く、この家を出て行こう。フィロメーナはのろのろと鞄に必要なものを詰め始めた。
最低限必要なお金と衣類、生活用品。それに、レオンハルトにもらった刺しゅう糸の残りとかぎ針。
(もっと、はじめから自分の気持ちを認めていれば良かったです。レオン様に嫌われたくないからといって、自分をだますような真似をした天罰なのです……)
後悔、先に立たず。
フィロメーナにできるのは、これからの人生で同じ過ちをしないことくらいだ。
涙をごしごしと拭って、フィロメーナは旅立ちの準備を続けた。
そして、夜。
仕事から帰ってきた兄たちと一緒に、夕食をとった。
フィロメーナは優しい兄たちに、心の中でお別れを言う。
(ベル兄様、オル兄様。今までずっと可愛がってくれて、ありがとうございました)
いつも甘い言葉でフィロメーナを包んでくれたベルヴィード。
いつも温かな手でフィロメーナを導いてくれたオルドレード。
大切で、大好きなお兄ちゃんたち。
(ひとりで立派に暮らしていけるようになったら、会いに来ますね。その時まで、どうかお元気で)
父や母にも、いつも通りに「おやすみなさい」と挨拶をした。
(お父様もお母様も、ありがとうございました。私は、二人の子どもとして生まれてくることができて、本当に幸せでした)
心の中で感謝とお別れを告げると、踵を返して自室に戻る。この家を出るのは、真夜中の予定。それまでは怪しまれないようにしないと。
手触りの良いカーテンを開けて、夜空を見上げた。雲ひとつない満天の星を仰ぎ、小さな吐息を零す。
家を出たら、とりあえず北の方に行ってみよう。毛糸の生産が盛んだと聞いたことがあるので、きっとあみぐるみの材料も手に入りやすい。
そこであみぐるみを編んで、どこか売れそうなお店とかを探してみよう。
そうして、いつか王子様が他の誰かと結婚して、ほとぼりが冷めた頃に帰ってこよう。フィロメーナの家族は優しいから、きっと待っていてくれる。
「頑張るのです! もう、これ以上後悔なんてしたくないのです……!」
持っていくものは、必要なものを詰めた鞄、魔女からもらった本、そしてライオンのあみぐるみだ。
時計の針が真夜中を指し示す頃。フィロメーナはそっと立ち上がった。
「さあ、出発です!」
自分が逃げ出したことで大好きな家族が非難されないよう、「全て自分が悪い」という謝罪の手紙を机の上に置いておく。
これがあれば、優しい王子様がきっとなんとかしてくれるだろうと願いと祈りを込めて。
フィロメーナは部屋を見回しひとつ頷くと、足音を立てないように扉へと向かう。そっと、そっと、誰にも気付かれないように――。
と、その時。
背後に人の気配を感じた。
(……え?)
まだ部屋から出てもいないのに、背後に誰かいる?
そんなの、おかしい。だって、それって、さっきまでフィロメーナひとりだったはずの部屋の中に、誰かが侵入したということだから。それか、もともと誰かが潜んでいた……?
幽霊か、不審者か。さっと青ざめたけれど、ふと気付く。
そういえば、いきなり人の部屋に不法侵入してくる知り合いがひとりいた。
――そう、「古の魔女」。
フィロメーナはため息をつきながら、くるりと振り返る。
「もう! 不法侵入は駄目って言ったでしょう!」
「……すまない」
予想よりも低い声で謝られて、フィロメーナの頭の上に疑問符が浮かぶ。
とその直後、目に入ってきたその人の姿に息を呑んだ。
「レオン、様……?」
「久しぶり、メーナ。会いたかったよ」
 




