4:婚約者様はあみぐるみ(4)
フィロメーナは翠の瞳を丸くして、じっと腕の中のあみぐるみを凝視した。あみぐるみはちらちらと横目でフィロメーナを窺ってくる。
(……このあみぐるみさんが、呪われた公爵令息レオンハルト様?)
恐ろしい化け物。おぞましい異形。そんな噂ばかりのレオンハルト。
でも、ここにいるのは、ふんわりとした毛糸のライオンさん。ちょっと良い匂いもする。
普通だ。普通のあみぐるみだ。
「え、え? あなたがレオンハルト様? どこが呪われているのですか?」
「は? 見たら分かるだろう? ほら、毛糸の化け物だし……」
「し、信じられません! 可愛いあみぐるみにしか見えないのです! 呪いというより、これはむしろ祝福に近いのではないでしょうか!」
「祝福っ?」
あみぐるみの声が裏返る。フィロメーナの言葉に、心底驚いたようだ。
「いくらなんでも祝福はないだろう! 君はおかしい!」
「おかしくないです! 呪われた化け物っていうから、髪の毛が蛇になってるとか、膝小僧に顔が浮き出るとか、皮膚が溶けて白い骨が飛び出てるとか、そういうのを想像してたのに!」
「え、なにそれ、恐い」
まずい。フィロメーナの過激な呪いイメージが、兄だけでなくあみぐるみまで恐がらせてしまった。
「あわわ、ごめんなさい。あの、でも、本当にあなたがレオンハルト様なのですか?」
「そうだ。この俺が、呪われた公爵令息レオンハルトだ」
自信満々に言うあみぐるみ――レオンハルト。彼は、黒いボタンの瞳でフィロメーナの顔をじっと見つめてくる。
「君は俺の婚約者になったという娘か? 名前は……」
「フィロメーナ、です」
そう答えてから、フィロメーナは顔に熱が集まるのを感じた。婚約者、という言葉はなんだか照れる。
ほんのりと頬を染めて、もじもじするフィロメーナ。それを見て、レオンハルトがため息をついた。
「フィロメーナ。いろいろ言いたいことはあるが……とりあえず、これだけは聞かせてくれ」
「な、なんですか?」
「なぜ客人の君が、俺の部屋の前にいるんだ。夜這いか」
フィロメーナは一瞬きょとんとしたけれど、すぐにぼんっと音を立てるほどの勢いで赤面する。先程とは比べ物にならないくらいの熱さが、全身を染めあげていく。
「ち、違います! ちょっと迷子になっただけなのです! よ、よ、夜這いなんてしないのです!」
ぶんぶん首を振って否定するけれど、腕の中にいるレオンハルトは疑っているのか、じっとこちらを見つめてくる。
大変だ。このままでは破廉恥な女だと思われてしまう。
「ただの迷子なのです! ここがレオンハルト様のお部屋だなんて、全然知らなかったのです!」
「……本当に?」
「本当に、本当なのです! 信じてください!」
フィロメーナは半泣きになりながら、とりあえず自分にあてがわれた部屋へと戻ることにした。扉が開きっぱなしになっているレオンハルトの部屋から目を逸らし、早足で廊下を進む。
もちろん、レオンハルトを抱っこしたまま。
廊下の壁に取り付けられているランプの明かりだけを頼りに歩く。その明かりは少し薄暗くて、あまり遠くまで照らしてはくれない。
フィロメーナは高級そうな置物を蹴飛ばしたりしないように、足元をしっかり確認しながら進んでいく。
「……あれ?」
気が付くと、豪華な装飾がなされた重厚な扉が目の前にあった。
「……これは書庫に繋がる扉だ。ここでは魔導書を多く保管している」
「魔導書、ですか。さすが『魔』の公爵家ですね」
「まあ、ここは別邸だから、本邸と比べたら貧相だけどな。……で、フィロメーナ。どうして書庫になんて来たんだ?」
レオンハルトのじとっとした目線が痛い。フィロメーナはへなへなと座り込み、しょぼんと項垂れた。
「すみません。私、方向音痴なのです」
ずっと抱っこしていたレオンハルトの体を手放す。すると、レオンハルトはささっとフィロメーナから距離を取った。床の上を転がるように走る。
ぴょこぴょことオレンジ色のしっぽが揺れている。走り方はどこか危なっかしくて、とても可愛い。フィロメーナがぼんやりとその後ろ姿を眺めていると、くるりとレオンハルトが振り返った。
「ちょうど良い。ここには俺にかけられた呪いに関する本があるんだ。誰も読み解くことができなくて放置されていた『解呪の魔導書』。もしかして、君なら読めるんじゃないか?」
「え、私は魔術に詳しくないですし、魔術師の方々が分からなかったものが読めるはずないですけど」
「いや、君は少しおかしいからな。万が一、ということもある」
レオンハルトは、小さな体で器用に書庫の扉を開けた。ギギ、と軋むような音がして、真っ暗な空間が目の前に広がる。
レオンハルトは傍に置いてあるカンテラを取り出し、明かりをつけた。
「それに、俺の呪いが解ければ、君も助かるだろう?」
「え?」
「父から聞いている。俺の呪いが解けたら、君と俺の婚約もなかったことになる、と。……君は自由になれる」
フィロメーナは、はっと息を呑んだ。そうだ、フィロメーナの目標は、レオンハルトとの婚約を解消することだった。
「そうですね。呪いを解いて、婚約解消したいです」
「だろう? 俺もこの婚約には納得していない。無理矢理押しつけられたようなものだからな」
どうやらフィロメーナもレオンハルトも、婚約は不本意なもののようだ。
利害は一致しているらしい。
レオンハルトは迷わず本棚の間を進む。カンテラの明かりに照らされて、ずらっと並ぶ本の背表紙が露わになる。図書館並みの蔵書数なのでは、と思うほど本が多い。古い紙の匂いが、奥に行くほど濃くなっているような気がする。
「……これだ」
本棚の近くに脚立を持ってきて、レオンハルトはある一冊の本を手に取った。その本をフィロメーナの方へ差し出してきたので、ひとまずそれを受け取る。
黒っぽい表紙。厚さはそんなになく、絵本くらいだろうか。装丁が凝っていて、いかにも高そうな本だ。文字もなんだか、すごくお洒落な感じがする。
「これが、『解呪の魔導書』なのですね。開いてみても良いですか?」
「もちろん」
どうせ見ても分からないだろうけれど、見るだけならタダだ。フィロメーナはどきどきしながら、そっと本を開いてみた。
表紙に書いてあった文字はこの王国のものだったのに、中に書いてある文字は全く別のもののようだった。というか、主に記号が並んでいる。
バツ印や縦に細長い小さな楕円がいくつも並び、それらがまんまるな形を作っている。一ページに三個ほど、そんな感じの図がのっていた。
まんまるなその図形の中心には「わ」と書いてある。
そう、ひらがなの「わ」。
ページの左上には「材料」とか「用具」とか書いてある。
うん、これは漢字だ。
(あれ、この『解呪の魔導書』。もしかして、日本語で書かれているのでしょうか……?)