36:魔女とあみぐるみの秘密(1)
舞踏会も終わり、また穏やかな日常が戻ってきた。だんだんと気温も高くなってきて、天気の良い日には少し汗ばんでしまう。
レオンハルトへの恋心を自覚し、その上ですぐに諦めなければならなかったフィロメーナ。兄二人は傷ついたフィロメーナのことを、そっと見守ってくれている。
「フィー。庭を一緒に散歩でもする? 風が気持ち良いよ」
「……ごめんなさい、ベル兄様、オル兄様。私……」
「また、編み物? 最近はそればかりだね?」
フィロメーナはこくりと頷いて、手元を見つめた。
黄色い並太毛糸を一本どりで編んでいく。使い慣れた4/0号のかぎ針を操り、くるくると編み地を回しながら少しずつ、丁寧に。
ある程度納得いく大きさになると、オレンジの糸に切り換えて、細編みのリング編みをする。
(うーん、もう少し長い方が良さそうですね……)
納得のいかないところを一度ほどいて、今度は長編みのリング編みにする。
(うん、こんな感じ、です!)
編み物に集中している間は、何も考えなくて済む。今はそれがとてもありがたかった。
油断していると、すぐに涙が零れそうになるから。
編み物は良い。心が落ち着く。
「フィーはやっぱり、あいつのことが……」
熱心にかぎ針を操るフィロメーナを見て、兄が小さく呟いた。
けれど、そんな兄の声は、集中しているフィロメーナには届かない。
今回はこれまで以上に気合いを入れて編もうと思っている。そのために、わざわざ編み物職人の女性を呼んで、いろいろと編み方を教わった。
この世界には、フィロメーナが知らなかった複雑な編み方が、驚くほどたくさんあった。
パプコーン編みにクロス編み、Y字編みに、ピコット編み。
今さっき使ったリング編みも、その職人さんに教わったものだ。
この世界にあみぐるみはなくても、マフラーやストールを編む技術が存在していて助かった。おかげで、その技術を応用して、より理想に近いあみぐるみを作ることができる。
編み物職人さんはかなり年老いていたけれど、とてもしっかりした人だった。優しい目つきをした彼女は、穏やかな声でフィロメーナに教えてくれた。
「編み物というのはね、魔術ととても相性が良いの。ほら、新しい魔術を作り出す時に『編み出す』というでしょう? あれは、遠い昔、編み物と魔術が密接な関係にあったから生まれた言葉なの。まあ今は、編み物と魔術を融合することができる人なんていないから、ぴんと来ないかもしれないけれど」
編むということは、魔術を扱うということ――。
そんな職人さんの言葉は、フィロメーナの心の奥にすとんと落ちてきた。
職人さんの言う通り、編み物は魔術なのだと思う。だって、心を込めれば込めるほど、不思議な力が作品に強く宿る気がするから。
(だから、きっと、この子も素晴らしいあみぐるみさんになってくれるのです)
フィロメーナはリング編みを終えると、また黄色の並太毛糸に持ち替える。そして、心を込めて、丁寧に細編みを編み始めた。
大きな作品を編む、ということは、とても根気のいることだ。
フィロメーナは黄色とオレンジ色で編んだあみぐるみの頭を、そっと机の上に置いた。
ふうと一息ついて、ころんとソファに寝転がる。自室の天井の模様を眺め、凝り固まった体をうんと伸ばす。
(最後まで、ちゃんと編めるでしょうか)
手のひらサイズの小さなあみぐるみと違って、大きなあみぐるみはとにかく時間がかかる。一度編むのを止めてしまったら、永遠に止まってしまいそうな気がする。
(一日に、数目しか編めなくても良いのです。続けていれば、必ず完成させられるのですから)
編み物に没頭するフィロメーナの自室には、毛糸やかぎ針、段数マーカーが転がっている。使いかけの綿や黒ボタン、それに茶色の刺しゅう糸。
もう貴族令嬢の部屋というより、編み物職人の作業場のようだ。
作りかけのあみぐるみの頭を、じっと見つめる。思い出すのは、前世で見た光景。
大学時代、友達だったあの子の部屋。頭の部分だけ、何個も転がっていたっけ。
あの子はあれから、ちゃんとあみぐるみを完成させたのだろうか。
あの子みたいに、作りかけで放置なんてしたくない。あみぐるみに対して失礼だから。
それに、フィロメーナは知っている。完成させたからこそ、得られるものもあるのだと。
それは、途中でやる気を失って、手足やしっぽを雑に作ってしまったら、絶対に得られないもの。
どんなに拙くても良い。丁寧に、心を込めて、最後までやり遂げる。
やりきった先にこそ、見えてくる幸せがある。
たとえ、傍で誰も応援してくれなかったとしても。
フィロメーナは編むことが大好きだから、絶対に諦めない。
でも、少しだけ、わがままを言って良いのなら。
――優しい「あなた」に傍で見守っていてもらいたいな……。
五月下旬、ある雨の日の朝。
フィロメーナはようやく完成したあみぐるみを、両手でそっと抱き上げた。
「……やっと、会えましたね。私の大事なあみぐるみさん」
そこにいたのは――。
オレンジ色のたてがみをした、ライオンのあみぐるみ。顔と体は黄色の糸で編まれている。手足の先は、たてがみと一緒のオレンジ色だ。
目と鼻は黒いボタン。口まわりは白くて、茶色の刺しゅう糸でぽんぽんぽんとステッチがなされている。お尻には、オレンジ色のしっぽ。
呪われていた時のレオンハルトの姿が、完璧に再現されていた。
ただ、そっくりではあるのだけれど、この子はレオンハルトではない。だから、動いたり喋ったりなんかしない。本当に普通のあみぐるみだ。
でも。それでも。
心の隙間が、ほんの少し埋まった気がした。
「あなたは、私の大好きな人とそっくりなのですよ。大切にしますから、ずっと、一緒にいてくださいね」
ぎゅっとあみぐるみを抱き締める。なんだかとても懐かしい気分になった。
目を閉じると、雨の音がリズム良く跳ねているのに気付く。耳を傾け、その心地良い音に身を委ねる。
ざあざあ、ぽたぽた。時折、ぴちゃんという元気な音。
失恋の痛みを忘れるために作ったライオンのあみぐるみ。そっと頬擦りをした後、フィロメーナはゆっくりと目を開けた。
すると目の前に、フィロメーナと同じ年頃くらいの見知らぬ美少女が座っていた。
「……え? え? 誰ですか?」
「初めまして、フィロメーナ。私は『古の魔女』。よろしくね」
「……はい?」
いきなり自室に現れた美少女に、フィロメーナの頭は大混乱する。少女は腰まで伸びた紫の髪を揺らし、ふわりと明るく微笑んだ。
思わず後ずさって、逃げようとするフィロメーナ。けれど、「古の魔女」と名乗った少女はちょいちょいと指先を動かして、フィロメーナを魔術で拘束した。
「きゃあ!」
「恐がらないで。別にあなたを呪いに来たわけじゃないの。ただ、交渉をしたくて。……ねえ、そのライオンのあみぐるみ、私にちょうだい? 代わりに、あなたの願い、何かひとつ叶えてあげるから」
魔女の突然の提案。フィロメーナは目を瞬かせるしかなかった。




