35:迷子の涙(6)
「……これ、俺にくれないか?」
レオンハルトがストロベリーのあみぐるみを大切そうに握って、首を傾げる。
「欲しいんだ。メーナが心を込めて作ったものが、俺は欲しくてたまらないんだ」
「……ええっ? な、なんでですか?」
自分の作ったものを欲しいと言ってもらえるのは、すごく嬉しいことだ。でも、これは兄に変なものと暗に言われてしまった作品。公爵令息様に渡して良いものではない気がする。
眉を下げてレオンハルトを上目遣いで見ると、レオンハルトの頬が急に赤く染まった。
「そ、それは、俺がメーナのことを……」
「私のことを……?」
「その、す、す……」
と、その時。
ものすごく大きな足音を立てながら、二人の青年が駆け寄ってきた。
ベルヴィードとオルドレードだ。
二人とも眉間に深く皺を寄せ、息を切らしている。
「フィー!」
「ベル兄様、オル兄様?」
「やっと見つけた! ……というか、おのれ公爵令息! 僕の可愛い天使フィーをこんなところに連れ込むなんて!」
誤解だ。でも、それを伝える間もなく、フィロメーナはオルドレードにぎゅっと抱き寄せられた。
ベルヴィードの方は、レオンハルトに掴みかかっている。
「こんな人気のない、薄暗い廊下で何をしていた? もう公爵家とは縁が切れたはずだ。なぜフィーに近付く?」
ベルヴィードは異常なほど怒っているようだった。オルドレードも憎々しげにレオンハルトを睨んでいる。
「あの、ベル兄様もオル兄様も落ち着いて……」
「フィーは黙ってて」
さっと切り捨てるように、兄二人が同時に言う。フィロメーナはひゅっと息を呑んだ。
――なんだろう、何かがおかしい。兄たちはどんなに怒っていても、フィロメーナを無下に扱うことなんて絶対なかったのに。
ベルヴィードはレオンハルトを掴んでいた手を乱暴に離すと、フィロメーナを背に隠すようにして立ちはだかった。
「公爵令息レオンハルト様。貴方は侯爵家のご令嬢と結婚する予定らしいな。さっき公爵様が自慢げに言っていたぞ。フィーと別れて間もないというのに、そんな話がまとまるなんて……随分と準備の良いことで」
ベルヴィードの低い声が、暗い廊下に響く。
侯爵家のご令嬢。フィロメーナよりも身分の高い女性。
そんな人との縁談が、決まっている?
足が震えた。さっと血の気が引いていく。指先が冷たくなって、まともに立っていられなくなる。
知らなかった。レオンハルトに、既にそういう人がいたなんて。
「……侯爵令嬢と婚約なんてしていません。父が勝手に言っているだけで……」
「でも、公爵様に逆らえないんだろう? フィーとの婚約の時も、そうだったものな?」
レオンハルトがぐっと言葉に詰まった。ベルヴィードは畳みかけるように続ける。
「フィーは僕たち伯爵家の大切な宝物だ。守るためなら何でもする。公爵家を敵に回したってかまうものか。家を潰されたって、絶対に屈したりしない」
ベルヴィードは冷たくレオンハルトを一瞥し、吐き捨てる。
「金輪際、フィーに近付くな。関わるな。他の女の影がある奴になんて、可愛い妹は渡せないんだよ」
行こう、とベルヴィードが促してくる。オルドレードが頷き、フィロメーナを支えるようにして歩き始めた。
暗い。寒い。
もう、舞踏会の会場からの音楽は聞こえてこない。
キーンという耳鳴りの音がする。
フィロメーナはちらりと後ろを振り返ってみた。
レオンハルトは俯き、拳を握り締めている。力を入れすぎているのか、その手の甲には筋が浮きあがり、白くなっていた。
(……仕方ない、のです)
フィロメーナはレオンハルトから視線を外し、前を向いた。
貴族の結婚というのは、本人の気持ちは二の次だ。身分が高ければ高いほど、思い通りになんてならない。
親が決めた相手と結ばれるのが、普通。
レオンハルトは悪くない。
だけど、もう、どんなに会いたくても、きっと会えない。
だって、約束の刺しゅう糸の作品は、既に見せてしまった。この先、レオンハルトに会うための口実なんて、見つかるわけがないのだから。
兄二人に寄り添われ、帰りの馬車に乗る。
ふかふかの座席に腰を下ろすと、ゆっくりと馬車が走りだした。
「……フィー?」
隣に座ったオルドレードが、フィロメーナの頬にそっと手を添えてきた。優しい温度が、じんわりと伝わってくる。
「オル兄様」
「……泣かないで」
そっと目元の雫を拭われて、そこで初めてフィロメーナは自分が泣いていることに気が付いた。
ああ、もう限界だ。
一生懸命、気付かないようにしていた気持ちが溢れ出す。
他の女の人に、レオンハルトを取られたくなかった。
あの優しい笑顔を、自分のものにしたかった。
もう手に入らないことが確定してから、こんな風に気持ちを自覚するなんて、本当に最悪。
(レオン様が、好き)
なんて馬鹿なんだろう。
こんなことになるなら、やっぱり呪いなんて解かなければ良かった。
レオンハルトが婚約解消したがっていることなんて無視して、そのまま結婚してしまえば良かった。
自分の汚い感情に嫌気が差す。これではまるで芽衣菜だ。
周りを恨み、憎み、泣き叫んでいた醜い芽衣菜と同じだ。
生まれ変わっても、こんなに醜いままだなんて、認めたくなかったのに。
馬車の窓から見える星空は、フィロメーナの心とは裏腹でとても綺麗だった。宝石を散りばめたような繊細な輝きが広がっている。
清らかな美しさに彩られた夜空の下。醜い心のフィロメーナは、ようやく自分の恋心を認め、そして失恋したのだった。
傷ついたフィロメーナ。
黄色とオレンジ色の並太毛糸一本どりで、あるものを編み始めます。
さて、何を編むのでしょう?
答えは、次回。




