31:迷子の涙(2)
庭の花がちらほらと咲き始める頃。
フィロメーナの元に、ソフィアがやって来た。
公爵家に仕えるベテランの使用人にふさわしい、かしこまった態度で綺麗な礼を見せるソフィア。レオンハルトの屋敷に滞在していた時とは全然違う態度だ。
婚約が解消されたので、仕方のないことかもしれないけれど。
ソフィアの他人行儀な態度は、少し寂しく感じられた。
「フィロメーナ様、お久しぶりです。本日はレオンハルト様から預かってきたものがございまして」
伯爵家の応接室。真ん中に配置されている机の上に、ソフィアが丁寧に箱を置いた。
フィロメーナがその箱のふたを開けると、そこには――。
「……あ、かぎ針と刺しゅう糸です……」
「公爵家の別邸にお忘れになっていらっしゃいましたので。フィロメーナ様にとっては、もう要らないものかもしれないのですが」
「要ります! これは、レオン様が私に買ってくれた、大切なものなのです……」
かぎ針と刺しゅう糸を胸に抱き、ぎゅっと目を瞑る。
確か、レオンハルトはこの刺しゅう糸で何が作れるのか、楽しみにしてくれていた。せっかくプレゼントしてもらったのだから、これでちゃんと何かを作り上げたい。
婚約が解消されてから、なんとなくきっかけが掴めなくて、レオンハルトと連絡を取れずにいた。でも、この刺しゅう糸を使った作品が出来あがったら、それを口実にして会えるかもしれない。
「ソフィアさん、ありがとうございます。私、すごく嬉しいです」
フィロメーナが目を潤ませながら感謝を述べると、ソフィアは嬉しそうに笑みを零した。
わずかに残っていた、レオンハルトとの繋がり。フィロメーナは祈るような気持ちで、刺しゅう糸を使った作品作りに取り掛かることに決めた。
次の日から、さっそく自分の部屋に籠もって編み物を始めた。
編み図があるわけではないので、完全に前世の記憶頼りだ。
「まずは作り目です。『輪の作り目』で編み始めて……」
そう言いながら、はっと口を噤む。ここいるのは、フィロメーナひとりだけ。隣で頷いてくれるレオンハルトはいなかった。
(……ちょっと、寂しいだけなのです。だから、泣いたりしたら駄目なのです)
ふるふると首を振り、フィロメーナは手元に集中する。難しい編み方なんてしなくても良い。それでもこの作品を作り上げることくらいはできるはずだから。
黄土色の刺しゅう糸を六本どりで、2/0号のかぎ針の先に引っかける。そして、くるくると回しながら、丁寧に編み始めた。
立ち上がりの鎖目ができたら、細編みを六目。次の段は、細編み二目編み入れる。その次の段は、細編みと細編み二目編み入れるのを交互に――。
だんだんと、黄土色の円が編みあがっていく。
(このあたりで、細編みのすじ編みをして、立体的にしてみるのです)
フィロメーナが編み図も何も見ずにできるのは、簡単で基本的な編み方だけ。だから、頭を捻って、試行錯誤しながら編んでいく。
細編み、鎖編み、引き抜き編み。細編み二目編み入れる、細編みのすじ編み、中長編み三目の玉編み。
覚えている限りの編み方を駆使して、編み続ける。
(……わわ、失敗です! もっと、まっすぐに編まないと)
上手くいかなかった箇所は、ほどいてやり直す。
黄土色のパーツをなんとか編み上げて、今度はピンク色の刺しゅう糸で別のパーツを編み始める。
ピンク色の部分を編み終わると、今度は生成りの糸を手に取った。そして、黄土色のパーツとピンク色のパーツをくっつけるようにしながら編んでいく。
(綿を入れるのを忘れないようにして、と)
背の低い円柱状になったパーツに、真っ白な綿を詰めて、握ってみる。手のひらにおさまるくらいのパーツは、綿が少なかったのか、すかすかしていた。
フィロメーナはうーんと唸った後、綿を少しずつ追加する。何度も握ってみながら、理想のふかふか加減になるまで綿を入れていく。綿を入れすぎると、今度は固くなってしまうので、慎重に微調整を繰り返す。
(編み図がないと、やっぱり大変ですね。……でも、絶対に可愛く作り上げて、レオン様に見てもらうのです! 頑張るのです!)
綿の微調整を終えて、ようやく編みとじる。
でも、まだ終わりではない。次は赤い刺しゅう糸を手に取った。
人差し指の先くらいの大きさの、雫のようなものを編む。そして、その赤い雫の尖っていない方に、緑色の糸で作った小さな花のようなパーツを編みつけた。
と、そこに、兄二人がお菓子を持ってやって来た。
「フィー、ずっと部屋に籠もっているね。少しは気分転換したらどう?」
「あ、ベル兄様」
「……一緒に、食べよう」
「オル兄様まで! ……わあ、私の好きなクッキー!」
使用人がお茶を持ってきてくれたので、束の間の休憩をとることにする。
兄二人はお菓子を頬張るフィロメーナを緩んだ顔で見守り、ふと作りかけの作品へと目を遣った。
「……この赤い雫みたいなものは、もしかしていちごかな?」
「ベル兄様、さすがなのです! そう、これはいちごのあみぐるみなのです!」
「こっちの黄土色とピンクのやつは?」
「これはですね……」
フィロメーナは刺しゅう糸でできたいちごを、ふかふかのパーツに乗せる。
「……分かった! ストロベリータルト!」
「ひゃあ! よく分かりましたね、オル兄様! 大正解です! まさか分かってもらえるとは思わなかったのですー!」
「……フィーのことなら、何でも分かる」
オルドレードがふふんと自慢げな顔をして、胸を反らした。
そう、今フィロメーナが作っているのは、刺しゅう糸で編むミニチュアスイーツだ。
動物のあみぐるみを編むのも楽しいけれど、こういった食べ物を再現して編むのも、すごく楽しい。
「あとは、このいちごを編みつけて、生成り糸で作ったクリームで囲む予定なのです。黄土色のタルト生地、ピンク色のタルトフィリング、生成りのクリーム……どうですか、ベル兄様、オル兄様! 可愛いでしょう!」
鼻をふんふん鳴らしながら、兄二人に編みかけの作品を見せつける。すると、ベルヴィードもオルドレードもふわりと爽やかに微笑んだ。
「そうだね、フィーはちょっと変なものが大好きだもんね。僕は食べることのできるストロベリータルトの方が良いけど……フィーがこれを可愛いと思うのなら、可愛いんだと思うよ」
あまりフォローになっていないフォローをされた。フィロメーナはつい膨れっ面になってしまう。
「……ああ、膨れっ面のフィーも可愛すぎ。ほっぺ、ぷくぷくだね!」
兄二人がフィロメーナの頬をつんと軽く突いてきた。しかも、それだけでは飽き足らず、フィロメーナの両端からぎゅっと抱き着いてくる。
ちょっと、苦しい。
「もう! ベル兄様もオル兄様も離れてくださいー!」
フィロメーナがこの伯爵家に戻ってきてから、ベルヴィードもオルドレードも溺愛っぷりに拍車がかかっている気がする。兄たちの仕事が休みの日は、大体いつもこうなる。
兄二人の拘束から逃れ、フィロメーナはふうと汗を拭う仕草をした。
この過剰な溺愛っぷりは、実はレオンハルトのことを思い出して落ち込むフィロメーナを励まそうとする兄たちの努力でもあるのだけど。
それにフィロメーナが気付くのは、もっと、ずっと、後のこと――。




