30:迷子の涙(1)
熱のせいでぼんやりとしているフィロメーナの額に、ひんやりとした手が当てられた。
「レオン様……?」
「違うよ、フィー。僕はベルヴィード、君の兄だよ」
「ベル兄様……? どうして、ここに」
「迎えに来たに決まっているじゃないか。僕の可愛いお姫様」
ベルヴィードは優しい眼差しで、こちらを見つめていた。フィロメーナはなんだかほっとして、へにゃりと笑ってしまう。
「……フィー、帰ろう」
オルドレードの声が間近に聞こえ、フィロメーナの体がふわりと抱き上げられた。
「オル兄様? ……あ、でも、レオン様にごあいさつしないと……」
「フィーは何も気にしなくて良いよ。ちゃんと婚約は解消されたし、もうこんな屋敷に滞在する理由なんて、何もないから」
ベルヴィードとオルドレードは、フィロメーナを見て優しく微笑む。
「よく頑張ったね、フィー。すごく立派だったよ。さあ、僕たちの家に帰ろうね」
(ああ、終わってしまったのですね、何もかも……)
ちくりと胸が痛んだ気がした。
けれど、そんな思いもすぐにぼやけていく。
フィロメーナは兄たちの温かさに包まれて、眠りに落ちた。
気が付けば、フィロメーナは伯爵家に戻ってきていた。約半年ぶりに見る自分の部屋の天井に、思わずぽかんと口を開けてしまう。
「う、嘘……。なんでもう帰ってきちゃっているのですか! レオン様に何もご挨拶できていないですのにー!」
頭を抱えて絶叫すると、その声を聞きつけた兄二人が部屋にすっ飛んできた。
「うおお、何事だ、フィー!」
「ベル兄様、オル兄様! あああ、レオン様とのお別れがちゃんとできなかったのです! た、大変ですー!」
「……なんだ、そんなことか」
ベルヴィードもオルドレードも、揃って気の抜けたような表情になる。二人ともフィロメーナのいるベッドの端に腰掛けて、同時にため息をつく。
「お別れなら、僕たちがちゃんとしておいたから心配ないよ。……でも、あの公爵令息ときたら、油断するとすぐにフィーに触ろうとするんだよ。本当、なんて奴だ……まあ、ちょっと睨んでやったら青ざめて引っ込んだけど」
「ベル兄様ったら、レオン様を睨んだのですか」
「うん。だって、僕の素敵な天使フィーに触ろうとしたんだ。許せるわけがないじゃないか」
伯爵家の人間が公爵家の人間を睨むなんて。いくら妹が可愛いからといって、さすがに不敬だ。フィロメーナはあわあわしながら、布団を握り締めた。
「レオン様、怒ったりしませんでしたか……?」
「うん。どちらかというと怯えていたように見えたよ。なんでだろうね、初対面のはずなのにね、ふふふ」
意味ありげに、ベルヴィードは笑った。
(レオン様は、あみぐるみだった時に兄様たちの暴走を見ていましたからね。怯えて当然かもしれません……)
フィロメーナはレオンハルトのことが少し心配になる。トラウマになっていなければ良いのだけど。
「ま、そんなことよりフィー。そろそろ朝ごはんの時間だよ。もう熱も下がったみたいだし、今日からまた、家族みんなで一緒に食べようね」
「……はい」
ベルヴィードが優しく微笑み、フィロメーナの頭を軽く撫でた。続いてオルドレードも同じように頭を撫でてくれる。
フィロメーナはへにゃりと頬を緩めた。
――帰ってきたんだ、大好きな家族の元に。
半年ぶりに、自由を手に入れて……。
伯爵家に戻り、数日が経った。
温かな家族の元で過ごしたおかげか、フィロメーナの体調もすっかり良くなった。
そんなある日の昼下がり。フィロメーナは衣装部屋に新しいドレスが飾ってあることに気が付いた。
「わあ……いつの間に、こんな素敵なドレスが」
腰からふわりと広がるボリュームのあるシルエット。上半身の部分はすっきりとしていて、繊細なレースがあしらわれている。フリルを段状に重ねたティアードタイプのスカートは、春の光の中できらめいていた。
その色は、純白。そう、これは――。
「フィーのためのウェディングドレスだよ。嫁にやる気はさらさらなかったけど、一応準備はしておかないと、と思ってね」
ベルヴィードが首を軽く振りながら教えてくれる。
「ま、無事に婚約はなかったことになったし、もう必要ないけどね。でも、フィーに似合う最高のウェディングドレスになるよう、それはそれはお金も時間もかけて作ったんだよ」
「そう、だったのですね……」
伯爵家の総力をもって作りあげただけのことはあるドレス。きらきらとしていてとても眩しい。
目を輝かせるフィロメーナを見て、オルドレードがぽんと手を打った。
「……フィー、着てみる?」
「えっ?」
「これは、フィーのものだから」
きょとんとして兄二人を見ると、二人ともにこやかに頷く。
「せっかく作ったんだ。一度くらい着てみてよ」
フィロメーナは使用人の手を借りて、ウェディングドレスを試着してみることにした。
コルセットをつけて、クリノリンと呼ばれるくじらひげでできたアンダースカートを装着する。その上からドレスを着ると、スカートがふわりと広がりボリュームが出た。
くるりと回ってみると、純白のドレスが可憐に舞う。
「うわあ、すごいのです! 可愛いし、綺麗なのですー!」
「さすが僕の最愛の妹フィー! 妖精、天使を超えた、新しい女神が降臨したようだよ……美しすぎる……!」
「……フィー、最高……!」
フィロメーナのドレス姿を目にして、ベルヴィードとオルドレードが目頭を押さえた。感動のあまり震えてしまっている。
「オル、これは画家を呼んできた方が良いと思わないか? この女神をなんとかして記録しておかないと!」
「……同感だ、ベル兄!」
暴走し始めた兄たちを、使用人が生温かい目で見守っているけれど――まあ、それは置いておくとして。
(素敵なドレス……レオン様にも、見てもらいたかったです)
ふんわりとしたドレスを見下ろして、目を伏せる。
もし呪いが解けなかったら、このドレスを着てレオンハルトの隣に立っていたはずだ。
レオンハルトはこの姿を見たら、何と言ってくれただろうか。きっと優しい目で微笑んでくれる。そして、温かい言葉をかけてくれる。
(……何を、考えているのでしょうね。もう、レオン様とは赤の他人ですのに)
フィロメーナはちくりと痛む胸をごまかすように、首をゆるりと振った。
それでも寂しい気持ちはちっとも晴れてくれなくて、たまらず涙が出そうになる。じわりと視界が滲んでいく。
(会いたい、です)
瞳を閉じると、黄色とオレンジ色の可愛いライオンのあみぐるみの姿が思い浮かんでくる。
それはもう二度と見られない、大好きな人の姿だった。




