3:婚約者様はあみぐるみ(3)
「大変です! お部屋に帰れません……!」
夜中の二時。人の気配がしない、公爵令息のお屋敷の中。
フィロメーナはひとり、青ざめていた。
トイレに行きたくなって目が覚めたのは、今から三十分ほど前のこと。部屋から出て、廊下を彷徨い、無事にトイレを見つけられたところまでは良かったのだけど。
帰り道がさっぱり分からなくなっていた。
ひとりで彷徨い続け、気付けば全く見覚えのない部屋の前。廊下の明かりも薄暗くて不気味な感じがする。もう、泣きそうだ。
窓の外から、風に吹かれた落ち葉が転がっていくような音が聞こえてきた。ひっと息を呑み、周囲をきょろきょろと見回してしまう。
と、その時。
ギィ、と扉が開く音がした。
(良かった、誰かいるみたいです! お部屋まで案内してくれるよう頼みましょう!)
音がした方に、フィロメーナは顔を向けた。半分ほど開いた扉が視界に入ってくる。
けれど、誰の姿も見えない。開いた扉の向こう側にも、人の気配は感じられなかった。
(え……?)
誰もいないのに、扉が開いた? もしかして、これは――……。
フィロメーナの背筋にぞわりと冷たいものが走った。恐怖のあまり、叫んでしまう。
「きゃああ!」
「うわあ!」
フィロメーナの声のすぐ後に、男性の低い叫び声のようなものが聞こえた。
誰もいないはずの廊下。なぜ、そんな声が?
フィロメーナの体が情けないほど、がくがくと震え始める。
急に強い風が吹いたのか、すぐ傍の窓がガタンと大きな音を立てた。
また、無意識に叫んでしまう。
「きゃああ!」
「うわあ!」
低い叫び声が、再び聞こえてくる。どうやらその声の持ち主も、フィロメーナと同じで恐がりらしい。少し仲間意識を感じてしまう。
なんとなく冷静になったフィロメーナは、深呼吸をして周りを見回す。
開いたままになっている扉のあたりをよく観察してみる。そこに人の姿はやっぱり見当たらなかったけれど、代わりにあるものが目に入ってきた。
「……あみぐるみ?」
扉の下の方に、ライオンのあみぐるみが立っていた。
あみぐるみというのは、毛糸などの編み物で作った人形のこと。ぬいぐるみのようなものだ。
今、フィロメーナの目の前にいるあみぐるみはどんな感じかというと。
くるくるでふわふわ、オレンジ色のたてがみを持つライオン。顔や体は黄色の糸で編まれている。手足の先はたてがみと一緒のオレンジ色だ。
目と鼻は黒いボタン。口まわりは白くて、茶色の刺しゅう糸でぽんぽんぽんとステッチがなされている。フレンチノットだろうか、それは小さな丸い点の模様のように見えた。
お尻にはオレンジ色のしっぽがついている。そのしっぽが微かにぴょこんと揺れた気がした。
「……か、可愛いです!」
フィロメーナはぱっと顔を輝かせた。先程までの恐怖を忘れ、あみぐるみに駆け寄る。
「あみぐるみさんも、迷子なのでしょうか……」
ひょいっとそのあみぐるみを抱き上げる。バレーボールより少し大きいくらいだろうか。両手で抱えるとちょうど良いサイズだった。
柔らかな毛糸の手触りに、ふにゃりと頬が緩む。
「本当に可愛いです。これはお家に持って帰るしかありませんね!」
「いや、それは勘弁してくれないか」
興奮しているフィロメーナの言葉に、冷静な突っ込みが入った。その突っ込みはフィロメーナの腕の中から聞こえてきたような気がする。
首を傾げながら腕の中のあみぐるみを見つめる。すると、あみぐるみがくるりと振り返り、フィロメーナを見上げてきた。フィロメーナとあみぐるみの目がぱちりと合う。
「大体、人の屋敷のものを勝手に持ち帰るのは泥棒のすることだろう。君は泥棒なのか?」
動いた。そして、喋った。
見た目の可愛らしさからは想像できない、低い男の人の声。フィロメーナは慌てて弁明する。
「泥棒じゃないです! えっと、ちゃんとこのお屋敷の主であるレオンハルト様に許可をもらってから、持ち帰ろうと思います!」
「……いやいや、そこは持ち帰るのを諦めるところじゃないのか」
「えっ? なんで諦めないといけないのですか?」
きょとんとするフィロメーナ。あみぐるみがぎこちなく身動ぎをして、重い口調で言う。
「しゃべる毛糸の化け物だぞ、俺は。気味が悪いだろう。おぞましいだろう。人は皆、俺を見ると顔を歪ませるぞ。醜いから。怪物だから。……持ち帰るなんて、正気の沙汰ではない」
あみぐるみがふいっと顔を背けた。心なしか落ち込んでいるように見える。その項垂れた後ろ頭が可愛くて、フィロメーナは小さく笑いを漏らした。
「あなたは化け物じゃないです。気味が悪くもないし、おぞましくもない。醜いなんて、もってのほかなのです」
「……そう、か?」
「そうです。あなたはとっても可愛いあみぐるみさんなのです!」
腕の中のあみぐるみを、優しくぎゅっと抱き締める。
(さっきの叫び声も、この子のものだったのでしょうか。きっと、私と同じで恐がりさんなのですね。親近感がわいてきます!)
フィロメーナは前世の時からあみぐるみが大好きだった。まあ、この世界にはあみぐるみという概念がないのか、今この瞬間まで見たことがなかったけれど。
「この世界であみぐるみさんに会えるなんて、思ってなかったです。しかも、お話もできちゃうなんて最高です! ファンタジーです!」
思わずあみぐるみに頬擦りをすると、あみぐるみはバタバタと暴れ出した。どうやら照れているらしい。
「き、君は変わっているな! この俺を可愛いと言うなんて!」
「だって、可愛いのですもの。大丈夫、レオンハルト様にちゃんとお願いをして、私と一緒にお家に帰れるようにしますからね。これからはずっと一緒なのです!」
にっこりとあみぐるみに微笑みかけるフィロメーナ。あみぐるみはその笑顔に動揺し、もぞもぞと居心地悪そうにしている。
「と、とりあえず、下ろしてくれないか。落ち着かない」
「嫌です。あなたはもう私のものです」
「なんでだ。俺は君のものになった覚えはない。それに、俺を持ち帰るなんて無理だ。……この俺こそが、レオンハルトなのだから」
「……えっ?」




