28:気付いては駄目(7)
居間の窓から、柔らかい春の日の光が差し込んでいる。その光の中で、フィロメーナは一目一目心を込めて、かぎ針を操っていた。
すぐ隣にはレオンハルトが座っている。彼は本邸から取り寄せたという「古の魔女」についての本を読んでいた。
順調にあみぐるみのパーツが編みあがっていく。うすいオレンジ色のパーツが並び、組み合わされるのを今か今かと待っているようだ。
(……完成させたく、ないのです……)
ふっとそんな思いがよぎる。このあみぐるみが完成し、最後の儀式を行ってしまえば、この穏やかな生活は終わりを告げる。
この可愛らしいあみぐるみ姿のレオンハルトとも、永遠にお別れだ。
(ここで編むのを止めたら……)
四月――約束の期限まで、あと少し。呪いを解きたい気持ちと、そうでない気持ちの間で揺れ動く。
フィロメーナは丸いパーツに綿を詰め、ひとつため息をついた。
「メーナ?」
レオンハルトが駆け寄ってきて、こてりと首を傾げながら見上げてきた。黒ボタンの瞳が、きらりと柔らかな光を反射する。
「どうした? いつもは楽しそうに編んでいるというのに、今回はずっと浮かない顔をしているな。気分でも悪いのか?」
「な、なんでもないのです! ちょっと疲れただけなのです!」
無理に笑顔を作り、ぎゅうぎゅうと綿を詰める作業を続ける。頭や胴体が丸く立体的なものへと変わり、どんどん完成形へと近づいていく。
不意に、涙が出そうになった。
――駄目だ。まだ、気付きたくない。レオンハルトへの想いには、まだ。
「メーナ。少し休憩した方が良い。……指が、赤くなっている」
レオンハルトがフィロメーナの右手をそっと掴んできた。温かな毛糸の手が、赤くなってしまっている中指の第一関節のあたりを優しく撫でてくれる。
そこは、いつもかぎ針が当たる場所だ。今回は少し力を込めすぎたのか、しびれたようになってしまっていた。
「大丈夫です。えっと、あとは縫い止めていくだけなので……」
「無理するな。……休憩!」
綿を詰め終わったパーツを取り上げて、レオンハルトが主張してくる。いかにも怒っていますというように、腰に手を当ててふんぞり返っている。
そのあまりの可愛らしさに、フィロメーナはたまらず噴き出した。
「ふふ、分かりました。レオン様も本を読むのを止めて、一緒に休憩してくださいますか?」
「もちろん。少し早いが、午後のお茶にしよう」
ソフィアに頼んで、午後のお茶を持ってきてもらう。香りの良い紅茶に、小さな焼き菓子。居間の中がふわりと甘い空気に包まれる。
「あ、そういえばレオン様。『古の魔女』さんとレオン様の呪いについて、何か新しく分かったことはあるのですか?」
「ああ。どうやらこの呪いは『古の魔女』に深く関係があった魔女が編み出したもののようだ。だが、その魔女はもうどこにもいない。だから、今、その呪いをかけることができるのは『古の魔女』だけらしい」
「それでは、やっぱりレオン様は『古の魔女』さんに呪いをかけられたのですね……?」
「そういうことになるだろうな」
レオンハルトが紅茶の入ったカップを口元へ寄せた。紅茶はひゅっとその口元に吸い込まれていく。
「この国には、魔女が何人かいる。『古の魔女』は、その魔女たちの中でも特別な存在だ。最も長生きで、一番謎に満ちている」
「長生き……おいくつくらいなのでしょう?」
「資料を読む限りでは、三百年は生きていそうだな」
ぽかんと口を開けたフィロメーナを見て、レオンハルトは小さく笑いを零す。
「魔女というのは、人を超えた存在だ。俺のような魔術師よりも、もっと大きな力を持っている。三百年生きているといっても、その外見は若々しくて美しいのだそうだ」
「そうなのですか! てっきりおばあちゃんだと思いました!」
「外見だけでなく、中身も若々しいみたいだな。基本的には楽しいことが大好きで穏やかな性格らしいが、怒ると手がつけられないという。『魔』の公爵家の人間でもかなわないくらいの魔術を使うから、とにかく怒らせてはいけない。下手をしたら、国が傾く」
「ええっ? そんなにすごいのですか、魔女さんって!」
まさか、「魔」の公爵家を超えている力を持っているなんて。知らなかった。
なるほど、魔術が得意であるはずの「魔」の公爵家でもたちうちできない呪いをかけられるわけだ。「古の魔女」というのは、敵に回すと厄介な存在らしい。
「呪いをかけられた当初、もちろんみんな、魔女の関与を疑った。けれど、詳しく調査しようにも、下手をして魔女の機嫌を損ねたら終わりだ。魔女は自分が気になる人やものを魔術を用いて覗いているという。隠れて調べるというのは無理だし、危険だった」
呪いをかけた犯人を捜すよりも、呪いを解く手段を見つけた方が良い。そう考えて、解呪の魔導書をなんとか見つけ出した。まあ、読み解くのは無理だったのだけど。
「でも、この呪いをかけたのが『古の魔女』だというなら、謎が残る。なぜなら、『古の魔女』は平和を愛する魔女だというからな。機嫌を損ねるような真似さえしなければ人を害することはないと、どの文献にも書いてある。だから、何の関係もない人間を突然呪うなんてことは考えられない」
「レオン様は、『古の魔女』さんと知り合いではないのですよね?」
「ああ。何の関わりもない俺が、『古の魔女』を怒らせるなんてできるはずがない。なのに、なぜ『古の魔女』に目をつけられたのか。それは……」
レオンハルトが短い息を吐き出す。
「誰かに俺を呪うように依頼をされたからだと思う。魔女は、対価を払えば願いを叶えてくれるんだ」
「え、呪いの依頼? そんなの誰が……って、あ!」
脳裏に怪物騎士ドドガルの顔がよぎった。あの人はなぜかレオンハルトを敵視している。そして、「古の魔女」という単語を口にしていた。
「ドドガル様が『古の魔女』さんに依頼して、レオン様に呪いをかけたのですか……?」
「たぶん、な」
証拠はこれから集めるつもりだ、とのんびり言うレオンハルト。フィロメーナはなんだか落ち着かなくなってしまった。
「なんでそんなに冷静なのですか? 腹が立たないのですか?」
「いや、別に……」
「なんでですか! レオン様、温厚すぎなのです!」
「うーん、でももうすぐメーナのおかげで呪いは解けそうだしな……」
ひゅっひゅっと焼き菓子を口に吸い込みながら、レオンハルトは首を傾げる。
その面白くて可愛らしい姿に、思わず力が抜けた。
当の本人が怒っていないというのに、フィロメーナが怒るのも変だ。こうなったらもう、フィロメーナにできるのは完全に呪いを解いてあげることくらいだろう。
(……いいかげん、覚悟を決めて完成させないと、ですね)
ドドガルという敵が見えてきてしまった今、フィロメーナの迷いごときで足踏みなどしていられなかった。証拠集めをするにも、あみぐるみの姿ではいろいろと不都合が多いはずだ。
一刻も早く呪いを解いて、レオンハルトを自由にしてあげないと。
「よーし! 今日中にあみぐるみさんを仕上げてしまいますね! ドドガル様の意地悪に負けている場合ではないのです!」
「おお、やる気だな! 頼りにしているぞ!」
「はい!」
フィロメーナは勢いよく立ち上がって、さっそく作業の続きへと取りかかる。
そんなフィロメーナの後ろ姿を、レオンハルトは黙って見つめていた。
――ほんの少し、憂いをおびた黒ボタンの瞳で。




