26:気付いては駄目(5)
「メーナに触るな」
レオンハルトの低い声が、すぐ傍で聞こえた。お姫様抱っこをされているので、びっくりするほど顔が近い。真剣な眼差しのレオンハルトについ見惚れてしまい、フィロメーナは頬を熱くしてしまう。
「レ、レオン様……」
「大丈夫、落としたりなんかしない」
囁くような優しい声を耳に落とされ、ぎゅっと強く抱き締められる。柔らかい春風のようなレオンハルトの香りが鼻をくすぐってきて、一瞬息が止まった。
レオンハルトはフィロメーナを抱っこしたまま、あっさりと身を翻して、馬車の方へと歩きだした。それに気付いたドドガルが、怒鳴り声を投げかけてくる。
「待て、レオンハルト! まだ、話は……」
「いいかげん絡んでくるのは止めてくれ。俺はもう帰るところなんだ」
レオンハルトが小さく呪文のようなものを唱えると、ドドガルの体に橙色の細い光がまとわりついた。光の糸はドドガルを拘束し、動けなくしてしまう。
ドドガルの顔が、不愉快そうに歪んだ。
街の片隅に動けないままのドドガルを放置して、レオンハルトはさっさとその場を後にした。
そして、待たせていた帰りの馬車へと乗り込み、フィロメーナを座席へと下ろす。
「……はあ、なんとか間に合ったみたいだな」
「あ、あの! さっきドドガル様に何をしたんですか? 急に動けなくなってしまわれたみたいですけど」
「ん? ああ、魔術で拘束した。三十分くらいはあのままだろうな」
「魔術……」
フィロメーナが目を瞬かせて小首を傾げたその時、ぱふん、と音がした。
レオンハルトの体がみるみるうちに、あみぐるみへと変わっていく。
「……うわ、本当に時間ギリギリだったな」
ライオンのあみぐるみ姿のレオンハルトが、馬車の座席によじ登る。そこから御者に指示を出して、屋敷へと馬車を走らせ始めた。
「あ、あの、魔術って? レオン様、魔術なんて使えたのですか?」
「……メーナは俺を一体何だと思っているんだ。俺は『魔』の公爵家の人間なんだぞ? 魔術くらい使えるさ。まあ、このあみぐるみ姿の時はさっぱり使えないけどな」
そうだったのか。今までレオンハルトが魔術を使うところを全く見たことがなかったので、使えないのかと思っていた。
でもよく考えてみると、「魔」の公爵家の人間が魔術を使えるというのは当たり前な気がする。だって、「魔」の公爵家は、優秀な魔術師を多く輩出する家のはずだから。
「呪いが解ければ、魔術を好きなように使えるということですか?」
「そうだな。メーナは知らないかもしれないが、俺はこの国で最強の魔術師として有名だったんだぞ?」
「ええっ?」
「俺は父さえも超える能力を持っていたからな。……まあ、今はこんなだけど」
オレンジ色の小さな手をふりふりするレオンハルト。その可愛らしい手を見つめながら、フィロメーナは感嘆の息を吐いた。
フィロメーナが思っているよりも、レオンハルトという人はすごい人なのかもしれない。
国一番の、優秀な魔術師で。
多くの異性に好感を抱かれる、整った容姿を持っていて。
公爵令息という、文句ない高貴な身分で。
それなのに、全然おごったところがなく、いつも優しい。
(……やっぱり、レオンハルト様には私なんかではなくて、もっと素晴らしいご令嬢が似合いますね。早く呪いを解いて、婚約解消しないと、取り返しのつかないことになってしまいます)
ガタゴトと揺れる馬車から、外の景色を眺める。
葉を落とした細い木々が立ち並ぶ街道。流れる景色は、少しずつ森の中へと差しかかっていく。
夕暮れの帰り道は、いつもより少しだけ、寒々しく見えた。
その日の夜。
カーテンを閉め、明かりを落として、ベッドに潜り込もうとした時。
小さく扉がノックされる音がした。
「メーナ、今、良いか?」
「レオン様?」
フィロメーナは慌てて髪を手ぐしで整えると、急いで扉を開けた。すると、あみぐるみ姿のレオンハルトが、じっとフィロメーナを見上げてくる。
廊下の冷たい空気が這うように部屋へと侵入してきて、思わず小さく震えた。
「……入っても良いか?」
「もちろんなのです! どうぞ!」
レオンハルトは、とてとてと軽い足音を立てながら部屋へと入ってくる。フィロメーナが扉を閉めて振り返ると、彼は既にベッドの上にちょこんと座っていた。
一体何の用なのだろうと、首を傾げるフィロメーナ。
「あの、レオン様? 何をしに来られたのですか?」
「少し、話をしておきたくて」
レオンハルトは手をちょいちょいと動かして、隣に座るように促してくる。フィロメーナが促されるままベッドに腰を下ろすと、レオンハルトはゆっくりと話し始めた。
「メーナは、その、眠っている時にうなされることが多いだろう? 辛そうで、苦しそうで、いつもすごく心配になる。実は心配しすぎて、最近俺はよく眠れていない」
「え……? ご、ごめんなさい……」
「いや、謝らなくて良い。メーナは何も悪くないからな。それよりも、頼みたいことがある」
黒ボタンの瞳が、じっとフィロメーナを見上げてくる。
「俺を、ここで寝させてくれないか」
「へっ?」
ここ、というのは、もしかしてフィロメーナのベッドということだろうか。頭の中に「夜這い」とか「共寝」とか「同衾」とか、穏やかでない言葉が駆け巡る。
じわじわと赤くなっていくフィロメーナを見て、レオンハルトがぷるぷると首を振った。
「へ、変な意味ではなく! 毎夜うなされていないかといちいち確認しに来るよりも、はじめから傍にいた方が効率的だと思ったから! それに、俺はこんな姿で間違いなんて起きないし、一緒に寝るのも別に初めてでもないし!」
「それは、そうですけど……」
なんだか今日は、レオンハルトがやたら距離を縮めようとしてくる気がする。
どうしたというのだろう。
フィロメーナが困り顔で思案していると、レオンハルトがしょぼんと項垂れた。そして、ベッドを下りながら小さく呟く。
「……嫌なら良い。邪魔したな」
「え、待ってください! 別に、嫌じゃないです!」
「なら、ここで寝ても?」
「はい! どうぞなのです!」
結局、レオンハルトと一緒に寝ることになってしまった。
だって、あんなに寂しそうな反応をされたら、断ることなんてできない。それに、本当に嫌ではないし。むしろ、ちょっと嬉しいし。
レオンハルトと並んでベッドに寝転ぶと、ちょっと不思議な感じがした。友達でもなく、恋人でもなく、婚約者というにも中途半端な二人が、こんな風に一緒の時間を過ごしている、なんて。
「おやすみなさい、レオン様」
「うん、おやすみ、メーナ」
薄暗い部屋に浮かび上がる、可愛いあみぐるみの影。
フィロメーナは小さく微笑み、そっと目を閉じた。
――その夜から、もう、悪夢は見なくなった。




