25:気付いては駄目(4)
「え? いえ、そんな……」
フィロメーナは慌てて手を振って遠慮する。本物の婚約者同士なら、こういうやり取りも普通なのかもしれないけれど。レオンハルトとはもうすぐお別れする予定なのだから、甘えるわけにはいかない。
でも、レオンハルトも引こうとしなかった。可愛らしい春色の毛糸を手に取って、フィロメーナの前に差し出してくる。
「こういうの、嫌いか? あ、それとも宝石のついたアクセサリーとかの方が良いか?」
「ひっ! 高価なものは恐れ多いのです!」
「くくっ、だろうな。メーナは伯爵令嬢にしては、あまり贅沢を好まないタイプのようだから」
前世が貧乏暮らしだったせいで、フィロメーナはどうしても高価なものを見ると緊張してしまう。そして、売ったらいくらになるかを考えてしまう。
きっと、そういうところも一風変わった令嬢と言われる由縁なのだけれど。
次から次へと、あれが良いかこれが良いかと毛糸を差し出されて、フィロメーナは困惑する。たぶん、何か欲しいものを選ばない限り、この店から出られない――そんな気がする。
「あ、じゃあ……」
おずおずと選んだのは、刺しゅう糸のセットだった。それから、2/0号のかぎ針。
「刺しゅう糸とかぎ針? 刺しゅう針ではなく?」
「はい。実は、刺しゅう糸でも面白いものが編めちゃうのです!」
刺しゅう糸は、毛糸と比べると格段に色のバリエーションが豊富だ。好みの色が見つかりやすいので、作品も納得のいく色で編むことができる。
刺しゅう糸は六本の束になっているのだけれど、なんと2/0号のかぎ針を使えば、六本どりそのままの太さで編むことが可能。気軽に可愛いものが編めるのだ。
そういうわけで、刺しゅう糸の編み物、すごくおすすめ。
「面白いものって……?」
「あみぐるみの世界は奥が深いのです! 可愛い動物さんだけが全てではないのですよ!」
黄土色にピンク、赤に生成り、それから緑色。色鮮やかな刺しゅう糸を見つめて、フィロメーナは微笑んだ。質の良い刺しゅう糸なのだろう、店の明かりに照らされて、キラキラと輝いている。
「……じゃあ、これを買おう。この刺しゅう糸でメーナが何を作るのか、楽しみだな」
「ふふ、とっても可愛いものですよ! ……あ、でも」
「ん?」
「呪いを解くためのあみぐるみさんは、残すところ、あとひとつだけなのです。それを作り終えたら、呪いは完全に解けますし、その……」
そうなったら婚約は解消され、フィロメーナは伯爵家に戻る。この刺しゅう糸で編むものを、レオンハルトに見てもらう機会なんてあるのだろうか。
レオンハルトとフィロメーナの視線が絡む。
「あみぐるみよりも先に、その刺しゅう糸の作品を編めば良い」
「そんなことをしたら、呪いを解くのが遅くなってしまいます! あの、呪いを解く期限は半年……つまり、四月までですよね。今は二月ですし、あとひと月ちょっとしか残ってないのです……」
もし、期限内に呪いが解けなければ、二人は結婚することになる。そうなると、お互いに自由になる機会を失ってしまう。
フィロメーナはそれでも良いけれど、レオンハルトは困るだろう。
だって、彼は婚約解消することを望んでいるのだから。
彼にとって、この婚約は不本意なもの。一刻も早く解消したいと考えているはず。
だから、フィロメーナは期限内に呪いを解いてあげないといけない。
そうしないと、きっと、レオンハルトに嫌われてしまう。
そんなのは、絶対に嫌だった。
「レオン様、やっぱり呪いを解くあみぐるみを優先して作った方が……」
「君は、本当に俺の呪いを解きたいか?」
「え……?」
思いもよらない問いかけに、固まってしまう。レオンハルトは目を細め、長い指でフィロメーナの髪を一房すくった。
「君が、俺との婚約を解消して、自由になりたがっているのは知っている。でも、俺は」
レオンハルトの唇が、フィロメーナの髪に触れる寸前で、止まった。
「俺は……いや、何でもない」
するりとフィロメーナの髪がレオンハルトの指の間を擦り抜けていく。
少し伏し目がちになったレオンハルトの横顔。橙色の瞳に、微かに影が落ちる。
(もしかして、レオン様も婚約解消したくない、とか……?)
つい、自分に都合の良い妄想をしそうになり、慌てて首を振った。こんな地味な女を望む公爵令息なんているわけがない。
レオンハルトもフィロメーナもしばらく無言で突っ立っていたけれど、夕刻の鐘の音が聞こえてきて、はっとしたように動き始めた。
毛糸や刺しゅう糸のセットの会計を済ませ、店を出る。
レオンハルトが人間に変身したのは、昼前の十一時半頃。あと三十分もすれば、あみぐるみに戻ってしまう時間になる。二人は急いで馬車へと向かった。
と、その時。
「レオンハルト、お前、なぜこんなところに」
野太い声が後方から聞こえてきて、二人は揃って振り返った。
そこに立っていたのは、鋭い目つき、団子鼻、がばりと大きな口を持つ、嫌な男だった。思わずフィロメーナは顰めっ面をしてしまう。
この人は確か、「武」の公爵家の――。
「……ドドガル」
レオンハルトの嫌そうな声。なんでこんな時に会ってしまうのだろうか。どうせ会うなら優しい王子様が良かった。こんな怪物騎士なんかではなく。
「本当に呪いが解けたのか、お前? 嘘だろう? あれは『魔』の公爵家でもどうにもできない、厄介な呪いだったはずだ」
「答える義務はない。……行こう、メーナ」
ドドガルの視線から庇うように、レオンハルトがフィロメーナをエスコートする。
けれど、ドドガルはそんなレオンハルトの態度が気に入らなかったようで、妨害するように立ちはだかってきた。
こんなところで無駄に時間を食うわけにはいかない。あみぐるみに戻ってしまう時間が迫っている。
「どいてくれ、ドドガル」
「煩い! あの呪いが簡単に解けるはずがないんだ! あれは古の魔女の……」
「古の魔女?」
レオンハルトが片眉を跳ね上げて、ドドガルを睨みつけた。
「どういうことだ? 呪いについて、何か知っているのか?」
「し、知らない! ……そんなことより、こんな地味な女を連れて何をしているんだ!」
焦ったドドガルにいきなり腕を引かれたフィロメーナは、痛みに小さな悲鳴をあげた。伯爵令嬢として生まれ変わってから、こんな扱いをされたことがなかったので、心底怯えてしまう。
ドドガルは血管の浮き出た手で、フィロメーナの腕をぎりぎりと力を込めて掴んでくる。どんどん増してくる痛みに、喉の奥が詰まったようになった。
――芽衣菜だった時は、いつも、こんな風だった。
「痛いこと」は当たり前。
誰も、助けてなんかくれない。
それを急に思い出し、視界が滲んできた。
「メーナ!」
レオンハルトの声が聞こえた。と、同時に鋭い風がドドガルの手を引き剥がしてくれる。
それから、ふわりとフィロメーナの体が宙に浮いた。
「……え? ええっ?」
何が起こった? 空中浮遊している?
急なことに大混乱しながらあわあわしていると、レオンハルトに抱き留められた。
――まさかの、お姫様抱っこで。
「きゃああっ?」




