23:気付いては駄目(2)
――夢を、見ていた。前世の夢だ。
芽衣菜、社会人。会社の上司に怒鳴られ、心が擦り切れていた時の記憶。
朝九時に出社し、夜十一時になる頃に家に帰る。一人暮らしなので、家に帰っても誰もいない。会社でどんな辛い目に遭っても、慰めてくれる人なんてどこにもいなかった。
芽衣菜の働いていた会社は、仕事ができない人を馬鹿にするようなところだった。幸い、同期の子たちは優しい人ばかりだったので、仕事のできない芽衣菜が仲間外れになることはなかったけれど。
芽衣菜は人間関係を築くのが本当に下手だった。だから、優しい同僚がいても、孤独感からは抜け出せずにいた。
「いつまで新人のつもりでいるんだ? お前と同じ年に入った社員は、もっと数字を出しているだろう」
「……すみません」
上司の、厳しい叱責の声。芽衣菜はただ、謝罪の言葉を口にするしかない。
訪問販売の営業なんて、芽衣菜には向いていないのだ。
辞めたくてたまらないのに、どこか思考は狂っていて、ずるずると働き続ける。
そして、その日も営業車に乗り込んだ。
高速道路を走る。まっすぐに伸びる面白みのない道は、馬鹿みたいに遠くまで続いていた。
他人の家の呼び鈴を鳴らすのは、いつも恐い。大体みんな、嫌そうな顔をする。
あの「お前、誰?」みたいな目は、いつだって芽衣菜を苛んだ。練習した営業トークを、必死でしゃべる毎日。
でも、まあすぐに「いらない」と断ってくる人はまだ良かった。さっさと次の家に行くことができるから。困るのは、こっちの話を長々と聞くだけ聞いて、「いや、いらないけど」という人だ。
貴重な時間が無駄になる。買う気がないなら、三十分もトークさせないでほしい。
その日、そういう困った人に何回か当たってしまって、結局商品がひとつも売れなかった。
外はもう真っ暗で、そろそろ他人の家を訪れてはいけない時間になってしまう。
ああ、今日はもう、諦めないと駄目みたいだ。
「どうしよう、また、怒られる」
芽衣菜は会社に戻るのが恐くて、震えた。運転する手が強張り、ハンドルを上手く握れなくなる。
ふっと短く息を吐いて、助手席に置いた灰色の鞄を見る。お守り代わりにつけているひよこのあみぐるみが、可愛らしく揺れていた。
「……大丈夫、私には、あみぐるみがいてくれるもん」
あみぐるみを突いて、なんとか微笑む。そして、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
それから後のことは、断片的にしか覚えていない。
橙色の光に照らされた、夜の高速道路。
ところどころ意識が飛び、そのたびはっと顔を上げる。
白っぽく浮かび上がる中央分離帯。
そして――……。
いつも、いつも、芽衣菜は大事にしてもらえない。
最後の最後まで、散々だった。
芽衣菜がいなくなって、あの冷たかった家族はどんな顔をしただろう。
怒鳴ってばかりだった上司は、少しくらい反省しただろうか。
仲良くしてくれようと声を掛けてくれた同期の子たちは、どんな風に思ったかな。
芽衣菜は、暗い暗い闇の底で、ただ静かに目を閉じる。
そんな、辛くて苦しい思い出ばかりの、何の意味もなかった芽衣菜の人生。
だからこそ、次に目を開けた時に見えたものに驚いた。
「――あ、あかちゃん、おきた!」
「かわいいねえ」
こちらを覗き込んでくる、外国人みたいな可愛らしい子どもたち。四歳くらいの子と、二歳くらいの子だ。彼らはほわっと優しい笑顔を向けてくる。
そう、芽衣菜は伯爵家のフィロメーナとして生まれ変わっていた。
子どもたちは、フィロメーナの兄のベルヴィードとオルドレード。妹が可愛くて仕方ないようで、温かな言葉で芽衣菜を包んでくれる。
「これからは、ぼくたちがフィーをまもるからね」
「まもるー」
とりあえず、わけが分からなかったけれど――芽衣菜は、笑った。
優しくて、温かくて、幸せな人生が始まる。
そんな予感がしたから。
*
目が覚めた。見慣れた天井の模様が目に入ってくる。
ここはフィロメーナにあてがわれた部屋のベッドのようだ。馴染みのある布団の感触に、少し安心した。
「メーナ」
すぐ隣で、低くて優しい声がした。導かれるように、その声の主の方へと顔を向ける。
「……レオン様? 私、どうして……」
「儀式の後、君は気を失ってしまったんだ。いきなり倒れるから、焦ったよ」
「え、私が? レオン様ではなくて?」
「そう、君が。俺も驚いた」
フィロメーナは目を瞬かせる。気絶するのはレオンハルトの専売特許かと思っていたのに。
「どこか痛いところはないか? ちゃんと受け止めたつもりなんだが」
「あ、大丈夫です。どこも痛くないのです」
「そうか、良かった」
そう言って、レオンハルトは微笑んだ。さらさらの赤髪が揺れ、橙色の瞳が優しく細められている。
レオンハルトはそっと、フィロメーナの手を握ってくれた。大きくて温かい手のひらに包まれて、フィロメーナの心がほわほわと癒されていく――。
と、ここではっと気付いた。
「レオン様、人間の姿のままですね?」
「ん? ああ、そうだな。儀式をしてから、そろそろ五時間くらい経つ」
「今回も、呪いを解く儀式は問題なく終わったということですか?」
こくりとレオンハルトが頷いた。
時計を確認すると、もうすぐ二十時になるところだった。日はすっかり暮れており、照明の柔らかな光が部屋を照らしている。
「良かったです……」
「メーナ、君のおかげだ。本当に、いつもありがとう。……それで、その……」
何かを言おうとして、視線をうろうろさせるレオンハルト。フィロメーナがきょとんとしながら見ていると、レオンハルトは照れ臭そうに頬を掻いた。
頬をほんのりと赤らめながら、視線を合わせずに口を開く。
「メーナさえ良ければ、の話ではあるんだが」
「な、なんですか?」
改まった雰囲気に、どきりとしてしまう。レオンハルトに釣られて、フィロメーナの頬もなんだか熱くなってきた。
ぱっと一瞬、レオンハルトと目が合う。
フィロメーナは慌てて視線を下に落とし、小さく震えた。
なんだろう、すごく恥ずかしい。鼓動も速くなってきた。
(レオン様が、いつもよりイケメンに見えます! いつも傍にいて優しくしてくださるし、こんなの、こんなの、ドキドキして当然なのですー!)
フィロメーナは心の中で叫ぶ。
そんなフィロメーナの心情に気付くわけもなく、レオンハルトはこほんとひとつ咳払いをした。
そして、顎を引き、真剣な眼差しでフィロメーナを見つめてくる。
「もし良ければ、今度の日曜日、俺と一緒に王都の街へ行かないか? その、日頃の感謝を込めて、君に何かお礼がしたいんだ……」




