龍の腕-3
深夜1時を過ぎた頃、淵野の車が迎えに来た。
夜に沈んだアパートの前で、小さな古い外車がやかましくエンジン音を立てていた。
先日の軽自動車は依頼主の元に赴くための、いわば外向けである。
コートとかつらが不要である気楽さだけは、ありがたい。
七道を助手席に載せると、エンジンが咳こむように唸った。
「袖のボタンを留めておけ。
隙をつくれば、つけこまれるぞ」
タタリの相手にするには、タタリと同じ領域に踏み込む必要がある。
それは自らの身を、彼岸と此岸の境界に置くことに他ならない。
彼岸に引き寄せられないために、繋ぎ止めるものが必要だった。
人の理の象徴たる制服を身につけるのは、そのためだ。
七道は手早く制服の袖を直しながら、問いを投げた。
「相手は」
「地縛霊の類だ。もうすでに、何人か喰っている」
平然と告げる淵野に、七道は奥歯を噛んだ。
喰っている。人を、殺めているのだ。
「入れ込むなよ」
返事を返さない七道を横目で見てから、淵野は続けた。
「本人が死んだのが、昭和の頃らしくてな。
今日1日調べただけでは、名前も出てこなかった。
当然、関係者もな」
タタリと対する際に淵野が使う紙は、名前が書かれていなければ効力を顕さない。
関係者の名前があれば良し、対象本人の名前があれば十全となる。
「そして、今までお前が相手にしてきた雑魚とは違う」
援護のない状況での、格上の相手との戦い。
確かめるような淵野の視線を、七道は真っ向から見返した。
それ以上、会話は必要ないと見たのだろう。
七道も淵野も口を開かなかった。
車の行き先から、街の光が消えていく。
車窓から見える景色には、わずかな街頭の明かりが浮かぶだけになる。
短い橋の手前で、淵野はエンジンを止めた。
降りようとする七道を、淵野が引き止めた。
「これをつけて行け」
淵野が差し出した手のひらには、玉が乗っていた。
磨かれた玉の表面は、車外から届く僅かな光を返して光っている。
透明感のある黒は、かすかに青みがかっていた。
七道は右腕の飾りを外して紐を解いた。
玉に穿たれた穴に紐を通し、結び直す。
「相手はおそらく、水の属性が強い。
お前とは相性の悪い相手だが、それで多少ましになるだろう。
いざという時は、砕いて構わん」
いざという時。
命が失われる瀬戸際の、命綱。
玉を見つめながら、七道は尋ねた。
「オレが死んだら、あんたはどうする」
「しおらしいことを聞くんだな」
淵野はくわえた煙草に火をつけた。
「どうもしない。骨を拾って欲しかったか?」
七道の口元には、その鋭い眼光に反して、笑みが浮かんでいた。
「安心した。
あんたに弔われたんじゃ、成仏できそうにない」
「なにを今更。成仏などできるものか」
違いない。
七道の行為は、彼方と此方を隔てる理を歪める外法なのだ。
「じゃあな」
車を降りる。
月影を求めて見上げた夜空には、濃い雲ばかりが流れていた。
袂の街灯の下から、橋を睨む。
橋の全容のほとんどは、夜闇に包まれて見通せない。
対岸に1つ、中程に1つ、古びた街灯の蛍光灯だけが橋の一部を浮かび上がらせていた。
ゆっくりと、七道は闇へと続く道に歩を進めた。
短い橋の下には、さほど広くもない割に水量のある川が流れていた。
春先だというのに、足元から響く水音は寒々しい。
絶えない水音を聞くうちに、七道は自分の人生を思った。
2年前のあの日が、七道にとっての分水嶺だった。
それからずっと、戦いは終わることなく続いた。
絶えない濁流の流れに抗うが如き人生。
それは、果たして正しかったのだろうか。
そこまでして追い求めるだけの価値が、その先にあるのだろうか。
今から、死地に踏み込むことに、意味はあるのだろうか。
楽になるべきだ。
そのためには、流れに身を任せるだけでいい。
清き水の流れは、全ての苦しみと穢れを救う福音なのだ。
気づけば、橋の中央。
優しい街灯の明かりが、七道を包んでいた。
目の前に女が立っていた。
身を包むワンピースは、わずかな明かりを受けて、きらきらと水面のように輝いている。
口元に浮かんだ微笑みが、炎に焼かれ続けていた七道の心を、ゆっくりと冷ましていく。
喉からこぼれた声が、軽やかな水音となって流れ込んでくる。
いこう。いっしょに。
いっしょなら、こわくないよ。
女のしなやかな腕が、七道を招いている。
七道は迷わず腕を掲げた。
「余計なお世話だ」
一閃。
疾走った刃から迸った炎が、少女の腕を焼いていた。
「正しいか、間違ってるか、楽か、苦痛かなんてどうでもいい。
やりたくてやってる。邪魔するな」
女がたたらを踏んで後ずさる。
七道の意識に、本来の世界の姿が戻った。
冷たい蛍光灯の光の下に、女の形をした物がいた。
濡れた黒髪を全身に張り付かせ、からんだ髪の奥から濁った目で七道を見ていた。
灰色が斑をつくるワンピースから覗く手足は、歪に膨らんでいる。
白い粘土細工のような顔に、微笑みはない。
虚ろな眼窩と口腔から、闇が汚水のように垂れ流されていた。
切り落とした腕が、地に落ちた途端、弾けた。
それはたちまち汚濁の飛沫と化し、生命を持っているかのように、七道を襲う。
一撃を躱した七道は、正面からの追撃に刃を振った。
重い手応えに、受ける刃が暴れそうになる。
だが、いける。
それは、七道の慢心に他ならなかった。
刃を叩きつけられた闇の塊が、2つの流れとなって七道を襲った。
のけぞって初手を躱す。
そこまでだった。
飛び退く七道を追って、2つ目の流れが伸びる。
ぞぶり、と音を立てて、闇の飛沫が七道の胴を薙いでいた。
衝撃より重く、斬撃より鋭く、闇が七道のはらわたを喰らった。
灰褐色の制服が、光を返さぬ闇の色に染まる。
魂が凍えるような怖気を、七道は奥歯を噛んでこらえた。
息を止め、心を張っていなければ、震える指を止められない。
タタリから受けた傷は、体よりも先に心を蝕む。
この2年で、修羅場をくぐってきたつもりだった。
だが、この相手は今までとは違う。
「だから」
深く息を吸う。
流れ込んでくる霊気を、燃やす。
凍てつきかけたはらわたに、温度が戻ってくる。
「どうしたっ」
呼気と気勢を同時に吐いて、七道は踏み込んだ。
弾けた闇が少女の腕の先に、再び集まりつつあった。
闇をしたたらせる眼窩からは、視線を感じることができない。読めない。
弱気を見せれば、飲まれる。
構えは大上段。
体をぶつける程の勢いと共に、白い腐肉の塊へと刃を走らせた。
少女の頭が2つに割れた。かわすそぶりさえ見せなかった。
少女の口の部分、左右に分かれた黒い孔が、ぐにゃりと歪む。
嗤っていやがる。
頭の割れ目から吹き出した闇が、再び槍となって七道を襲った。
その手は食わない。
本気に見せた打ち込みを素早く返し、戻した体を振って、切っ先をかわす。
正面に構え直した視界の隅から、影が伸びた。
姿勢が崩れたところを狙ったつもりか。
刃を振って撃ち落とす。
返ってきた手応えが、七道の思考を硬直させた。
絡みつく、長い黒髪。
闇に濡れそぼった毛の塊が、七道の刃を宙に留めていた。
「させんっ」
刃を引いて、断ち切る。
それが、致命的な隙となった。
刃に渾身の力が、七道の足を、体を縫い止める。
瞬間、七道の右腕は伸びた髪に捕らえられていた。
腕を引くより早く、また一筋の髪が左腕を縛る。
やられる。
迫る切っ先を予感した七道の目に写ったのは、飛沫を散らす闇の塊だった。
濁った液体が七道の顔面を弾いた。
衝撃はほとんどなかった。そして、飛散することもなかった。
粘ついた感触が顔を這いずり、七道の口と鼻を犯す。
最早、咽ることもできない。
闇を垂れ流しながら、少女の口は大きく裂けていった。
ごぼ、ごぼ、と音を立てて、少女が嘲笑う。
そんなに水が好きか。
睨み返す瞳に燃える炎は、徐々に烈しさを失っていった。
肺腑に忍び寄る闇の感触に耐えながら、手首を曲げて指先で玉飾りを探る。
いざという時、それは今を置いて他にない。
しかし、いくら指を伸ばしても、あの玉の感触は見つからなかった。
ここまでか。
諦念が遠のく七道の脳裏をよぎる。
しかし、きつく縛られた右腕は、まだ刃を握り続けていた。
骨の髄まで染み付いた七道の剣は、たやすく諦めることを許してくれないらしい。
そのことが、失われかけた七道の意識に、悪態をつく相手を思い出させた。
くそ親父め。
今までオレを生かしてきたあんたの剣が、今はオレを殺そうとしている。
満足か。
母さんだけでは飽き足らず、オレまで地獄に送って、アンタはー
怒りが、消えかけた七道の炎を微かに蘇らせる。
ほんの僅かだけ、七道を飲み込もうとしていた闇に抗う力が戻ってくる。
その刹那、稲光が走った。
暗転しかけた七道の視界に映った、一筋の閃光。
否、目はとうに見えていない。
その閃きを捉えたのは、眼帯の奥で燃える霊視の力だった。
轟く音と共に、七道の腕を締め付けていた力が解かれた。
喉より奥に迫ろうとしていた闇が、汚水へと変わる。
咳き込み、膝から崩れ落ちそうになる体を刀で支え、顔を上げた。
タタリが、遠い。
空間が捻れたような錯覚を、七道の理性が否定した。
今一時の間に、タタリは吹き飛ばされていた。
それが、七道の目の前に立つ少女の「手」によるものであることは、明白だった。
「お前は」
切り揃えられた絹のような黒髪に、人形のような白い肌。
表情のない顔で構える姿には、静けさを感じさせる程に隙がない。
入学式の日に出会った少女が、標的を見据えていた。
全てが調和する少女の姿は、ただ一点において、彼女を常人たらしめていない。
脇を締めて構える腕の肘から先は、異形の物だった。
大の男を容易く鷲掴みにするであろう、巨大な掌。
七道の拳に及ぶ程の白い鱗は、微かに青白い光を纏っている。
龍の鉤爪を接がれた少女は、七道の声に応えず、タタリへと向き直った。
握り込んでいた左の鉤爪が開かれる。
その隙間から、風に吹かれたように1枚の紙が翻り、少女の眼前に浮き上がった。
墨跡には、2つの名前を定めた文言、そして、勅令の二文字が刻まれていた。
この夜に満ちた穢れを清めるがごとく、少女の声が凛と響いた。
「浦部冬。勅令により、阿久津令子が祓います」