龍の腕-1
高校生活に期待はなかった。
だからこそだろう。
登校中に出くわした状況に、七道はある種の感動さえ覚えていた。
なんだ、その目のやつは。高校をなめているのか。
滑舌の悪い教師の言葉は、意味を飲み込むのに時間を要した。
七道が考え込む間にも、教師は間断なく、なにか言っている。
服装検査、というやつらしかった。
堂々たる体躯にジャージ姿で、丸刈りの頭に青筋を立てている。
竹刀を手にしていないのが勿体ないと思えるほど、その教師は、らしかった。
「シーラカンス」
七道の呟きは、教師の耳には届かないようだった。
校門の前に、人は決して少なくない。
新しい学び舎にやってきたばかりの生徒、晴れの舞台を拝みに来た保護者、記念写真を撮っていた親子。
今度は聞こえるように、低く、しかしはっきりと問うた。
「つまり、この眼帯が気に食わないのか」
気に食うとかそういう問題じゃない
入学式からそんな態度でこの先やっていけると思うな
お前のような奴は放っておいたら駄目になる
それを俺が矯正してやると言っているんだ
気に食わないらしい。
七道は小さく息を吐いてから、眼帯の紐の結び目に手を伸ばした。
「これでも、入学初日に気味の悪い奴の記憶を残さないでやろう、と思うぐらいには気を使ってるんだ」
慣れた手付きで眼帯を外す。
いい加減、うるさく感じ始めていた教師の声が、ようやく止んだ。
同調するように、周囲のざわめきが暫時遠のく。
「キモ……」
どこかで、顔の見えない誰かが言った。
自分では慣れてしまって、鏡を見てもなんとも思わなくなった。
皮膚の剥げた赤い肉の中に穿たれた、昏い孔。
それでも、他人の目にどう映るかぐらいは承知している。
教師は目を白黒させたまま、何も言わない。
七道はさっさと眼帯を付け直した。
「まあ、あんたも仕事だろう。恨みっこなしだ」
七道が立ち去ると、校門の活気は間もなく戻ったようだった。
曲がりなりにも9年間、学校という組織にいた。
続く高校生活というのも、さして代わり映えはしないだろうと覚悟はしていた。
それを差し引いても、入学式の退屈さは寝不足の身には厳しかった。
壇上では生徒会長とかいうお飾りが、美辞麗句を並べている。
耳から入る音が、だんだんと意味を失っていく。
油断をすると船を漕ぎそうになる頭をかろうじて支えた。
いっそ、立ったまま眠ってやろうか。
そう思いかけていた七道の意識が、視線の気配で覚醒した。
ちらちらとこちらを伺うような視線なら、慣れている。
それとは違う何かが背筋を走り、右目の奥を疼かせた。
視線の気配を追って、振り向く。
視線は外された後だったが、その主にはすぐに見当がついた。
真っ先に、黒い指先が目に入った。
七海はそれまで、黒い絹手袋というものを、見たことがなかった。
ないはずだ。だからこそ、感じる既視感に戸惑った。
細い指先は、スカートの前、高すぎもせず低すぎもしない位置で重ねられていた。
そのたたずまいだけでも、落ち着きない同級生の中では浮いている。
それだけでではない。
あの手は、まるで
「ちょっと、あなた」
気づけば、険しい顔をした女の教師が肩を叩いていた。
教師のお小言は、思ったよりも短かった。
体育館の外に連れ出され、教育的指導を施される。
中学生の頃も似たような経験を何度もしてきた七道にとって、特に思うところはない。
途中、朝方校門で顔を合わせた男が連れてこられた。生徒指導担当らしい。
男もお小言に加わったが、歯切れの悪い口調が少しだけおかしかった。
ともあれ、式を乱してどうこうというつもりもない。
さっさと頭を下げてしまうと、それ以上は追求されなかった。
教室に戻り、ホームルームを終えると、放課となった。
近い席同士で早くも会話を弾ませる女子や、中学校の話題で牽制しあう男子。
どちらにも縁がない七道は、少ない荷物を手に席を立った。
昨夜の仕事のせいで、滞った家事がいくつかある。さっさと済ませたかった。
しかし、その前に確かめておくことがある。
入学式に見た、あの黒い手。
式の列の並びから、クラスの見当はついている。
未だ新しいクラスメイト同士の顔見せが続いているのか、廊下に人影は少なかった。
目的の教室の前、廊下の奥までを早足で進む。
根拠はないが、あの黒い手の持ち主も早々に下校するのではないかと思えた。
教室の戸を開こうとした時、それは内側から開いた。
戸の向こうから現れた茶色い髪の男子は、背が高かった。
アクセサリが目立つ女子2人に囲まれて、間抜けそうな笑みを浮かべている。
女子の中でも背の低い七道は、首をわずかにもたげて、瞳だけを男子の顔に向ける。
男子は、わずかに顔色を変えて後退った。
「このクラスに、黒い手袋の女はいるか」
しばし硬直していた男子は、取り繕うように笑みを浮かべた。
なに? アンタ、アイツの知りあい?
アイツ、ダチとかいんのかよ、マジウケる!
あ、それともアレ? アンタも、あーいう系?
話に乗った女子2人にひけらかすように、男子は続けた。
アイツ、オナショーなんだけど、マジヤバくて。
ずっと手袋してんの。ヤバくね? そー、アイツ。
しかも「アクリョーはいる」とか、マジになっちゃってんの。
だからあだ名が……。
不意に男子の言葉がしぼんだ。
明らかに狼狽した表情の男子の視線は、七道の背後に向いていた。
どうやら、男に用事はなくなったらしい。
振り向くと、あの黒手袋があった。
同時に、右目の奥が熱を帯びる。
こいつか。
入学式の体育館で感じた違和感の理由を確信する。
手袋の主の顔はわずかにうつむいていた。
七道と視線が合うはずの位置だが、少女の瞳は七道を見ていなかった。
表情はない顔に、細工のように整えられた黒髪と、絹のような白い肌。
それらは、七道に人形を連想させた。
背筋は伸びて、力みがない。
しなやかな花木を思わせる印象を、たった一点だけが裏切っている。
少女の手が、きつく握られていた。
七海は再び、男子に振り返った。
無駄に背が高い。ひとまず、鳩尾を拳で突く。
その場に崩折れた男子が悲鳴をあげるより先に、平手を振った。
肌を打つ鈍い破裂音。
床に倒れた男子に向かって、七道は抑揚のない声で言った。
「言いたいことは、色々あるが。
ひとまず、地獄に堕ちろ」