闇を狩る-4
淵野の声が、闇へと染み渡っていく。
その余韻が溶けきるまえに、塊が吠えた。
放たれる音は不快な擦過音から、魂を聾するような叫びへと変わっていく。
もう、耐えられない。
音が八重子を犯しつくす寸前、闇の中に火が灯った。
塊へと向かって歩を進める少女。
左の手首に巻かれた玉飾りから、燃え上がるのを今か今かと待つように、小さな火種が生み出されていた。
掲げた玉飾りを、右手の指先でなぞる。
それを合図に、火種はたちまち燃え上がり、闇を圧する火柱となった。
腕から伸びる炎を瞳に映して、少女は言った。
「火は苦手か」
少女の視線が射る先で、塊は濁った音を放ち続けている。
しかし、先刻までの大音声ではない。
表面を忙しなく変形させながら立つ姿は、怯える鼠のようでさえあった。
近づききるまえに、少女は歩みを止めた。
「オレも、火は苦手だ。さっさと済ませよう」
炎に包まれた左腕を、虚空に振りかぶる。
伸びる炎を掴んだ手には、一振りの太刀が握られていた。
炎に焼かれたていた名残のように、鞘も柄も、黒い。
しかし、その黒は決して闇に溶けることはない、冴え渡るような黒だった。
鞘を左手に、一息に抜く。
現れた刀身の波紋は、炎の化身であることを示すがごとく、激しい。
鋼の内に秘められた力を抑えきれぬように、刃から火の筋が漏れていた。
火傷を塞ぐ少女の眼帯の奥、高まった霊気が炎となる。
真正面、青眼に構えた少女が、短く言った。
「来い」
睨みあいは長くは続かなかった。
塊の表面が、沸騰したかのように激しく揺れる。
奇声と同時に、盛り上がった表皮の一部が砲弾となって少女を襲った。
闇を走る、闇の弾丸。
常人には不可視にして不可避と思われるそれを、隻眼の少女はかわしてゆく。
構えは崩さず、青眼。重心を低く保ったまま、滑るように降り注ぐ砲弾をかいくぐる。
刀身から立ち上る炎が揺れ、地面に落ちた影が踊った。
防戦一方に見える戦いだったが、少女が圧している。
徐々に間隙が大きくなる砲弾をかわすたびに、塊との距離は詰まりつつあった。
間合いまで、あと数歩。
鋭い視線を投げながら、少女は告げた。
「こんなものか」
その一言に怯んだかのように、塊は音を立てて収縮する。
「なら、これで」
続けようとした言葉を、少女が言い終えることはなかった。
塊が、弾けた。
今までに倍する砲弾の雨が、見境なくばらまかれる。
同時に、少女の姿は塊の前から消えていた。
地に伏した少女に、寸前までの正道たる構えの気配は欠片も残っていない。
「よくないな」
四足で地を這う獣がごとき構えで、少女は笑っていた。
「見下されるのには慣れてるんだろうが、見下すことに慣れてない。
下には、下がいるもんだ」
激した感情が形となったように、塊の表皮が再び爆ぜる。
裂けた表皮が鞭となって、四方から少女に叩きつけられた。
至近に迫った1本を、片手持ちで薙ぎ払う。
姿勢が崩れた勢いのままに、地面を転がり、続く2本をかわす。
標的を見失った最後の1本が、勢いを失って宙を掻くのを、左腕で強引に掴む。
立ち上がりざま、逆手に構えた刃で、それを切り落とした。
止むことなく降ってくる鞭を、少女の刃が余さず切り払う。
刀の炎が切断された鞭を燃やし尽くすたびに、火の華が血飛沫のように舞った。
刃を振るう構えに一時として同じものはなく、時に伏せり、時に跳ねる。
正道の剣などとは、程遠い。
白刃という名の牙を剥く、獣であった。
やがて、塊から伸びる鞭が止んだ。
相対した時とは比べるべくもないほど縮んだ塊。
その残滓の中に立ち尽くしたまま、肩で息をする男がいた。
瞳から落ちる雫は、汗か涙かわからなかった。
歩み寄る少女の肌にも、玉のような汗が垂れていた。
「悪くなかった」
少女の発した言葉に、男が俯かせていた顔を上げる。
疑問符を浮かべる男の表情を見据えて、少女は言葉を継いだ。
「しつこさだけは、大したもんだ。
このしつこさを覚えとけば、簡単につかれることはない」
疑念を残したままの様子で、しかし、確かに男は頷いた。
相槌の代わりに、少女は太刀を構える。
天を衝く立木の如き、大上段。
「南無三」
振り抜いた刃から燃え上がった炎が、闇を祓った。
何度でも頭を下げる八重子から、半ば逃げるようにして玄関をくぐった。
門を抜け、こちらを伺う気配がなくなったことを察すると、淵野の表情が剥がれた。
「必要とはいえ、慣れないな。客商売とは」
冷えた笑顔が消えた顔には、倦怠感が満ちていた。
疲れているからではない。素の表情に愛想がないのだ。
深夜の住宅街に人の気配はなく、明かりも乏しい。
街灯の下で待つ、味気ない白の軽自動車に向かって歩きながら、淵野は髪を束ねていたヘアゴムを外した。
散らばる髪を無造作になでつけながら、車の後部座席に手を伸ばす。
「飲め」
車越しに投げられた缶を、七道は苦もなく受け取った。
助手席に音を立てて座りこむと、たちまちコートとかつらを外しにかかる。
ようやく人心地ついたところで、お決まりの文句が口をついた。
「本当に必要なんだろうな、これは」
運転席に乗り込んだ淵野は、いそいそと煙草をくわえていた。
七道は無言で助手席の窓を開け放つ。
「何度も言わせるな。お前は目立つんだよ」
言葉を切って、淵野が車を出した。
人間相手に、七海の目は目立ちすぎる。
近所の要らぬ噂は、タタリから開放されたばかりの身には、重い。
かつらとコートを後部座席に放り込み、手元の缶を開けた。
美味いとは一度も思ったことのない甘酒に、口をつける。
霊力の回復効果がなければ、二度と飲まないだろう。
一息に流し込んでから、七道は淵野に顔を向けた。
「で、どうなんだ」
「急くな。ほら」
正面を向いたまま、胸元から無造作に取り出した封筒を、七道の膝に放る。
放った勢いで、封筒の中身の札が覗いた。厚みからして、数十万か。
鋭くなった七道の視線が、淵野の頬を焼いた。
「とぼけるな」
腹の底から響く声は、煮えたぎったはらわたの音か。
「2年だ」
遠い視線のまま紫煙を吐き出す淵野に、応じる気配はない。
「わかってるのか。いつになったら」
「わかっている。調べている。片手間程度にはな」
空になった甘酒の缶を握り潰して、淵野の膝に投げた。
「冗談の通じないやつだ」
車は誰ともすれ違わないまま、交差点で止まった。
淵野はいつ取り出したのか、ハンドルから話した手で石をもて遊んでいた。
「近づくためにも、サンプルがいる。
今日は、ハズレを引かされたがな」
タタリを祓った後に生じる、結晶体。
淵野の口から正式な名称を聞いたことはない。
もっぱら「石」とか「玉」と呼んでいた。
「石1つしか産まないような相手では、足りん。
せめて、玉が欲しい。これでは」
煙を吐き出してから、つぶやくように言った。
「奴の尻尾も掴めやしない」
信号が変わり、エンジンが唸る。
正面に見える月を見上げながら、七道は告げた。
「追い続ければ、いずれ掴める。
いや……必ず、掴む」
瞳に月を映す七道を横目に、淵野は薄く笑った。
「その意気だ。精進しろ。ガッツだ」
「心にもないこと言うな」
「何を言っている。私はこれでも、お前を心配している」
「……まさか」
「ああ、まさかだよ。そんなわけないだろう」
にやつく淵野に憮然としつつも、続く言葉が心に残った。
「わたしは親じゃない。だがまあ、今日ぐらいは早く寝ろ。
明日からだろう」
少しだけ、淵野の横顔を見てから、目を閉じる。
明日。
六道七道は、高校生になるのだ。