闇を狩る-3
「失礼します」
それは、誰に向けての言葉だったのか。
廊下の奥、闇の底に行き着いた淵野は、空いた手を部屋のドアノブにかけた。
開くはずがない。
息子は、自分の手で食事を部屋に入れる時、あるいは用を足す時以外は、ドアを固く閉ざしていた。
鍵はない。部屋の中で、ドアの前に何かを積んでいるらしい。
しかし、淵野がさして力を込めた様子もないうちに、ドアは部屋の奥へと沈んだ。
ドアの隙間から、闇が溢れた。
「いやあ……っ」
廊下に満ちていた闇は、闇ではない。
影でしかなかったのだ。
粘度を持った本当の闇が、廊下をおびただしく侵食する。
正気を投げ出しそうになった八重子を、淵野の声が拾った。
「手を離さないでください」
淡々と告げながら、淵野が不意に身を屈めた。
身を起こした淵野の手には、鼠の死体が握られていた。
「まあ、そうだろうな」
一人、得心して頷いてから、死体を放る。
振り返った淵野は、つまらなそうに行った。
「出番だ。もういいぞ」
背後で、動く気配があった。
廊下を侵す闇を押しのけるように、コートの少女が扉の前へ進む。
八重子の傍らを通りすぎざま、身にまとったものを脱ぎ捨てた。
顔を覆っていた長い髪が、ひとかたまりに床へと落ちる。
古めかしい黒の眼帯が、右目を覆っていた。
眼帯の周囲に広がる火傷は、昨日今日できたものではない。
引き攣れ捻じれた皮膚は、彼女の顔の一部となっていた。
その身を包む服に、見覚えがある。
市内の中学校の制服だと気付くのに、一呼吸ほどの間が必要だった。
小柄な体から放たれる烈しい気魄は、学生などという肩書を忘れさせるのに十分だった。
昼日の街頭で相対したなら、戸惑い、あるいは嫌悪さえ覚えただろう。
しかし、闇を貫く少女の瞳に、八重子は見入っていた。
燃え上がる瞳の輝きは、少女の片目を焼いた炎が、いまだ燃え盛っているようだった。
気負いのない少女の腕が、開きかけのドアを押し開ける。
その時を待っていたかのように、濃度を増した闇が溢れ出した。
身をかばう八重子の前に淵野が出ると、2人を避けるように闇が割れた。
闇の中を、鼠と虫の死骸がもつれるように転がっていく。
八重子の足元ではねた闇の飛沫が、ふくらはぎに当たった。
たったそれだけで。
今まで生きてきた全ての意味が、腐臭を放ちながら崩れ落ちていくような気がした。
わたしは。わたしとは、なんだったんだろうか。
生まれて。貪って、溺れて、汚れて、孕んで。
その結果が「これ」を生み出したというなら。
わたしは
「気を確かに」
緩んだ手を、淵野が強く握っていた。
「これが『タタリ』です」
前を向いたままの淵野が告げた。
「運が悪かったですね。この家の霊力は、明らかに淀んでいる。
そこに、供養もされないような生き物の魂の残り滓が集まってしまった。
地鎮祭に手抜きでもあったんでしょう」
運が悪かった。たったそれだけで、わたしは、わたし達の家族は。
「ご子息の心が弱っていた時期と、『タタリ』の成長速度が一致してしまった。
『タタリ』はそれがあるというだけで、周囲の人間を呪い、蝕む。
そうして弱った人間が憑かれるのは、珍しいことではない。
まったく、ご愁傷さまです」
淵野が言葉を重ねるうちに、闇の流れが緩んでいく。
だが、流れが収まっても、部屋の中の様子は一向に見えてこなかった。
軽い金属音とともに、光が灯った。
淵野の手の中に現れた光が、闇を退かせていく。
見えたのは、扉の先にあるはずだった場所ではなかった。
中学校の入学以来使い込まれていた机も、野鳥の本で埋められた本棚もない。
足元に感じる土の感触と、頭上を覆う人工の構造。
「なるほど。床下の世界とは、こういうもか」
口にするほどには興味のなさそうな声で、淵野がひとりごちた。
「それで、十和田さん。確認になりますが。
彼がご子息ということで、間違いありませんか」
淵野が光をかざす。
八重子には、その言葉と行為の意味を理解することができなかった。
理解、したくなかった。
闇の塊と思えたものが、蠢いた。
それが人を象ったものであるとするなら、人類という種に対する冒涜でしかないだろう。
動くたびに表皮から落ちる塊のいくつかには、まだ息があるらしい。
腹を見せ、足を痙攣させる残骸を掻い潜り、闇の中へと走り去っていく。
吐き気を催す汚濁の塊。
その上に人間の顔のようなものが乗っていることは、いっそ滑稽にさえ思えた。
顔面に穿たれた孔が、小刻みに動いている。
しゃりしゃり。しゃりしゃり。
声、などとは呼ぶべくもない音が、耳朶を犯す。
黒い虫たちが頭蓋を満たし、自我を食い荒らしてく。
「手早くすませるか」
音の隙間から、淵野の独り言がかすかに届いた。
手にした明かりを足元に落とし、懐から八重子のサインが入った紙を取りだした。
「十和田八重子の令を、淵野御代が命ずる」
淵野の声が、闇の中で確かに響いた。
「さっさと、あれを始末しろ」