闇を狩る-2
手にしたアタッシュケースを床に置き、淵野は手早く作業を始めた。
ケースを開き、液体の封じられたいくつもの小瓶の取り出す。
肩越しに覗くと、ケースの中には小瓶の他に、傍目には用途の知れない器具が、整然と収められていた。
小瓶の黄変しかけたラベルを確認しながら、淵野が問うた。
「名前はご存知ないですか?」
「名前……ですか……?」
「ええ。ご子息との会話の中で、何かの名前を聞いたことはないですか。
わたしは何々だとか、あれはなんだとか」
意図の読めない問いに戸惑いながらも、八重子は記憶を探る。
淵野は八重子の返答を待たずに、作業を進めていた。
廊下に3つ、小石のようなものを置いていく。
視線の配り方から、廊下の奥の部屋を中心に、囲むように配置しているらしい。
「……すいません。思い当たるようなことは……」
「そうですか。失礼」
八重子の返答を予想していたのか、淵野の答えは素っ気無い。
それどころか、半ば八重子を押しのけるようにして、今度は小瓶の中身の液体を廊下に撒き始める。
「あの……」
「ご心配には及びません。アルコールのようなものですから、すぐに乾きます」
依頼人であるはずの八重子に向かって、淵野はまるで気を使う気がないらしい。
「では、ご子息に異常を感じてから、他に変わったことはありませんか」
新たに取り出した小瓶の中身を、小さな紙片に垂らしながら、淡々と質問を続ける。
「……どんなことでも構いませんか?」
「もちろん」
すぐに思い当たることがあった。
しかし、それを自分の口から語ることに、八重子は躊躇う。
黙り込んだ八重子に、淵野が視線で問うてくる。
「あの……家の中で、見るんです。その……死骸を」
「ああ。虫や小動物ですか」
「はい。あの、でも」
「ああ、この家は清潔だと思いますよ。それで、普通では考えられないほど、頻繁に?」
「……はい」
廊下に散らばった器具達が、アタッシュケースに戻されていく。
全てを元通りにした後、淵野は1枚の紙と台紙を取り出して、ケースを閉じた。
一目見て、ただの紙ではないとわかる。
歴史の教科書で目にした古い書物は、きっとあんな紙で書かれていたのだろう。
片手に紙、片手に懐から取り出した万年筆を持ち、ようやく淵野は八重子に向き合った。
「なるほど。大変、参考になりました」
「あの、これで息子は……」
「ああ、すいません。あと2つ、協力していただくことがあります」
八重子の胸元に、紙と万年筆が差し出された。
「こちらに、お名前を」
思わず眉根を寄せたまま、淵野の顔を見上げる。
八重子の反応など意に介さず、細い指が万年筆を手の中に押し込んできた。
古びた紙には、手書きの文字が並んでいた。
アルファベットで書かれているのはわかるが、意味は全く理解できない。
ただ、文字の並びを見て、八重子は契約の証文を思い出していた。
もう1度、目の前の女を見上げる。
顔に張り付いた笑顔は、問いを拒絶しているように見えた。
「漢字で、かまいませんか……?」
「ええ。普段、英字を使い慣れていれば、そちらでも」
温度のない淵野の声が、疑念を頭の隅へと追いやっていく。
覚束ない手元で名前を書き終えると、八重子は押し付けるように、紙とペンを手渡した。
一瞥した淵野の口角が、また少しだけ持ち上がる。
「結構。では、最後のお願いです」
続いた言葉に、八重子は拍子拔けした。
「これから、息子さんの部屋に入りますが、ご同行していただけますか」
もとより、そのつもりだった。
今の息子の部屋に見知らぬ者だけが侵入すれば、どうなるかわからない。
「ええ。それだけ、ですか?」
「それだけです。ただし、1つだけ、守っていただきたいことが。
あそこに入ったら、わたしの手を離さないでください」
あそこ、とは。淵野が視線で示した先は、廊下の奥の闇の中。
息子の部屋を指しているのだろう。
その物言いに、言い知れない不穏さを感じて、八重子は思わず聞き返した。
「あの……手を離したら、どうなりますか……?」
「十和田さん、イザナギ、イザナミの神話か、オルフェウスの話はご存知ですか?」
「はい?」
「地上に戻るまで、決して振り返ってはいけない。
こういった事には、約束事がつきものなんです。必要、と言ってもいい」
言っていることは、怪しげな詐欺師と変わらない。
しかし、笑顔を浮かべながら、冷たい視線で淡々と語る声は、八重子の疑念を封じるのに充分だった。
では、行きましょうか。
八重子の手に、細く白い指が絡みついた。
淵野が歩を進め、腕が引かれる。
一歩進んだ分、闇が迫る。
今、この腕を振り払えば、戻れるだろうか。
天井を、壁を、床を覆い尽くす闇が、世界から光を蝕んでいく。
このまま闇に飲み込まれれば、自分はどうなってしまうのか。
無理だ。
この先には、行ってはいけない。
膝を震えさせながら、かろうじて進めていた足が止まる。
立ち止まった八重子の背中に、何かが当たった。
声にならない悲鳴が漏れた。
首を捻って振り返る。
間近に、左目だけで八重子を見つめ返す、コートの少女がいた。
背中に当てられた手の平が、八重子を一層深い闇の中へと押し込めていく。
手遅れであることを悟るには、あまりに遅すぎた。