第1話 魔女 喰噛(くいがみ)イスナ
その日、ミキはひどく不機嫌だった。
予定していた、彼氏との約束が急遽キャンセルとなった為だ。
なんなのよまったく! ミキはイライラして、つい親からいつも注意されている親指の爪を噛むという悪癖を無意識の内にやってしまっていた。
どうする? もう手持ちのお金はあまりない。 勿論、都市管理委員会が発行している配給チケットではない。
通称『外貨』と呼ばれる違法紙幣の事だ。
この街、封印都市No.6【パンドラ】の外から流れて来たお金とされる『外貨』は、何時も不足がちな管理委員会からの配給品以外の、通称、闇市と言われる所で売買されている違法品の購入などに使われる。
もちろん、ミキが何時も利用している盛り場、委員会非公認の繁華街でも使用されている。
ミキにとって『外貨』とは、見つかれば怒られる。その程度の認識でしかなかった。
皆持ってるんだし。その程度の考えでしかなかった。
しかしそれは、この街の住人なら多かれ少なかれそういう認識であった。
買いたい物がいっぱいあったのに……
少女達の間で流行っている可愛いバックや化粧品。久しぶりにケーキも食べたかった。
ミキは今はいない男性に不満をぶつけていた。
大体あんな冴えない男が、あたしに貢がせてもらえることに感謝するべきよ!
それを体の調子が悪いからなんて。
ミキは確かに美人の範疇に収まるだろう容姿をしていた。
肩までの長さの栗色の髪は緩くカールが掛かっている。
顔にはうっすらと化粧をしており、少々小ぶりな瞳を大きくパッチリ見せるようにしていた。
肩口がむき出しなオフショルダーの上着から見えそうな大きめな胸元が男共の眼を奪う事だろう。
スカートも短く、すらりとした足を惜しげもなく晒している。
大胆な、それでいてかわいらしさをアピールするこの年代でしか許されないような少女特有の恰好は、今その不機嫌さを隠そうともしないその険しい顔でだいなしであった。
どうする? 別の男に連絡するか?
そこまで考えた所で、何時もは人の声が絶えない繁華街がやけに静かなことに気付いた。
「え、なに?」
少女は慌てて辺りを見渡す。 そこは人気のない狭い通路だった。
何時の間にか裏路地に迷い込んだのか?
舌打ち一つし、ミキは踵を返し裏路地から出ようとした。
しかし、それは叶わなかった。
振り向いた少女の目の前に、醜く歪んだ顔が突き付けられた。
それはミキのよく知る男性の顔をハンマーでしこたま殴りつけた様な風体だった。
「ひぃ!?」
短い叫びを上げ後ずさる。
それにつられたかのようにミキに近づく男。
「お、マタせ……ミキちゃ ン!」
男はまるで潰れた喉から絞り出すような声を上げて少女の名を呼んだ。
「まさか、まさか!」
男の姿は、この街に暮らす者なら知らぬ者などいないであろうモノだった。
男の言葉を思い出す。 「体調が悪い」 そう言わなかったか?
なぜ思いつかなかったのか? その体調不良が体温の異常な上昇によるものなのだとしたら……
『幻獣落ち』 そう呼ばれる奇病、この都市が封印処理されるようになった原因。
およそ100年ほど昔に世界中で発生したこの病によって、幾つかの都市は封印指定となり外界との接触は絶たれた。
40度以上の発熱が一週間ほど続いたのちに発病し、その姿を異形に変える病。
その姿は個体差があるが、概ね物語にある怪物の姿に酷似した姿であるという。
男は醜く歪んだ顔、立っていても地面に届きそうなほど伸びた腕を引きずり、パジャマだろう、ここに来るまでに破れてしまった寝間着らしき物を辛うじて身に着けていた。
元は痩せていたが、そのボロキレとなったパジャマから覗く腹は大きく突き出している。
その肌色は薄汚れた緑色。
通称『ゴブリン』と呼ばれる種である事を、ミキは知らない。
「ひいい!? け、警察……」
ミキは携帯を取り出し通報しようとしたが、その行為は男の、ゴブリンの機嫌を損ねた。
「他、のおドこと連絡ズるなんてぇぇ ユるさないィィィィ!」
ゴブリンとなった男は、そう叫ぶとミキに襲い掛かった。
その長くなった腕でミキの足を払い、地面に引き倒すと馬乗りとなる。
「ギャッ!」
倒れた拍子に後頭部を打ち付け、一瞬意識を失いかける。
その意識を取り戻した切っ掛けは……腹部からの激痛だった。
いつの間にか、馬乗りになったゴブリンはその身をかがめミキの腹に顔をうずめ、その柔らかい横腹に食らいついた。
「きゃあああああああああ!?」
あまりの激痛、生まれてより今日まで味わった事の無い痛みに再び意識が途切れそうになるが、その度に激痛が走り意識が無理やり覚醒させられる。
「いだいぃぃぃぃ!やめてやめてぇ!?」
だれか助けて! 声にならないミキの願いはゴブリンには届かず、だが別のモノには届いた。
「個体名『ゴブリン』 成りたてか……チッ」
その声のした方を必死の思いで見ると、路地の出口に佇む一人の少女がいた。
櫛すら通してないかのようなボサボサのショートカットの黒髪。 ひどく世をすねたかのような黒い瞳はこちらを睥睨しているかのよう。
どこの制服だろうか? この辺りでは見かけない黒いセーラー服を着た痩せぎすな少女は仕方ないといった面持で一つ肩を竦めるとこちらへと近づいてくる。
こっちくるぐらいなら警察呼んでよ! 激しい激痛もしばし忘れ、呑気に近づいてくる少女にミキは心の中で罵倒した。
悲鳴がうるさかったのか、ゴブリンの長い腕でミキの口は塞がれていたのだ。
だがその近づいてくる少女を警戒したのか、ゴブリンは一旦ミキから離れる。
ようやく離れた重みだが、ミキは動く事も出来ない。流れる血で背中はビチョビチョと不快であるが手足にまったく力が入らない。
辛うじて動く首をなんとか動かし新たな犠牲者の方を見る。
「ボく、とミキ、チャんのジャまをするな!」
ゴブリンはそう吠えると少女に襲い掛かる。
その長い腕が少女の胸を抉る。かに見えたがその腕は空をきり勢い余ったゴブリンは地面に転がる。
いや、そのゴブリンの両足は鋭利な刃物で切り取られたかのように切断されていた。
「グギャアアアァァ!?」
痛みに地面を転がるゴブリン。
少女が何かしたのだろうか? ミキにはまったく見えなかった。
そして地面を転がり呻くゴブリンにいつの間に手にしたのか一丁の拳銃を手にした少女は、暴れるゴブリンを足で踏みつけ押さえつけるとその拳銃を頭に押し付けた。
「さっさとシネ」
鈍い銃声が路地に響き頭を打ちぬかれたゴブリンは動かなくなった。
助かった! あまりの事態の急変に理解が追い付いていないが自分は助かったのだ!
ミキは少女に礼を言おうと、よだれや吐血により汚れた口を開きかけ、自分に向けられる銃口を見て、発しようとした声は喉の奥に消えた。
ナゼ? なぜ! なぜ!?
なぜ少女はあたしに銃を向けている? 助けに来てくれたんじゃないの?
「もう手遅れ。 だから楽にしてあげる」
少女は言う。
なにを言っているのだ? あたしはまだ生きてる! 病院にいって手当すれば助かるんだ!
最悪機械化したってかまわない。
ミキは、家族全員が無機械化主義者であったがそんなこと言ってられない。
そう言おうとしてふと少女が付けているチョーカーに気付き、そこにぶら下がったタグを見た。
それはミキにとって絶望を意味した。
あれは、あの認識票は。
「犬野郎……」
ミキの喉から絞り出す声に少女は眉を顰め、そして。
裏路地に最期の銃声が響いた……
その日、イスナはひどく不機嫌だった。
予定していた報奨金が振り込まれてなかったからだ。
委員会の不手際には何時も泣かされるが、今回は特にヤバい。
イスナは、でっぷりと肥え太った、限られた配給食でどうやったらあんなに太れるのか? 自分が借りているボロアパートの大家のおばさんの姿を思い浮かべる。
後、一週間。 それまでに溜まった家賃を払えなければ追い出される。
《《当然》》配給チケットでの支払いだが当てにしていた委員会からの幻獣処理の報奨金が手に入らないとなると……
かなりの大物だったので、手に入る金額は相当な物だったのに。
イスナは、大家の地獄の鬼すら恐れさすほどの怒り顔を思い浮かべ身震いした。
今回こそは家賃を払えないと殺される、いや追い出される。
イスナは薄暗い部屋の中、手持ちのチケットをもう一度数える。
が、何度数えてももちろん家賃には足りなさ過ぎた。 支払いを滞らせ過ぎたとも言うが。
「やれやれ、どうしようかねぇ」
とりあえずは腹ごしらえと、なけなしのチケットを持って外に出たが、さてなにを食うか?
イスナ、喰噛イスナは持っていたチケットをポケットに突っ込むと通りを一つ過ぎ、都市管理委員会非公認の、公式上は存在しない繁華街に足を向ける。
ここなら『外貨』が使える分まだ余裕がある。
ポケットに入れたもう一つの貨幣の残高を思い浮かべながら歩みを進める。
昨日ここで仕事をした分は大した額ではなかったが、あれもまた遅れるのだろうか?
陰鬱とした気分になりながらも、イスナは足を進める。
処理した裏路地を過ぎ、さらに奥へ。
そこは袋小路だった。
その袋小路には屈強な男が二人立っていた。
いかつい顔に揃いのサングラス型サイバーアイを埋め込み、鍛え上げられた筋肉をこれまたお揃いの黒いスーツに押し込めた黒服の男達。
なにもない袋小路に屈強な男が二人。 怪しいことこの上ないが、イスナは恐れることなく近づく。
「ごくろうさん」
ニヘラっと口元だけは笑みを浮かべ、その目はすねて淀んだ眼つきのまま、という実に器用な表情で黒服達に挨拶する。
男の一人は胡散臭そうに(サングラスで分からないが)イスナを見やると野良犬でも追い払うように手を振った。
「ここはガキのくる所じゃないぞ」
だがもう一人はイスナを見知っていたようでその男を留める。
「待て、そいつは黒手だ」
「黒手? じゃあこいつが委員会の犬……」
そう男が言い掛けた時、身長2メートルは超すであろうその身体が宙づりになった。
イスナはなにもしていない。 いやただ男にその右手を向けているだけだ。
その腕は黒く鈍い金属の輝きに包まれていた。
宙づりになった男の首からギシギシと骨がきしむ音が聞こえる。
体重100キロは超すであろう筋肉の塊。機械化していれば更にその重みは増すであろう体がなにも支えのない状態で中に浮く。
そんな異様な状況に男は恐怖した。
「ぐえぇ!? た、助け」
「よせ黒手!」
もう一人の男が、イスナに向かって叫ぶ。
そう言われイスナはその機械仕掛けの腕を下ろした。
その途端、地面に倒れ落ちる男。
喉を抑え苦しそうに咳込む。 その咳が収まると、膝立ちした状態で懐に手をやり拳銃を引き抜きざま、イスナに向けようとする。
「てめえ! 舐めたマネを……」
男は最後まで言い切る事が出来なかった。
その、イスナに向けた拳銃が半ばから切断されていれば宜なるかな、といった所だろう。
そして、もう一人の黒服に肩を抑えられる。
「すまん黒手、こいつは新人なんだ。カンベンしてくれ!」
そう言って男の頭を押さえつけ無理やり頭を下げさせる。
「まあいいよ」
通ってもいい? そうイスナに言われ、男はその行き止まりの壁に向かって懐から取り出した小さなリモコンを向けると、壁の一部がスライドして新たな通路が現れた。
「通ってくれ」
その男の声にヒラヒラと手を振ると、イスナはその通路に消えていった。
暫くして、壁が元に戻るとようやく抑えられていた男が身じろぎした。
男がその押さえていた肩から手を退けるとゆっくりと立ち上がる。
「バカなマネしたな」
先輩格の男に言われ、男はバツが悪そうな表情を見せた。
「あれが……」
「そうだ、あれが黒手。またの名を、【ウィッチドッグ】。都市管理委員会公式魔女だ」
男は今だ痛む喉を抑えながら、魔女が消えていった壁を見続けた。
なぜ、私はこんなにも働いているのだろう?
長く続く通路を歩きながら、イスナはひとりごちた。
出来れば遊んで暮らしていたい。 部屋に引きこもって爛れた生活を送りたい。
なぜこんなに汗水垂らして仕事をしなければならないのか?
イスナは、ふと過去を思いだ……そうとして面倒くさくなってやめた。
いや違う。 自分は過去を振り返らないのだ。 未来に生きる女なのだ。
過去よさようなら! 未来よこんにちわ! なのだ。
誰に言うでもない心の声は、もちろん誰の胸にも響かずその短い一生を終えた。
「あー腹へったなあ」
呑気なイスナの声が隠し通路に響く。
やがて通路も行き止まり、なかなかに豪華な装飾の扉が姿を現す。
警戒することもなく、その扉を開け放ち中へ潜りこむ。
扉を開けたその先は、喧騒に包まれていた。 天井は覆い隠され外からは伺えない。 その広さは街一区画分はゆうにある。
老若男女様々な人がここに集っていた。
ただ外の繁華街と違う事といえば、殆どの人がお金を持っていそうだという事だろうか?
ここは繁華街を仕切る組織の一つ『黄龍』が管理する隔離された場所。
違法な街の、更に裏なのだ。
繁華街には違法品が売っているが、ここはさらにヤバい物で溢れている。
表の街に出ない高級食材は勿論、服などのファッションブランド品、この街には存在しない物も含む。それらは言うに及ばず、他にも効果も定かではない漢方じみた薬品や、はては重火器から死体。さらには身分までなんでも揃う。 ただし支払いは『外貨』のみだが。
金さえあればなんでも手に入る。ここはそういう場所である。
その人込みを慣れたようにすり抜け、イスナは一軒の飲食店に潜り込む。
「らっしゃい! なんだ、イスナか」
飲食店を切り盛りしている女性。ここの看板娘の紅は満員の席に体を滑り込ませた少女を見やると、興味を無くしたように他所に行こうとする。
「ちょ! お客をほっぽいてどこいくの!?」
紅は、年齢は20代前半のはっきりとした目鼻立ちのアジアン系の美人である。 その豊満な体をチャイナ服風の、この店の制服で包み込み惜しげもない笑顔でお客の、特に男性の注目を浴びている。
お客、と言いきったイスナを呆れた目で見ると、右手の親指と人指し指で輪を作る。俗にいうお金のマークである。を作るとイスナに見せつけた。
「あるよっ! バッチリだよ!!」
そう言うイスナを不審そうに見た後、ため息を付いて注文を聞くと厨房に注文するため奥に引っ込んだ。
やがて紅が、イスナの注文した品を持ってくる。
豚の香草焼きに、味噌バターコーンラーメンに、豚キムチチャーハン。水餃子に卵スープ。さらには大ぶりの若鳥のもも肉のから揚げが4本。
紅はそれらをテーブルに並べながら、イスナに念を押す。
「ちゃんと払えるんでしょうね?」
「だいひょうふ(大丈夫)」
早速もも肉に齧り付いたイスナを心配そうにしながらも、紅は他のお客の対応のため離れる。
しばし、無心に食べ続けるイスナ。
だが僅か10分足らずで食べきると、『外貨』をテーブルに勢いよく叩きつけると外に出る。
「ごっそさん!」
「まいどー! って、ちょっと!? 全然足りないじゃ……あんのクソ犬!」
紅の声が聞こえた瞬間、脱兎のごとく逃げ出す。
仕方がないのだ。 お金がないのは仕方がない事なのだ。 諦めて欲しい。
紅が聞いたら確実に食材にされそうないい訳を心の内で言いながら、イスナは本来の目的地へと足早に向かうのだった。