2-01 ユールシアの日常。その1
「…っ!」
青年に、唐突に唇を奪われた。
前世を含めて初めての唇でのキスに、驚きと同時に顔が一瞬で熱くなる。
でも悲鳴をあげたり、彼に平手打ちをするようなマネはしない。
だって、気づいちゃったんだもん……。
唇が触れた瞬間……理解しちゃったから、驚きも怒りもどこかに吹き飛んだ。
「…………」
私が彼の胸板に手を当ててそっと押し返すと彼は素直に離れて、そのハシバミ色の瞳で私をジッと見つめる。
「ユールシア…?」
「………着いてきて」
怒りは吹き飛んだけど、憤りは治まっていない。微妙な違いだけど、
『うん、怒ってないわよ? ……でも分かってるよね?』
…ってそんな感じで。
「……分かった」
私の言いたいことを理解したのか、彼は神妙な顔で頷いた。
「「「………」」」
ちらりと飯野さん一家に視線を向けると、ものの見事に唖然として何か言いたげな微妙な顔をしていた。
でも美紗だけは違うね。私以上に真っ赤になってダラダラと汗を流しながら、視線があちこちに泳いでいる。
私は軽く手を振って、大丈夫だと示してからお店の外に歩き出した。
先に歩いて彼に背を向けると、そっと自分の唇に指で触れる。
「………」
感触がまだ残っているみたいで、少しだけ指が震えた。
……やってくれたね、ホントに。
ファーストキスが知り合いの一家全員の目の前とか、どんな羞恥プレイですか。
自重しないピリピリとした威圧めいた雰囲気を撒き散らす私に、まだ人も居る商店街で誰も話しかけてこない。
私達も無言のまま商店街を抜けて、誰も居ない児童公園に辿り着くと、私はゆっくりと彼に振り返る。
二十代半ばくらいの、中東辺りのような浅黒い艶やかな肌の青年。
細身で背は高いのに、その一つ一つの動きは力強く、その服の下にしなやかな筋肉を想像させた。
顔立ちも優男風に整っているのに、ひ弱さはなく野性味もある。
「さて……説明してもらいましょうか。凜涅」
静かに…いつものように笑みを浮かべてそう尋ねると、彼の顔は何故だか少しだけ引きつっているように見えた。
***
時は少し戻る。
崖から落ちた車の中にいた綺堂は、かろうじて息があった。
車が炎上しなかったのも幸運だったが、シートベルトをしていなったせいで車から投げ出されたおかげで、車体に押し潰されずに済んだのだ。
その幸運は、逆にシートベルトをしていなかったせいで車内で身体を叩きつけられた部下達とは対照的な結果だったが、綺堂はそれを幸運とは思えなかった。
「……ぐっ」
手足が折れたのか、少し動かしただけで激しい痛みが襲ってくる。
「…がは、…ぐ」
身体を起こそうとして咳き込み、口内に溢れる血の味に綺堂はこのまま動けず、苦しみながら死ぬのかと己の不運を呪った。
迫り来る死の淵で綺堂は思う。
父の跡と思いを継ぎ、非道なことにも手を染めてきたが、故郷のためには仕方のないことで、未来を想えば自分のしてきたことは必要なことだった。
その努力の報いがこれだというのか……。
そして、自分達が積み上げてきたものを、積み木でも崩すように盤面を簡単にひっくり返した、あの“少女”は何なのか。
死神……化け物……死の天使。
どうしてあんな色々な意味で非常識な存在が、この世界に何気ない顔で生活していたのか信じられない。
綺堂は憎かった。あの少女の存在を全霊で呪った。
(誰か……、俺の声が聞こえる“誰か”がいるのなら、誰か、俺の恨みを……)
激痛と苦しみの中で、心で叫ぶ呪いの言葉に“誰”が応えるのか……。
「…っ!?」
暗い森の闇が物質化したように重く綺堂にのし掛かる。
夜が『黒』に塗り込められるような何も見えない闇の中で、木々を押し分けるようにゾウよりも巨大な一頭の『黒豹』が近づいてくることが、はっきりと見えた。
「…ひっ、」
人間とは……いや、この世の生物とは『格』が違う、あきらかな『強者』の気配に、綺堂の肉体は死を予見して体温が下がると同時に、魂がその存在に恐怖して綺堂の精神を蝕んでいった。
『人間よ……生きたいか?』
人の言葉……それも魅力的な男性の声に、綺堂の目は驚きに見開かれた。
精神を汚染するように『声』が心を浸食し、恐怖を抱かせたままで、綺堂の警戒心を奪っていく。
『それとも、恨みを晴らしたいか?』
「っ!」
死の顎に牙を突き立てられた恐怖の中で、綺堂が感じたのは『歓喜』であった。
綺堂の心の叫びに現れてくれたこの『大いなるモノ』は、自分のことを分かってくれる。自分の恨みを晴らしてくれる、と麻薬に犯されたように心から信じてしまった。
「………ぉ…ぁ……」
まともに声も出せない綺堂の絞り出すように漏らした声に、巨大な黒豹は牙を剥きだして、人のように嗤った。
***
「…と言う訳だ」
事情を簡単に説明したリンネは、腕を組みながらしたり顔で頷く。
「………」
……どういう訳だよ。
いや、わかるけどさ。死にかけた綺堂さんと『契約』して、その魂と身体を依り代に使って、リンネは『顕現』したんだよね?
どっかで見たことあるなぁ…と思ったら綺堂さんだったのかぁ。
私の従者達は魂と融合させたから、見た目は元の人間とあまり変わらないんだけど、リンネは完全に魂を吸収してしまったのか、原型がほとんど残ってない。
すでに日本人からも離れちゃってるじゃないか。
………ま、まぁ、似合ってるけどさ。
「……リンネ、ターバンに興味はない?」
「……何故だ?」
いや、石油産油国の王子様っぽいなぁ……とか思った訳じゃないんだよ。
「それで……? リンネはどうするつもり?」
「どう…とは?」
うぬぬ……前から好みの声だったけど、人間の声帯から発せられると無闇にドキッとさせられる。
「だって、契約内容は『私』に恨みを晴らすことでしょ…?」
私はそう話しながら悪魔の気配を滲ませる。
一度は喧嘩して、仲直りして心は繋がったけど、所詮は悪魔だから、私達は人間のようにべたべたと馴れ合ったりはしない。
要するに敵対はしないけど、喧嘩を売るなら買っちゃうよ? どうすんの? …って言っている訳だけど。
「それはもう終わっただろ?」
「……は?」
思わず間抜けな声を出してしまった私に、リンネはニヤリと笑うと片手で私の髪をかき上げて頬や耳に触れる。……くすぐったい。
「ちゃんとユールシアに、目にもの見せてやっただろ?」
「…………ぁあ」
突然キスして驚かせた。……確かに【悪魔公】と戦うよりビックリしたけど、いいのかそれで。めっちゃ詐欺っぽい。
……私も人のことは言えないけど。
たぶん……、リンネは気づいていないけど、思考や発想が人間の肉体に影響されているんだと思う。
元になった綺堂さんはモテそうだったからなぁ……。人型モードの仕草は綺堂さんが元になっているはずだけど、綺堂さんがやれば軽薄そうなイメージが、リンネがやると妙に艶っぽくて腹が立つ。
私の身体に度々触れるのも、人の身体の影響で人の体温を求めている……。
だから……いきなり唇を奪うなんて、らしくないことをしたのかも。
「……仕方ないなぁ」
「どうした?」
私の耳をくすぐっていたリンネの手を外して、私はもう一歩だけリンネの側に寄る。
……私だって、嫌な訳じゃないんだよ?
「ん?」
不思議そうな顔をしている、頭一つ背の高いリンネのネクタイを掴み、私は引き寄せるように背伸びして、私からそっと唇を押し付けた。
「…お帰り、リンネ」
それにしても……、顕現するための大量の生け贄か魔力は、どうやって調達したんだろ?
基本的にはユルパートは緩い話になります。
悪魔パートは……。




