1-01 天使になりました
悪魔ビームはパンチ力
夜の街の片隅で……。日付が変わるほど夜が更けても、街では人が蠢き、人がいる限り灯りは途絶えることはない。
それでも学校の隣に建てらたその『教会』は、比較的広い敷地のおかげで、街の喧噪とは切り離されたような静けさを保っていた。
でも今夜は違う。
この教会が建てられてから、……いや、ほとんどの教会やその関係者でも滅多に聞くことも見ることもなかった、おぞましい事態に陥っていた。
『キギャガカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカッ!』
中学生ほどの少年が、歪な嗄れた声で笑っている。
元は血色が良かったと思わせるふくよかな頬は蝋のように蒼白く、白目の裏返った血走った目は大きく見開いて、神父らしい外国人の男性を揶揄するように睨め付けた。
「オオー神ヨーッ、この子供を救いタマエーッ! 悪しきアクマよ、この子からデテイキナサーイっ」
5年前にピザとパスタの国から来た神父は、この日本で若い奥様達に甘い言葉を囁きながら、日本特有の食材を使った創作ピザを教え広めて、それなりに地域に溶け込んでいた。
それがこの日、彼は本国でもなかった『悪魔憑き』に遭遇してしまった。
日付が変わる寸前に家族に連れられてやってきた『少年』は最初は大人しかったが、この場所が教会であると気付き、神父の姿を見た瞬間に取り憑いた『悪魔』がその本性を現した。
「神父様、息子を助けてくれっ!」
「ああ、何てことでしょう…」
「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!」
少年の両親と妹が嘆き恐れ、神父に救いを求める瞳を向けている。
『この餓鬼の身体は「誰か助け」オレの物「嫌だ、嫌だぁ」だぁああああああああ』
少年の意識はまだ残っていて、『悪魔』と『少年』の声が同時に神父の耳を打つ。
神父の目の前で少年の手足が歪に曲がり、蜘蛛のような体勢になり『悪魔』はケタケタと笑う。
『キハカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカッ!』
「オオ…神サマ…」
このままでは少年の身が危ない。
神父の生まれた国でも『悪魔』と遭遇した事例など、歴史書を紐解いてみても多いとは言えない。
それが神に仕える者が自分しか居ない状態で『悪魔』に遭遇するとは、神父には悪夢としか思えなかった。
だが神父には切り札があった。
「コレをくらいなサーイッ」
神父は咄嗟に用意できた『悪魔払い』の道具を『悪魔』に使う。
それは、彼が若い頃に世話になった、九十歳近い老神父から教えて貰った物で、神の血であるワインを聖水に混ぜて、それを『悪魔』に振りかければ良い。
老神父はワインが無くなると、ぷるぷる震える手で『戦えなくなる』と言って、教会の資金で彼に大量のワインを買ってこさせていた。
そんな老神父も肝硬変と糖尿病で亡くなったが、彼の尊き教えは今も神父の中に生きている。
それなのに……。
『そんなモノがオレに「助けて、痛い」効くかぁあ、ゲカカ「誰かぁああああああ」カカカカカカカカカカカカ「酒臭い」カカッ』
どういう訳か『老神父の聖水』はまったく効いていなかった。少年の意識はまだ残っているが、残っているからこそ危険な状況と言えた。
悪魔が少年の身体をねじ曲げ、壊そうとしている。このまま少年の身体が壊れれば、少年の心が折れてその無垢な魂は容易く『悪魔』の手に落ちてしまうだろう。
『この世に、「痛い、痛いよ」神なんざ、いねぇええ「助けてええええええ」ええええええええええっ』
獣のように相貌を歪め、人とは思えない体勢で『悪魔』と『少年』が叫ぶ。
この世に神も救いもないのか……。
神父と少年の家族が絶望に彩られたその時……、教会の大きな両扉を開けて、一人の金色の『天使』が舞い降りた。
「「「「『………………』」」」」
全員の瞳が…悪魔でさえも、その『天使』の姿に見蕩れ、思わず我を忘れた。
上質な黒と銀のゴシック風のドレス。
透き通るような白い肌に、金の糸のような美しい髪の、とても綺麗な女の子。
注がれる幾つもの視線の中で、少女は悠然とした足取りで近づいてくる。
年の頃は十代前半だろうか。
もしかしたらもっと下かも知れないが、幼さを残しながら歳には似合わない柔らかな雰囲気が、とても大人びて見せた。
全員が『魅了』されたように見つめる中で、少女は淡く桃色がかった金色の瞳に、この惨状を映して……。
「おかまいなく」
外国人にしか見えない少女は綺麗な日本語でそう言うと、チョップをする動作で彼らの横を通り抜け、説法を聞くための長椅子に腰を下ろす。
コンビニ袋から取り出したオニギリの包装をペリペリ剥きながら、少女は自分を見つめる瞳に初めて気付いたように首を捻り、その愛らしい桜色の唇を開いた。
「どうぞ、気にせず続けて下さい」
「…………」
『…………』
どうしようもなく微妙な空気に、悪魔と神父が困った顔で視線を交わす。
具が好みでなかったのか途中で食べるのを止めた少女は、オニギリの具をいつの間にかそこにいた黒猫に与えていた。
その愛らしい姿に中年神父はポッと頬を染め、この異様な空気の中で最初に空気を読んで行動を起こしたのは、なんと『悪魔』であった。
『小娘ぇえ、なんだ貴様はぁ、魔界の貴族である、このオレ…の……』
でも悪魔が読んだ『空気』は、少女の求めていた『空気』とは違ったらしい。
そっと顔を上げて、ス…ッと細めた少女の瞳に、『悪魔』の声が掠れたように萎んでいった。
「【続けなさい】」
少女のその簡単な『一言』に異様な強制力を感じて、全員が身を震わせた。
「…あ、悪魔になんて負けないで、美王子ちゃんっ!」
ぶほっ!
空気を読んで『続き』を始めた、息子の名を呼ぶ母親らしき女性の声に、ペットボトルの水を飲んでいた少女が黒猫の顔に盛大に水を吹き出した。
水に塗れて不味そうに昆布の佃煮をペッと吐き出した黒猫は、無言のまま少女の顔にネコパンチを放つ。
『この餓鬼の魂はオレが戴くっ。その後はお前らだぁあああああ』
「美王子お兄ちゃんっ!」
「駄目だ、美茄子ちゃん、近づいてはいけないっ!」
ぺきょ…。
100キロは超えそうな少年を心配する、同じく100キロは超えそうな妹の名を呼ぶ父親の声を聴いて、少女はペットボトルを握りつぶす。
その下では、こぼれた水を浴びてずぶ濡れになった黒猫が、何か言いたそうに少女をジッと見上げていた。
ぽよんぽよんと跳ねる兄と妹に、カエルのような体型の両親と神父が励ましの声を掛ける。
「頑張って、美王子ちゃんっ!」
「美茄子ちゃん、危ないっ!」
「オオ、神ヨ、この子をお救いクダサーイっ」
黒猫と真剣な顔で話し合っていた少女は、懐から海産物の干物のようなモノを取り出して、黒猫と一緒にそれを囓り始めた。
少女と黒猫に何があったのだろうか…? 黒猫が人語を解するとでも言うのか。そして悪魔に憑かれた少年と家族の運命は…っ!?
喚き続ける人達と悪魔に、少女はゆっくり立ち上がり近づくと、おもむろに少年の頭を鷲掴みにする。
……ゴキンッ。
『…へ、ぎょっ?』
「あなた、本当に悪魔なの…?」
首を無理矢理ねじ曲げたせいで奇妙な音はしたが、何事もなかったように話しかける少女に、少年に憑いた『悪魔』の視線が泳ぐ。
『そ、そうだぁあっ、オレは魔界の貴族、七十二柱の…』
「聞いたことがないわ」
悪魔の言葉をあっさりと遮り、悪魔を解放すると、そのまま少女は教会の入り口へと足を向けた。
「あなたが『何』でもどうでもいいわ。お仕事の邪魔してごめんね。私はそろそろお暇するので、では、ごきげんよう」
最後に一度振り返り、本物の貴族のように、スカートの裾を摘んで優美に一礼する少女に『悪魔』は唖然として見送りそうになったが。
『ふざけるな小娘ぇええええええええええええええええええええっ!』
我に返った『悪魔』が獲物を狙う蜘蛛のように高い天井に飛び上がり、少女の背中に襲いかかった。
「…『光在れ』…」
少女が囁くように声にした瞬間に眩い『光』が教会内を瞬き、その光が消えるとこれまでが嘘のように清らかな空気がその場を満たされていた。
「……ナニが…」
神父が呆然と呟き、気がつくと金色の少女と黒いネコの姿は消えていた。
「お兄ちゃんっ!」
「美王子っ!」
「美王子ちゃん!」
「パパ、ママ…美茄子ちゃん…」
息子に憑いていた『悪魔』が消滅して、ぷよぷよした家族たちが抱きしめ合って喜び合う。
「……神は…天使はイタのデスね」
神父は神の奇跡を見たように滂沱の涙を流す。
そして彼は、教会の歴史に『黄金の天使が現れ、悪魔を滅ぼした』と記載し、これまで以上に敬虔な信者となって、立派に神父を勤め上げるのだった。




