(下)
朝方、アルコールで浮腫んだ手足と、分厚い皮膚を纏ってしまったかの様な何とも言えない不快感を張り付けて、僕はマンションに帰ってきた。
そして彼女を起こさない様に、音を立てない様に廊下を進み、キッチンが隣接したリビングへの扉を開く。酷く喉が渇き、擦りきれた心と体が水を求めていた。
「おかえりなさい」
すると彼女はパジャマ姿でリビングのソファに腰を沈め、紅茶を啜っていた。仄かな朝の青い光の中、彼女の顔が白く浮かんで見える。
「……ただいま、随分早いんだね」
「え? あぁそうね。なんだか寝付けなくて、ふわ~~~あ」
彼女が起きているのではないかと言う予感はあった、ひょっとして寝てないんじゃないかとも。
僕は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、それを口に含む。冷えた水を胃に落とすと、体は一瞬驚きの声を上げたが、次第に心地よさが体に広がった。
そしてある覚悟を決め、新たに生れようとする一日の中、彼女に言った。
迷わなかったと言えば嘘になる。でも切り出すなら、今のタイミングしかないという思いが、僕を後押しした。
「利理子……僕と別れてくれ」
彼女は口に運びかけたカップをソーサーに戻し、眉根を寄せ、気遣う様な視線で僕を見て尋ねる。
「やっぱりあなた……何かあったのね?」
「……別に、何もないよ。前から……前から言ってる事じゃないか」
僕は一瞬躊躇いを覚えたが、ペットボトルを手に、彼女の隣に腰掛けた。
「ひょっとして、藤田先生との事で妬いてるの? 馬鹿ねぇ、別にあの人とは――」
「今日、藤田先生に会って来た」
「……え?」
彼女に視線を向けず、テレビボードに飾られた二人の写真を見ながら言った。
あれは……いつ、何処で撮った写真だっけ?
早くも僕は、全てを失う事を前提で写真を眺めていた。その事に気づくと、悲しげに頬は緩む。
「あ、会って来たって……あなた何を疑ってるの? 私と彼は只の同期で――」
彼女はカップとソーサーを目の前のローテーブルに乱暴に置くと、非難を込めた目つきで僕を見た。
「分かってるよ。でもね利理子、君にはあぁいう人が似合うと思うんだ……僕みたいな男じゃなくて、健全で、力のある……木曜休みの男がさ」
目の端でその姿を確認した僕は……平静を失いかけた彼女とは対照的に、淡々と語ってみせた。
「あなた、なにを――」
「辛いんだよ……君といると。僕が、僕のせいで、君の未来を奪ってるんじゃないかって、そう思えてならなくて……」
ついにその言葉を口に出せた事に、僕は嬉しい様な悲しい様な、満足な様な、すまない様な心地になりながら、しんみりと目頭を熱くした。
「だから利理子、別れてほしいんだ。これは君の為でもあるし、僕の為でもあるんだ。この切欠を大事にしたい……多分、今が僕と君が別れるのに最適な時期なんだ。分かるだろ?」
言いながら、心には絶えず、苦い灰汁の様なものが湧き出た。
彼女と今の関係を続けるのは容易い。
でも人生は長い――驚く位に。
でも人の心は深い――悲しい位に。
いつか必ず、彼女は僕との付き合いを後悔する日が来る。恋の病は不治ではない、情熱の泉もカラカラに渇く。
行く水と……過ぎる月日と、散る花は、人にはどうする事も出来ないのだから。
その時、彼女が僕に向ける視線に……僕は耐えられるのか?
そんな考えが、以前からずっとあった。
つまり僕が別れを切り出すのは、彼女の為でもあり、やっぱりそれは―――僕の為でもあるんだ。
『自分が傷つくよりも先に、相手との関係を絶ち、幸福を諦めた方が、傷つくリスクは失くせる』
昔、そう言った作家がいた事をふと思い出した。
『だがそれは図らずも、相手を傷つけることとなる。だから、人に優しくするのは、とても難しい。たぶん――』
たぶん……。
その後の言葉は、なんだったろうか?
そんな風に、停滞する二人の関係性と時間の中で、僕が考えを巡らせている間、彼女は黙っていた。
しかし無言は二人の間には長く横たわらなかった。
やがて彼女は「全く……」と、呆れた様に、何かを愛おしむ様に息を吐き、慈愛に満ちた眼差しで僕を捕えると、
「ねぇ……私がどうしてあなたと付き合ったのか知ってる?」
と尋ねた。
彼女のその質問は、水に落ちた油の様に僕の理解には決して染み入らず、ギラギラと光って浮かんだ。
「いきなり……どうしたの?」
困惑顔で、彼女の顔を見て尋ねる。
今度は、彼女が前を見て話す番だった。彼女は柔らかくほほ笑んだ後、視線をテレビボードの写真に置き、遠くを眺める様に目を細めると、
「ねぇ、どんな人になるのがこの世界で一番難しいことだと思う?」
と尋ねた。
その抽象的な問いは、僕を混乱させるのに十分だった。
「どんな……人? それって僕と付き合った事に関係が――」
「あるのよ。だから答えて」
僕は質問の意図を汲み取ることが出来ず、閉口する他なかった。だがそれと同時に、何らかの答えを返す必要があると、焦燥を覚えもし、
「それは……賢い人になるとか、そういう事じゃないの?」
と答えた。
「ぶっぶー!」
彼女の悪戯めいた口調に、思わず相貌を崩す。
「じゃあ……お金を沢山稼ぐ人?」
「ふふっ、なにそれ、全然違うわよ」
僕が答えられない事が嬉しいとでも言う様に、彼女は喜色に富んだ顔でこちらを見た。
「分からない?」
「うん……降参」
すると彼女は、再び視線を前方に戻し……。
「賢い人よりも、お金を沢山稼ぐ人よりも……優しい人になる方が、何倍も難しいのよ」
と言った。そして畳みかける様に――。
「あなた、自分が育った養護施設に毎月寄付してるでしょ」
その言葉を前にした僕は、頭の中が真っ白になり、思考が元に戻るのに暫くの時間を要した。
僕が幼い頃に育った養護施設は、あまり大きなものではなく、県からの補助金も、年々切り詰められているのが現状だった。その為、僅かばかりの金額ではあるが、働き始めてからは欠かさずに施設へ寄付をしていた。
僕がその施設にいた頃、やはり同じ様に、毎月寄付してくれる卒業生がいた。そのお金で、クリスマスに院長先生からゲームを買ってもらった事を覚えている。
――クラスで仲間外れにされない様に、先生が買ってくれた事を。
その時、僕も大人になって働く様になったら、同じ事をしようと心に決めた。自己満足に過ぎなくても……それが僕が大人になって、どうしてもやりたい事だった。
思考が正常に戻り始めると、何かを思い出しそうな弱い感触と共に、何故その事を彼女が知っているのかという、強い疑問が渦巻き、
「し、調べたの?」
うろたえた声で、間の抜けた質問を彼女にした。
寄付は振り込みによって行っていた。その為、調べようと思えば調べる事が出来る。しかし、まさか彼女が――だが、僕の疑惑は、彼女の次の一言で簡単に打ち消された。
「て・が・み……あなた、偶に届く手紙を大事そうにしてたじゃない。もう何年も一緒に暮らしてるんだから、それがどこから来て、なんで頻繁に送られてくるかなんて事くらい、察しがつくわよ」
「あ……」
瞬間、僕は彼女を疑った自分を恥じた。それと共に「親切な院長さんなんだよ、今でも僕の事を心配してくれててさ」と言った僕の嘘が、彼女にバレていた事を知る。
「それに私ね、付き合う前に見ちゃったんだ。あなたが病院で、延々とお年寄りに相手させられてる所。それにあなたって、結構ベタな親切してるわよね」
彼女は僕が待合室で老人の話し相手をさせられた時の話や、診察券を落としたお婆さんを追っかた時の話等を、得意げになって披露した。
その姿を見られていた事に対し、僕の情緒はむず痒さを覚える。
「あなた、看護師の間じゃ結構有名だったのよ。あの人、またお爺さんやお婆さんの相手をさせられてる、って」
「あれは……本当に、それこそただの自己満足だよ。僕は父と母が年取ってるし、それで何となくっていうか、だから別に――」
それは虚飾のない、心からの本音だった。別に親切にしている訳じゃない。ただ昔から老人に話しかけられたりすることが多く、また義理の両親の姿を老人に転写して見てしまうと僅かな寂しさを覚え、気付けば……親切らしい事をしていただけだ。
そしてその後は決まって、満足と悔恨が交雑した様な、奇妙な感慨に打たれる。
――長い間、帰っていないけど、二人は地元で元気にしているだろうか、と。
彼女は僕のそんな気持ちを知らず、ただ表に現れている所だけを見て、勘違いしたんだろう。
僕は、決して優しい人間なんかじゃない。
ただ……色んな事に臆病なだけなんだ。
その事を、彼女に伝えようと思った。
上手く伝えられるか分からないけど、それでも……。
でもその試みは、彼女の突然の告白によって、中断させられた。
「私ね、研修医だった頃……アレルギー検査でミスしちゃって……男の子を死なせそうになった事があったの」
「え?」
その言葉は、僕の動揺を驚きに塗り替えるのに十分だった。思わず彼女の横顔を見る。物哀しさに、重い沈鬱が加わった様な……今まで見た事のない彼女の顔が、そこにはあった。
「その頃の私って、本当に嫌な感じだったの。周りは皆、馬鹿って決めつけて、それなのに簡単な検査でミスしちゃって……急患で運ばれて、私も立ち合って……その時、お母さん泣いてた。そりゃそうよね、大丈夫だって思った物を食べさせて、子供が青い顔して倒れるんだもん」
僕は戸惑いがちに口を開いたが……言葉を発するのを諦めた。驚きに胸が痞え、言葉が出てこなかった為だ。
彼女は長い脚を折り畳み、体育座りの中、両膝に顔を埋めて告白を続ける。
「でも私ね……お母さんに謝れなかった。看護師の娘ばっかり謝ってて、私は何も出来ずに、私は悪くない、私は悪くないって、そういい聞かせて……最低よね」
僕は肯定も否定もできず、彼女と同じように黙って前を見つめた。名付け難い思いが胸を塞ぎ、鉛の塊が胸を押しつける様な気持ちに襲われる。
それと共に、ある強い衝動が、ふつふつと沸き上がろうとしているのを感じた。彼女を腕にかき抱いて、何か言葉をかけてやりたいという、衝動が――。
「幸い、男の子も助かって、お母さんが間違った検査でNGだったものも一緒に与えてた事が分かったから……医療訴訟される事はなかったんだけど……でも、その後の呼吸器の学会で、お世話になってる先生に言われたの」
彼女はそこまで言うと、突然無言になった。僕は続きを促すべきかと迷い、逡巡した後、「なんて……言われたの?」と尋ねた。
すると彼女は再び僕を見て言った。
「『君は、賢く優秀な医師にはなれる。でもそれよりも、優しい医師になる方が遙かに難しいんだよ』って……きっと何処かで、話しを聞いたのね」と。
彼女の口角は意図的に上げられていたものの、その表情からは何とも言えない感情の流動、過去の出来事が静かに彼女を苛んでいる事が見て取れた。
僕は堪らない衝動の中、ごく自然な感じで彼女を抱きしめていた。嗅ぎ慣れた彼女の香りが鼻孔に飛び込む。
彼女は僕の世界にキツイ顔つきで現れ、やがて朗らかに笑い、泣いたり怒ったりしながら、日々を共に過ごした。
でも今の様な、底知れない寂しさと不安に苦しめられる彼女の顔は、見た事がなかった。
過去は変える事が出来ないし、苦しみを、本当の意味で共有することだって出来ない。だけど僕は、彼女の中でぐろぐろと渦巻く感情を、彼女を苦しめているものを、少しでも落ちつける事が出来ればいいなと思い、強く抱きしめた。
体の芯が痺れる位に、強く強く。
安心と呼べる場所がある事を示す様に、優しく、優しく。
やがて彼女は、酒で火照って発汗し、香水やタバコの臭いと混じり合った僕の体臭すらも愛おしむかの様に、鼻一杯に空気を吸い込んだ後、こう言った。
「私が……どれだけ、あなたのさり気無い優しさに助けられてきたのか……多分、あなたは知らないわ。私があなたを幸せにするつもりだったのに……いつの間にか、こんなにも幸せにされて……だから私は、あなたがいいの。賢さよりも、もっと大切なものを持ってるあなたが……だから……ねぇ、幸福になる事を恐れないで」
その時僕は、暖かく柔らかい泥の中に埋もれていく様な、心地よい感覚に身を浸しながら、『あぁ、夢を見ているな』と思った。
こんな女性が、僕に与えられる筈がない。
だからこれは夢に違いない。そう思った。
しかし目に溜まり、頬を流れる涙は熱く、彼女という、確かに掴める存在が僕の世界に開かれている。
眩しい様な、目がくらみそうな感覚の中、僕は彼女の名前を呼んだ。
その瞬間、作家の言葉の続きを思い出した。
『自分が傷つくよりも先に、相手との関係を絶ち、幸福を諦めた方が、傷つくリスクは失くせる。だがそれは図らずも、相手を傷つけることとなる。だから、人に優しくするというのは、とても難しい。たぶん――賢くなるよりも――』
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
運動は直線的に進む。
点から点へ、省みることなく、ただ真っ直ぐに進む。
僕は僕たちの生活、運動の先には誤謬が待っていると思っていた。
誤謬――つまりは不幸だ。
だから僕は、その運動を止めたいと願った。
止めなくてはいけないと祈った。
その為、動き出した運動に抵抗が、摩擦が必要だと思った。
僕たちの生活を終わらせる為に、関係を終わらせる為に……。
でも今なら、その考えが間違えだった事が分かる。運動の連なりは、そんなちっぽけな文節で支えられている訳ではない。
小さな点と点。
その連なりで、運動は世界の中を進んでいるんだと言う事に気付いた。
一つの日常の始まりは、一つの日常の終わり。
それと同時に……。
一つの日常の終わりは、また新たな一つの日常の始まり。
僕たちはあの日以来、変わらぬ二人の生活を送っている。出会った頃の様な切実な、自分を止められない様な激しさは二人にはなかった。
ただ違う点があるとすれば、落ち着きがあり、平穏があり、静寂があり……お互い、婚約指輪をはめる様になった。
僕が彼女にそう提案した。その時、彼女は幸福をかき集めた様に笑った後、「いいわね、それ」と言った。
ある種の人間は、幸福を恐れるものだ。それを見た事がないから、自分の人生には不幸の道しか延びていないと、初めから諦めている。
真綿に包まれても傷つく人間が、この世には存在する。
そんな中、彼女は僕にこう言った。
『ねぇ、幸福になる事を恐れないで』
その言葉を思い出す度、僕は考える。どうして人間には、こんなにも深い喜びが与えられているのだろうか、と。
同時にその言葉が、僕を鼓舞する。新しい点に向かって動き出すことを、恐れるべきではないと。
僕が彼女が言う様な、優しい人間なのかどうかは分からない。やっぱり、彼女の勘違いなんじゃないかと思うこともある。
それでも僕は……彼女と生きる事を――。
同僚の都合で、彼女が水曜に休みを取る事が決まった、火曜のある朝。この機会を逃すべきではないと自分に言い聞かせ、弱気を長い息の中で吐き出した僕は、電話を終えた彼女に声を掛けた。
「ねぇ、よかったら明日……僕の地元に行かない?」
すると彼女は、驚きに目を見開いた後、
「どうしたの急に?」
と微笑を浮かべた。
「君に……利理子に僕の故郷を見せたくなったんだ」
彼女と会う前……僕の火曜日は、当たり前の様に一人だった。
同僚と飲みに行っても、家に帰れば一人。
住めば都。だが都は去れと言う。
でも誰もかれもが、この町を去れずにいる。
そんな言いようのない寂しさを覚えた時、僕は一人、漫画喫茶に向かった。
そして故郷の景色を思い出す。
小学校への通学路。
ブロック塀、栗林、ドブ川。
懐かしい、故郷の景色。
そういったものを全部、彼女に見せたいと思った。
「それにさ……父と母にも、一度会ってもらいたいし、だから――」
「え? それって……あなた……」
驚きに身を竦めた彼女に、僕はある言葉を紡ぐ。
僕の中に生き続けた祈りは絶えない水の様に流れ、曲がりくねったり、僅かな窪みに染み入ったりしながら――その時、確かな言葉となった。
そんな日常もまた、数限りない吐息と共に、流れていく。
いい事も、悪い事も。全てを包んで流れていく。
明日は何もない、何もない水曜。
君と僕の、何もない水曜。
明日の何でも無い水曜は、故郷のあの町にもやってくる。
明日は何もない……何もない水曜。
故郷の父と母。
そして君がいる、何もない水曜の日。
■温暖な地域
作詞・作曲:パンク&ロックス
入道雲の空
じんわりかく汗
照射する太陽
光線を避けて
漫画喫茶に入る
クーラーが効いてる
明日は何も無い
何も無い水曜
暗がりでポッカリ
一服すると
ふるさとの通学路を
思い出したんだ
ブロック塀の隙間
栗林の臭い
明日は何も無い
何も無い水曜
ふるさとの町に
水曜の朝が来るはず
湿った風が
ぬるく流れる
温暖な地域に
移り住んで来たんだ
明日は何も無い
何も無い水曜
ふるさとの町に
水曜の朝が来るはず
僕と君の水曜が
ふるさとの町にもきっと……
■原案「鳥になって飛ぶ空は零下50°C(辻ポエム) (著:パン×クロックス)」
「温暖な地域」より
http://ncode.syosetu.com/n7073ce/3/