(中)
僕と彼女の生活は、その後も、何の障害も抵抗もなく、摩擦のない面を滑って行った。
彼女は呼吸器の中でもアレルギー専門の為、夜に呼び出される事が少ない代わり、学会で発表する研究論文の資料作りに忙しく、時に僕よりも遅く帰宅した。
僕はしがないサラリーマンらしく、サービス残業をしたり、休日のサービス出勤をしたり、時に体を壊しながらも、それなにりやっていた。
だけど、どんなに忙しくても火曜の夜だけは二人の時間があった。
「明日は何も無い、何も無い水曜。ふるさとの町に、水曜の朝が来るはず」
彼女が旅行の準備をしながら、嬉しそうに歌っているのを横目で眺める。極希な事だけど、僕に合わせて彼女が休みを取れた時には、二人で小旅行に出かけたりもした。
静かな時間が二人に横たわり、目を見ればお互いの考えている事が分かる様な、居心地のいい関係性がそこにはあった。
しかし、ある日――。
僕が彼女の病院に訪れた時。
ここ数年、生まれなかった摩擦が、抵抗が、僕たちに生れた。
それは本来なら、歓迎すべきものだったんだと思う。でも僕はその摩擦に、僕たちの惰性のままに流れる生活を、慣性の法則を止めてくれるかもしれない抵抗に出会った時……。
心は酷く沈鬱になった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
その日、営業先で色いい返事をもらい、上機嫌で早めに退社した僕は、彼女の勤務する病院へと向かっていた。彼女にメールを送ったら、彼女も今日は早く上がれるらしく、なら僕がたまには迎えに行くよ、という話になった為だ。
そして病院の裏手――職員専用のエントランスに向かう途中、僕は職員用の駐車場にある物を見つけ、居ても立っても居られなくなり、辺りを伺いそっと近づいた。
真珠色の、美しいシルエットに飾られた、
ポルシェのCayenne958型。
以前、営業先の上客に自慢気に見せられた時から、密かに心を惹かれていた。
その流線型のボディは、青い海の中を、優雅に泳ぎまわるマンタを僕に思い起こさせる。だけどそれは、決して自然界にはない、計算しつくされたデザイン。
人は、どうしてこうも美しい人工物を作り出す事が出来るのだろうか。感嘆の中、思わず溜息が漏れる。
そして爪先立ちになり、室内装飾を覗き見る。クリーム色の革張りに飾られた室内には、そこが車内である事を忘れたかのように、ラグジュアリーな空間が広がっていた。
木曜休みの中には、こういう車を惜しげもなく乗りまわしている奴がいる。
水曜休みの僕では、一生かかってもこの車を手に入れる事は出来ないだろう。
別にその車が、そこまで欲しい訳じゃなかった。維持費用だって馬鹿みたいに掛かると聞く。
ただ僕はそれを、単なる車ではなく、一つの象徴の様に捉えていた。お金という名の鋳造された自由の中で、圧倒的な力の象徴として。
いいさ、どうせこういうのを乗り回す輩は、地味な容貌のコンプレックスを、分かりやすい形に昇華しているだけだ。そう思おうとした。
そう思わないと、自分の世界を保つ事が出来なかった。
踵を返し、従業員用の入口に向かうと、利理子が背の高い男と、楽しそうに会話をしている所に直面した。
僕はその光景を認めた瞬間、身を潜められるところが何処かにないかと、思わず辺りを探してしまった。その心の働きについては、今もってよく分からない。
しかし、そんな僕を見つけた彼女は、喜色を満面に張り付け、手を振ってみせた。するとその長身の男も僕に気付いた様で、嫌みのない整った顔に一瞬だけ戸惑いの色を滲ませたが、やがて爽やかな笑顔を向けて来た。
そして彼は、利理子に挨拶する様に手を上げると、僕の方――駐車場の方に向って歩いてきた。
すれ違いざま、僕たちは頭を下げた。長い手足に、大学生を思わせる童顔。肌も荒れておらず、年齢不詳な男。
「ねぇ、さっき隠れようとしたでしょ? なになに~?」
「いや、別にそういう訳じゃ」
彼女と合流し、町に向けて歩き始めると、先程の車が僕たちの横を通り過ぎた。ハッとなって目を向けると、思った通り……運転席にはあの男の横顔があった。
「Cayenne958型」僕は思わず呟いた。
「あぁ、藤田先生の車ね。へぇ、車になんて興味あったんだ?」
彼女は僕の複雑な胸中など知らないで、あっけらかんと尋ねてくる。
「あの車、数千万はするんだよ」
「ふ~~ん、そうなんだ。そういうの興味ないから分かんないや」
彼女は本当に興味がないと言った態で、応える。
それから僕は、藤田先生と彼女が呼んだ男性について色々と尋ねた。尋ねずにはいられなかった。
そして、彼が同年代で独身なことや、内科医で看護婦から人気なこと、大きな病院の次男坊だから、悠々自適にやってること等を聞き出した。
「そんな奴、本当にいるんだな」
僕は吐き捨てる様に言った。
「あの人、利理子に気があるのかな?」
すると彼女は驚愕の表情を張り付けたまま、立ち止まった。
「え? あなた……どうしたの?」
「さっき……君と、楽しそうに話してたじゃないか」
僕は振り向きながら、憮然とした表情で答えた。
「そりゃまぁ、別に知らない間柄じゃないし、会えば話すけど……ってなに? まさか妬いてるの?」
「別に……」
拗ねたように僕が言うと、彼女は朗らかに笑って僕の手を取った。
「ふ、ふふふ、あははっ、おっかしいの」
その後、上機嫌な様子でデパチカでワインを物色する利理子の後ろで、僕は物思いに沈んだ顔をしていた。藤田という男の事が、頭を離れなかった。
寂しさとも悔しさともつかない感慨が、雪の様に音もなく積もっていくのを感じる。その感慨の中で考えた。
あぁいう男こそが、利理子の隣にいるのに相応しい奴なんじゃないか……と。
その考えは、いっそ妄念と呼んで差し支えなかった。だが人間とは奇妙な物で、一旦強い考えを抱え込んでしまうと、それが何か真実そのものの様に思えてしまう事がある。
日を増す事にその妄念は強まり……やがて僕の体にびっしりこびり付いてしまうと、僕は居ても立っても居られなくなった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
そして、サービス出勤をした火曜日の午後。
「おい、僕は今、とんでもない馬鹿な事をやってるぞ」
と自分に囁かれながら、病院の診断室で藤田と呼ばれた男と向き合っていた。
「今日はどうされましたか?」
彼が爽やかにそう尋ねて来た時、僕は俳優が医者を演じているのではないかと、一瞬、本気で疑ってしまった。
また営業の癖か、事前にシュミレーションを行いはしたものの……いざ現実に臨むと立ち竦み、気を殺がれそうになる。
「あの……ちょっと恥ずかしい相談なので、看護婦の方を――」
しかし意を決してそう言うと、彼はちょっと驚いてみせたものの、看護婦に指示を出し、診断室の共用通路に下がらせた。
彼がカーテンを閉じると、事態は思った通りに運び、診断室には僕と彼だけが残される事となった。
「それで、どうされましたか?」
その問いに、僕は直ぐに言葉を返さなかった。俯き、生唾を飲み込み、決意を固め、そこでようやく顔を上げると……掠れた声で尋ねた。
「藤田先生は……利理子の事をどう思っていますか?」と。
「はぁ? リリコ……ですか?」
彼は言っている言葉の意味が分からないと、端正な顔を歪ませたが、
「覚えてませんか? ほら、僕あの時――」
「あの時? ……あぁ! はいはい、え~~”吉崎先生の”」
その段になると、彼はようやく僕の顔に思い至った様で、驚きの声を上げた。しかし彼女の名前を呼ぶ時だけは、流石に声を潜めていた。
「それで、先生は利理子の事を――」
「いや……ちょっと待ってください。いきなりどうしたんですか? 私と吉崎先生は、アナタが考えている様な――」
まさか彼も、同僚の恋人が訪ねてくる様な、色恋沙汰が始まるとは思っていなかったのだろう。品のいい顔に、困惑や焦りを滲ませながら、厄介な事が始まるぞ、と迷惑そうに眉根を寄せていた。
しかし僕が、
「大丈夫です。それは分かっています……その、僕は彼女と別れなくちゃいけないんですよ。だから聞いておきたくて」
と言うと、驚きに目を見開き、
「それはまた……どうして」
と、少し呆れ顔で、しかし相手の自尊心を傷つけない様に、配慮した声音で尋ねてきた。
「実は僕、子供が作れない体なんです。精子の関係で」
「……それは、検査されたのですか?」
共用通路の看護婦を意識してか、彼はその一言を大きく響く声で言った。
「えぇ、色んな所でしました。どうやら確定的なようです」
「なるほど……そうですか」
すると彼は口をつぐみ、何かを考える素振りを見せると、
「それで?」
と尋ねた。
「はい、だから僕は彼女と結婚する資格がないと思っているんです。今まで、何度か別れ話を持ち出したんですけど……利理子は頑なに聞き入れようとしなくて、でも僕と付き合い続けても……それって、彼女の未来を奪う事になると思うんですよ」
僕の言葉を前に、彼は真剣な面持ちで口を開いた。しかし、なんらかの躊躇いがそれを押し留めたのか、結局言葉は紡がれることなく、口はゆっくりと閉じられた。
「だから、もし藤田先生が彼女の事を、その――」
「好きですよ……率直に申し上げて」
「……え?」
彼の目を伺う様に覗き見る。そこには控え目だが、真摯な、真っ直ぐに伸びた迷いのない目があった。
「まぁ彼女を見て、一目惚れしない人はいないでしょう。僕もご多分に漏れずって奴です……それに彼女は昔に比べ、なんというか……随分変わりましたから」
「そう……ですか」
”昔”と言う言葉に、僅かなが気懸りを覚えたが――それでも僕は言ってみせた。
「……安心しました」と。
「安心?」
「えぇ……安心です」
そして御礼を言ってその場を辞し、事務所に返ると、心安い間柄の同僚を飲みに誘った。
「今日は火曜日だろ? 利理子ちゃんは――」
「いや、いいんだ。今日はとことん飲みたい気分なんだ」
病院を後にして事務所に戻る間、彼女のパソコンのアドレスにメールを送っておいた。
『今日は尾瀬と飲んできます』
返信は、事務所に戻る直前に来た。
『……何かあったの?』
僕は震えた息を、細く長く吐くと、
『明日は何もない、何もない水曜だから』
とだけ返信した。
尾瀬と差しで飲むのは久しぶりだった。一件目は居酒屋、二件目以降は尾瀬がちょくちょく通っているらしい、ガールズバーを梯子した。
途中、僕は女の子に乗せられ、久しぶりにマイクを取って歌った。たまに利理子が口ずさむあの歌。「パンク&ロックス」の、あの歌を――
入道雲の空 じんわりかく汗
照射する太陽 光線を避けて
漫画喫茶に入る クーラーが効いてる
明日は何も無い 何も無い水曜
暗がりでポッカリ 一服すると
ふるさとの通学路を 思い出したんだ
ブロック塀の隙間 栗林の臭い
明日は何も無い 何も無い水曜
ふるさとの町に 水曜の朝が来るはず
湿った風が ぬるく流れる
温暖な地域に 移り住んで来たんだ
歌いながら僕は、彼女と会う前の事を思い出していた。二十代の終わり、恋人も明日の予定もなく……歌の通りに昼間ではないけど、火曜の夜に漫画喫茶に籠った事もある。
そんな時、決まって考えた。
僕はこの町で、何をしているのだろう……と。
すると遠くの故郷が憧憬の様に、意識に浮かんだ。
小学校への通学路。ブロック塀、栗林、ドブ川。
他にも、地元の友達は元気にやっているんだろうか、とか、義理の両親の事とか、そんなことをツラツラと考えた。
そして翌日の水曜日は、誰の帰りを待つでもなく、疲れた体をベッドに横たえて惰眠をむさぼった。ただこの町で生きていく為に、その為に……。
やけにコメカミが痛いなと思うと、視界がぼやけた。
涙が目に溜まっていた。
誰にも気付かれない様に、零れない内にそっと拭う。
彼女と別れたら、きっとまたそんな日々がやって来るんだろう。そうしたら、またこの歌を歌うのかもしれない。
――彼女の事を思いながら、故郷の事を思いながら。
明日は何も無い 何も無い水曜
ふるさとの町に 水曜の朝が来るはず