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(上)


「明日は何も無い、何も無い水曜。ふるさとの町に、水曜の朝が来るはず」


 不動産業が休日となる、火曜の夕方。


 僕は同僚の鼻歌を、聞くともなく聞いていた。安っぽい蛍光灯がともる狭い事務所には、僕と彼の他、数名の営業職の人間がパソコンで作業をしている。


「なに、その歌?」


 木曜に使う書類の確認を済ませた僕は、彼にそう尋ねた。


「知らないのか? パンク&ロックスの歌だよ」

「パンク&ロックス? いや……」


 彼、尾瀬尚吾(おぜしょうご)とは、もう十ニ年もの付き合いになる。


 決して大きいとは言えない不動産会社で、入社時から残っているたった一人の同期だ。不動産会社の営業は、それ位人の出入りが激しい。


 それというのも、この業界では「高額歩合」と呼ばれるものが存在し、それが多くの夢見る若者を引きよせると同時に、離れさせる原因ともなっている。


 例えば、建売住宅の営業を取ってくれば、一棟五十万円の歩合が給料とは別に貰える。その為、中には百万近い月給を取る、腕のいい営業も存在する。


 そんな不動産業界の甘い面だけをネット等の情報で得た人間が、この業界には毎年、わんさか押し寄せる。だがそんなのは、極一部に限られた話だ。


 現実は、決して高いとはいえない給料に、厳しいノルマ。そして過当な競争。不動産業界に夢を見て飛び込んだ若い連中が、泣きながら去っていくのを何度も見た。


 出入りが激しいのも、そんな事情故だ。


 結局は、過度な期待を抱かず、地味に細く長く、粘り強くやっていく人間だけがこの業界に残る。


 僕や尾瀬の様に……こうして火曜と水曜、二日間しかない貴重な休日の一方を、文句も言わずサービス出社できる人間だけが。


「ちなみに飯田よ、この後、飲みに行こうと思うんだが、お前はやっぱ――」


 事務所を後にして、駅に向かう道すがら、尾瀬はそう尋ねてきた。


「あぁ、火曜はお互い早く帰る事に決めてるから……悪いな」

「いやいや、仲がよくていい事じゃん。それじゃ、利理子(りりこ)さんに宜しくな」


 そう言うと、僕たちはそのまま別れた。

 片や繁華街へ、片や婚約相手が待つマンションへ。



「ただいま~」


 玄関で声を上げると奥からスリッパを打つ音が聞こえ、やがて「おかえり~」という声と共に、利理子が満面の笑みで僕を迎えた。


 サラリーマンが吸う空気には、ストレスという粉塵が混じっている。それは酸素と共に体内に入り、体の至る所に散っては、言い知れない疲労となって身を重くさせる。


 だが僕は、彼女の笑顔を見た瞬間。

 内部に巣くう鉛の様な疲れが、少しだけ軽くなった気がした。


「今日の夕飯は何?」

「ん? 主食はステーキで、副菜はデパチカのサラダ。前菜は、あなたがつくったピクルスちゃん達」


 僕は彼女の言葉に笑顔で頷くと、自室で着替えを済ませ、食事の支度を手伝った。


「それじゃ、乾~杯」


 そしていつもの様に二人だけで食卓を囲み、彼女が最近ハマっている、チリ産の赤ワインで乾杯をした。


 すると食事の最中、


「ねぇねぇ、この歌知ってる?」


 と、先程尾瀬が口ずさんでいた歌を彼女が歌い始めた。


 僕は目を見開き、パンク&ロックスの歌だろ? と、答えた。すると彼女は「へぇ、あなたが知ってるなんて意外ね」と言って驚いてみせた後、


「最近、この歌流行ってるんだって。()()()()()たちが教えてくれたの」と言った。


 彼女。吉崎利理子(よしざきりりこ)は、同棲して四年になる婚約者で、近くの総合病院の呼吸器・アレルギー内科に勤めている。


 彼女とは、その病院で患者と医師として出会った。


 初めて彼女と会った時、僕はこんな綺麗な――ドラマや漫画に登場する様な典型的な女医が、現実に存在するという事に驚きを隠せなかった。


『……どうかしましたか?』

『あっ、いえ、別に……』


 だが彼女は、美しく整ってはいるものの、吊り目でキツイ顔立ちをしていた。そして口調も、サバサバしていて、ともすれば素っ気無く聞こえる。


 しかし何度か通う内、看護師の女性たちから彼女が好かれている事を感じ取った僕は、それ程悪い人ではないのだと(今考えると、かなり失礼な話だ)と思う様になっていた。


 そんな彼女はある日、


「あ、コレよかったらどうぞ。ハウスダストを極力抑える為の掃除方法が載っているので――」


 と言って、折り畳んだ紙を僕に渡した。しかし僕は、その渡された紙を特に気にするでもなく、鞄に入れっぱなしにしておいた。


 そして薬が切れ、再び病院を訪れると、彼女は酷く不機嫌な顔で僕を迎えた。


「飯田さん……前回の診察の際に渡した紙、ちゃんと見ました?」


 僕はその時、初めてその紙の存在を思い出した。

 そして謝罪の言葉と共に、その事を正直に彼女に伝えると、


「ふ……ふふふ、そうですか……あぁ、そうですか! ではもう一度渡すので、今度は必ず読んで下さい」


 彼女は紙を取り出し、何かを乱暴に書き殴った。そして帰り道、渡された紙を確認すると、そこには彼女のものと(おぼ)しき、メールアドレスと電話番号が書きつけられていた。


 僕はその晩、覚悟を決めてその番号に電話すると、プライベートで初めて言葉を交わしたというのに、「このトウヘンボク!」と物凄い勢いで、彼女に怒られた。


 そして食事の約束を取り交わし、後日イタリアン料理を食べに行ったのだが……同年代という気安さもあった為だろうか、プライベートな空気の中で話してみると、僕たちは妙に気が合った。


 また不思議な事に、彼女程の美人を相手にしているにも関わらず、僕は自然体でいられた。


「そうそう、そういえばこの間――」


 彼女もまるで、僕たちが初めて食事をする間柄だという事を忘れたかの様に、付き合いが長いカップルが話す、極些細な身の回りで起こった事等を平然と語って聞かせた。


 やがて食事を終え、最寄りの駅まで一緒に歩き、改札口で僕が彼女を見送ろうとしていると、


「ちょいちょい」


 と言いながら、彼女は僕に手招きをした。

 そして無防備に近付く僕の頬に、キスをした。


 僕が突然の事に呆気に取られていると、


「じゃ~またね~」


 酷くのんびりした声を上げて、彼女は改札に消えていった。



「……へんな女」


 思わず僕は笑った。



 だが家に辿り着き、風呂に浸かろうとする間際……洗面所の鏡を見て気付いた。営業疲れ等どこか彼方に消え去ったかのように、僕は何ともいえず、満たされた顔をしていた事に。


 それから僕たちは、何度か食事をしデートを重ね、その延長線上として同棲を始めた。彼女がそう提案したのだが、どうして彼女が僕を好きになったのかは、未だによく分からない。


 当然ながら、収入も、学歴も、家柄だって彼女の方が上だ。彼女の家は、戦後から続く医者の家系で、地元の病院は兄が引き継いでいるらしい。


 それに対して僕は、収入も学歴も人並み(今では、随分その意味が曖昧になってきているが)だし、そもそも僕には、実の両親がいなかった。


気付いた頃から僕は、地元である○○県の児童養護施設にいた。そして小学校四年の春休みに、今の父と母に引きとられた。つまりは養子だ。


 二人は公務員をしていた為、それなりに豊かだったが、子供だけには恵まれなかったようだ。僕は二人の庇護のもと、中学、高校、大学と地元で過ごした。


 だが折り悪く就職難の時期で地元で職を見つける事が出来なかった僕は、今の会社――東京の不動産会社に飛び込んだ。


 決して大手とはいえない。給料だって安い。


 そんな境遇だった為、利理子にプロポーズされた時は酷く困惑した。まず疑問が先に立ち、時間を置くよう聞き入れてもらった後は、不安が悪意ある隣人の様に毎日僕に嫌がらせをした。


『お前の様な、親の顔すら知らない人間が、家庭なんか築けるものか』

『結婚の先にあるのは、破滅だよ、破滅。お前が破滅させるんだ』


 僕はその不安を一人で抱えきれず、ある時彼女に吐露した。


 今まで僕は、どんな心の痛みも全て自分で処理してきた。義理の両親には、ポーズで悩み事を話したりもした。そうすれば、大抵二人は喜ぶから……。


 でも、それは全て自分の中で解決済みな事ばかりで……本当に悩んでいる事は、誰にも話さなかった。その傾向は、高校や大学、社会人になって付き合った恋人に対しても見られた。


 だから彼女に自然な感情の動きで、悩みを打ち明けている事に、自分自身驚いた。すると彼女は、


「大丈夫、結婚は怖くないわ」と言った。

「私が幸せにしてあげる」と、朗らかに笑いながら。


 ――その瞬間、大げさに言えば、僕は彼女に救われたんだと思う。


 そして僕たちは、婚約をした。


 だが不安と言うのは、山を這う谷風の様なもので、その時は止んだかにみえても、暫くすると酷く吹き付ける事がある。


 そこで僕は、肉体的にも僕が家庭を築いていけるのか、親となれるのか、ある検査をした。それはお(まじな)いみたいなものだった。


 小さい頃に、ちちんぷいぷいと唱えた様に、その呪文を唱えた後、「はい、あなたは大丈夫です」と言って欲しかった。


 だけど……検査を終えた僕は、奇妙な居心地の悪さと言うか、ある予感を覚えていた。そして人間というのは不思議なもので、嫌な予感は、良い予感に比べ圧倒的によく当たる。


 僕はその事実を叩きつけられた時、驚かなかった。


 むしろ、あたかもそれが愉快な事であるかのように、笑ってしまった。心の底を、冷え冷えと凍りつかせたまま。



 ――神様は、僕に子供の種を与えてくれなかった。



 その事を彼女に知らせた後、僕はこう切り出した。


「利理子……婚約を破棄しよう」


 しかし彼女は、頑なに拒んだ。


「絶対にいや」


 その後、検査が間違っているかもしれないと、何度も検査をした。検査機関を変え、何度も、何度も。だが、やはり事実は事実だった。



「利理子……別れてくれ」



 ワインのボトルを一人で空け、顔と目を真っ赤にした利理子に、僕はそう切り出した。彼女は、以前と同じように「絶対にいや」と、殆ど叫び声に近い声を上げた。


 僕はその時、嬉しい様な悲しい様な、訳の分からない気持ちで、ついカッとなって彼女を怒鳴りつけた。


「別れるんだ!」

「嫌!」


「僕は父親になれないんだぞ! まともな家庭だって築けないんだ! 別れるんだ!」


 でも彼女は、頑なに「嫌」と言った。


「あなたは、私が幸せにするの」と、

「あなたみたいな奴は、う~んと幸せにしてやらなくちゃいけないの」と。


 結局、それ以来僕たちは、婚約も解消せず、かといって結婚するでもなく、同棲生活を続けている。


 別れたいなら、僕の方から家を出て行くべきなのに……それが出来ずにいた。彼女との生活を失いたくないと願っていたのは、他でもない僕自身なのだから。


 でも心の底には、ある焦燥があった。


 ――彼女の為を考えるなら、早く別れた方がいい、と。


 しかし生活に懸る慣性の法則は、僕たちを何処でもない未来へ向けて運んで行く。


 物理の世界に慣性の法則が働く様に、また人間の生活にもそれが働くのではないか。僕はそう考えていた。


 例えば今の僕と彼女の生活を鑑みると、それが良く分かる。動き出した運動は、簡単には止まらない。そこには何らかの抵抗が必要となる。


 またその運動は、ただひたすら前を向いて行われる。例えその終点に、誤謬があったとしても、誤謬なら誤謬の方角へ向けて、真っ直ぐに進む。


 そこに僕は人の生活が持つ、危うさを見ていた。



「……っねぇ! ねぇってば」

「ん? お、な、なに?」


 気付けば、長い間、思考の海に潜っていたらしい。僕は取り繕うように、急いで愛想笑いを浮かべた。


「どうしたの? 何か会社で嫌な事あった? あなた、こう! 凄い形相を浮かべてたわよ」


 すると彼女は僕の真似なのか、眉根を寄せ、思わず口に含んだワインを吹いてしまいそうな、酷い顔を作って見せた。


「いや、大丈夫……っていうか、いくらなんでも、そんな顔してないでしょ?」

「そんなことないわよ。いい? こ~んな感じで、そりゃもう酷い顔をね――」


 彼女は……僕と付き合い始めてから、険が取れた。


 そして僕は、そんな彼女の無邪気さに救われながら、彼女の無邪気さを惜しんでもいた。それは本来、僕に向けられるべきものではない。


 でも僕は、彼女との関係を手放す事が出来ずにいる……。



 様々な思いを乗せ――。

 火曜の夜は、惜しげもなく過ぎて行った。




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