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孰々草  作者: 喜悦楽壊
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公園

ある日、学校帰りに公園に寄った。

昔はよく友達と来て遊んだ馴染みの公園。

しかし、時の流れは残酷である。

遊んでいた遊具は撤去され、安全性重視の面白みのまるで無いもの、遊具とはとても呼びたくないものが設置されていた。

ただ、ブランコだけは昔のままあった。

懐かしく思い久々に漕いでみたが驚いた。

あれほど高く高く漕いでいたブランコに怖さを覚える自分がいた。

昔の半分もいかないブランコに悲しみが湧き上がってきた。立ち漕ぎなんてしてみたものだが、今は足が竦む。

大人になるとは恐怖を知ることなのか、それとも自分が恐怖に過剰に反応するようになってしまったのか。

遊具が減り、寂しげな公園に寂しげな自分がいる。


話は唐突に変わるが、最近の公園は安全性を重視し過ぎているように思える。

昔はよく転んで泣いて、家に帰り消毒液が染みてまた泣いて、キャラクターの絆創膏に喜んだ。そしてまた転ぶ。

怪我をすると人は覚えるものだ、何で怪我をしたか・どうすれば怪我をしないか、子供ながらに考えた。

今の公園は箱庭のようだ。

安全性に包まれ、怪我を知らない。

しかし安全が過ぎるとつまらない。

公園は怪我をする場所だと私は思っている。

よく遊び、よく怪我をし、よく考える。

石に躓けばそこに石があると分かり、今度は石に気をつける。

高い所から飛び降りようとして怪我をすれば、怖く危ないことだと分かり、もう一回やるかもしれないが大抵やらなくなる。

怪我とは学習の証なのだ。


点検を怠り起きた事故はその市町村の責任だ。

だが、危ないと知りながら役所に伝えないのは市町村民の責任だ。

危ないなら危ないで使わない。遊具を使わない遊びをすればいい。

ただ、大人が考えてはいけない。子供達に考えさせる。自分達で遊びを創造させる。

大人は子供から目を離さない、近くにいる。

スマホ片手に見るほど、子供の命は軽いものではない。


公園は変化するものではない。してはならない。安全性重視のあまり、子供の姿がない公園は私は悲しく寂しく虚しくて嫌いだ。

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