◆幸福の園
文具専門店〝ねむの木〟は、もう閉店していた。
「遅かったか」
おおきな木製の扉のまえで、奏ちゃんは考え深げに腕を組んで休めのポーズをした。
流れるような仕草。奏ちゃんは、どうしていちいちこんなに綺麗なんだろう。
わたしはなぜか、せつなかった。
「はなちゃんがおれの胸に飛びこんでくるのが遅かったせいだ」
せっかく冷めかけていた体の熱が、またぶりかえした。
奏ちゃんがふりかえって、意地悪そうに笑った。
「どきどきした?」
わたしはおもわず、奏ちゃんに鞄を投げた。
「痛っ」
痛いはずない。中身はほとんど入ってないのだから。
「からかってるの?」
恥ずかしかった。
「ちょっと、はなちゃん」
地面に落ちた鞄を拾って、奏ちゃんがわたしに歩みよる。
わたしは後ずさった。奏ちゃんは意地悪だ。
「わたしをからかって楽しいの?」
さらさらと川の流れる音がする。青く染まった町を、ほのかな残照がやわらかにつつみこむ。
夕暮れどきでよかったと思う。
わたしは泣いてしまいそうだった。なぜかとても泣きたかった。あんなにどきどきした自分が馬鹿みたいだと思った。
どうして茶化すの?
どうして抱きしめたの?
本気じゃなかったの?
「からかってなんかないよ」
奏ちゃんが、まじめな顔をして否定した。
いまさら遅い。遅いよ。
「信じられない」
うかんでくる涙をこぼさないように、じっとくちびるを噛んだ。
「はなちゃんを泣かせて得することなんて、ひとつもないよ」
「信じられない」
口をひらくと涙がこぼれた。
奏ちゃんが一歩を踏みだした。わたしも一歩しりぞいた。
「わたしに触らないで」
奏ちゃんが目をみはった。硝子のような瞳がちいさく揺れた。
――傷つけた、と思った。
うつむいて、地面をみつめた。ぽたぽたと涙が落ちた。
「どうしたら信じてくれる?」
「なにもしないで」
「なにかしたいよ」
「だったら」
「うん」
「雪を降らせて」
「いま?」
「そう。いま雪を降らせて」
「はなちゃん、無茶だよ」
「できないなら、もうなにもしないで」
わたしは逃げるようにきびすを返して走った。
初めての拒絶だった。奏ちゃんは、追いかけてはこなかった。
川沿いに走っていくと、林のようなおおきな公園にたどり着く。
生い茂る樹木のあいだをぬけると、とつぜんぽっかりと目のまえがひらけた。一面が緑色のこの場所が、わたしはすきだった。ここは五つ葉のクローバーがひしめく〝幸福の園〟だから。
緑のなかに立つと、すこしだけ気がなごんだ。
広場のまんなかで、薄暮の空をあおぐ。樹木のむこうにそびえる観覧車の真上で、金星がひかっていた。
胸が痛んだ。
奏ちゃんを傷つけてしまったことで、わたしもまた、傷ついていた。
鞄も持たずに逃げてきてしまった。きっと奏ちゃんは困っている。だけどいまさら、のこのこ戻るなんてできない。
わたしは濡れた頬をぬぐった。
帰ろう。
帰ってすこし眠ろう。
玄関の扉をあけると、階段のしたで電話が鳴っていた。リビングからぱたぱたとお母さんが出てきた。
「あら、はなちゃん、お帰りなさい」
わたしをみてふんわりと微笑む。
わたしはすばやく靴を脱いで家にあがると、受話器にのびたお母さんの手を止めた。
「わたしが出るから」
電話のむこうは、しん、と静かだった。
「もしもし?」
『…………』
またあの女だ。
わたしは腹立ちまぎれに、乱暴に受話器を置いた。心配そうにお母さんがみていた。
「はなちゃん」
「まちがい電話」
わたしはあかるく言って、階段に足をかけた。
「はなちゃん」
背中越しにふりむくと、お母さんがやさしく微笑んでいた。
「ありがとう」
「うん」
わたしは微笑みを返した。
「すこし眠るから」
そのまま部屋にとじこもった。
お父さんに会わなくなって、もうずいぶん経つ。
単身赴任でひとり県外に暮らすお父さんは、いまではもう、連絡もよこさなければ、週末に帰ってくることもない。わたしはすでに、お父さんの顔も、声も、思いだせなくなっていた。
無言電話は、破綻して冷たくなったこの家をいっそう冷たくした。
彼女はわたしたちが邪魔なのだ。きっと、わたしたちがいなくなればいいと思っている。
どうしてお母さんは、お父さんを責めないのか。
わたしには理解ができなかった。
お母さんは、傷ついていないのだろうか。こんなお父さんを、まだ、愛しているのだろうか。
遠くのほうで、玄関のチャイムが鳴った気がした。
まどろみのなかで、淡い夢をみた。〝幸福の園〟で奏ちゃんが、わたしの髪にクローバーを挿してくれるのだ。
「はなちゃん」
お母さんが部屋の扉をノックした。
わたしはもうすこし、夢をみていたかった。
「はなちゃん」
幸せなまどろみから、目がさめてしまった。お母さんが、わたしをのぞきこんでいた。
「奏ちゃんがね、鞄をもってきてくれたわよ」
ここに置いておくわね、と言って、お母さんはわたしの髪をなでた。
「はなちゃん、なにがあったか知らないけど、あんまり男の子をいじめちゃだめよ」
お母さんはなにも知らない。意地悪なのは、奏ちゃんのほうなのに。
お母さんは、わたしの心の声を見透かしたように、やさしく目を細めた。
「男の子のほうが、案外、繊細だったりするものよ」
お母さんはいい匂いがする。
部屋をでていくお母さんのほっそりとした背中に、わたしはきいた。
「お母さんは、どうしてお父さんと結婚したの?」
お母さんはふりむくと、「変なことをきかないでちょうだいよ」と笑った。
「愛しているからに決まっているでしょう?」
閉じられた扉を、わたしはじっとみつめた。
愛している。
その言葉の重みが、わたしにはまだよくわからない。
だけどせつなかった。お母さんはまだ、お父さんを愛している。
それがひどく、せつなかった。
わたしもいつか、だれかをせつなく愛するときがくるの?
……わからない。
わたしにはできない。だれをも責めずに、だれをも憎まずに、ただ愛することなんて。
窓から月のひかりが射しこんでいた。
暗闇を、そっと照らすひかり。
わたしは冷たい床に座りこみ、鞄を膝に乗せた。
奏ちゃんが触れた鞄。わたしはゆっくりと、それを指でなぞった。どんな気持ちで、届けてくれたのだろう。
「奏ちゃん、ごめんなさい」
声にならない声で呟くと、わたしは鞄をぎゅっと抱きしめた。瞬間、ほのかな草の香りが鼻腔をかすめた。
やさしい癒しの香りが、わたしをつつみこむようにしてひろがる。
震える手で鞄をあけた。
なかから大量にあふれだしたそれは、わたしの冷たい部屋を一瞬で〝幸福の園〟にした。
五つ葉のクローバー……
窓から月のひかりが射しこんでいる。
暗闇を、そっと照らすひかり。
どうして?
こんなにたくさん、どうして?
ひとりで摘んでくれたの?
夜のなかで、明かりもない広場で、ひとりきりで、摘んでくれたの?
大変だったでしょう?
時間がかかったでしょう?
どんな思いで鞄に詰めたの?
どんな思いで届けてくれたの?
言ったのに。
なにもしないでと言ったのに。
はやる気持ちで窓をあけた。隣の庭に、見慣れた人影をみつけて涙がこぼれた。
「奏ちゃん!」
家の扉をひらきかけていた奏ちゃんが、弾かれたようにわたしをみあげた。
言葉はない。
静かな時間が流れた。
奏ちゃんが沈黙に弱いことを、わたしは知っている。いつもなら、先に口火を切るのは奏ちゃんのほう。
だけど奏ちゃんは、いつもと違った。黙ったままで、わたしをみている。
「ごめんね」
沈黙に弱いのは、わたしのほうだった。
「奏ちゃん、ごめんね」
「はなちゃん、『ごめんね』じゃないだろ」
さやかな月のひかりのなか、奏ちゃんはいたずらっぽい声音で言った。
「こんなときは、『ありがとう』って言うんじゃないの?」
あとからあとから涙があふれて、わたしはしゃくりあげた。
「奏ちゃん、ありがとう」
「ばか、泣くな」
奏ちゃんが笑った。
「信じてくれる?」
「うん」
「すきだよ」
「うん」
「ほんとにすきだよ」
「うん」
「あしたデートしようか」
「うん。えっ……?」
「聞き返すな、ばか」
奏ちゃんはやさしく言って、また沈黙した。
沈黙に耐えられなくなったのは、またしてもわたしのほうだった。
「ばかばか言わないで」
「ごめん」
なにがおかしいのか、奏ちゃんが笑うから、つられてわたしも笑った。
「はなちゃん、あしたデートしよう」
「うん」
「……すきだよ、ほんとに」
「……うん」
暗闇を照らす、やさしい月のひかり。
奏ちゃんは、月のような男の子だ。
やさしくて、欠けたり満ちたりいそがしい、月のような男の子……