◆ブルー・モーメント
奏ちゃんが、セピア色の財布の中身を探りながら言った。
「おれ二千円。はなちゃんは?」
「百円」
わたしは花もようの黄色い財布、金のがま口をぱちん、と閉じた。
黄色い財布は金運アップにいいそうだけど。花もようが邪魔しているのかな?
奏ちゃんはすこしのあいだ沈黙すると、
「風水があてにならないことはよくわかった」
と失礼なことを言った。
「おこづかい貯金してるもん」
「ああ、あのピンクのブタ貯金箱ね」
ふっ、と微笑んで遠い目をする。
「いま馬鹿にしたでしょう」
「してないしてない。えらいな、はなちゃん」
「棒読みで褒められてもちっともうれしくない」
「まあまあ、はなちゃん。二千百円あればじゅうぶん適当な画材を買えるよ」
朱く染まった渡り廊下を歩きながらわたしたちは、だめにした宮内先生お手製ポスターの責任をとるべく相談していた。
「宮内先生、がんばって描いたんだろうね。なのにぐちゃぐちゃにされちゃって、般若になるのも無理ないよね」
「むしろそれでよかったんじゃないの。化け物みたいな植物だったじゃないか、あのイラスト」
否定できない。
「奏ちゃんが描きなおすしかないね」
「え? おれが描くの?」
「ほかにだれがいるの?」
「はなちゃん」
「わたし絵へただもん」
「はなちゃん。へたうま、って言葉を知らないのかな?」
「へた馬?」
「へただけど味がある絵のことだよ」
「ふうん」
そう言われると、まんざらでもない気分になってくる。
「じゃあ奏ちゃん、一緒に」
「頑張れ、はなちゃん」
「え、わたし?」
奏ちゃんはポケットに両手をつっこんでふてくされた。
「やだよおれ。部員募集なんかこれっぽっちも興味ないし」
「ひどいよ奏ちゃん、そんなこと言わないで一緒にやろうよ」
「めんどくさいな」
いつになく、奏ちゃんは駄々をこねていた。こんな子どもみたいな奏ちゃんもめずらしい。
「破ったのは奏ちゃんだよ? 宮内先生がかわいそうだよ」
奏ちゃんは、一瞬むっとしてわたしをみた。
「はなちゃん、宮内先生のどこがいいのさ?」
「大人なところ」
自然に笑顔になってわたしが言うと、奏ちゃんは憎々しげに顔をゆがめた。
「あんな般若のどこが大人なんだか」
「あれはしかたないよ、誰だって怒るよ」
ふん、と奏ちゃんは眉間にしわを寄せた。
「だからってゴミまで投げなくてもいいだろ」
わたしはすこし驚いてまばたきした。
「奏ちゃんって、そんなに根に持つ人だった?」
「おれ嫌いだもん、あの人」
「でも素直にごめんなさいしたよね」
「まあ一応? 破ったのは悪かったし」
「えらかったね、奏ちゃん」
奏ちゃんは、ちら、とわたしを横目でみた。
「だけど、そもそもあんなところに無造作に放置してるほうが悪いだろ」
わたしはおかしくなって笑ってしまった。
「奏ちゃん、反抗期の子どもみたいだよ」
わたしの上から目線が気にいらなかったのか、奏ちゃんは口をつぐんで横をむいた。
ほんのりと頬が紅いのは、夕陽のせい?
それとも?
「もうこの話はしない」
奏ちゃんは、なにを思ったか潔くきっぱり言い切ると、
「描くよ、おれが」
とつぜん頼もしい人になった。
「ほら、はなちゃん急いで。〝ねむの木〟は午後七時までだよ」
〝ねむの木〟は、橋むこうにある文具専門店だ。わたしは慌てて奏ちゃんの後につづいた。
「ねえ、どしたの? 急にやる気になっちゃって」
奏ちゃんはそれには答えず、弾むように階段を降りていく。
「奏ちゃん、速いよ、待ってよう」
奏ちゃんは軽やかに踊り場に飛びおりると、くるん、とふりかえって両手をひろげた。
「はなちゃん、おれの胸に飛びこんでこい」
ふわり、と不敵に笑う。
「はあ?」
もうついていけない。
「奏ちゃん、ひとりで盛りあがってどうしちゃったの。わたし置いてきぼりだよ」
ぼやきながら階段を降りるわたしを、奏ちゃんが制した。
「いいからはなちゃん。黙っておれの胸に飛びこんで」
「……ほんとにどうしちゃったの?」
わたしは困惑して立ちつくしてしまった。
踊り場で腕をひろげて、奏ちゃんが待ちかまえている。
ほかの女の子たちがみたら何て言うだろう。追いかけなくても、王子さまのほうから腕をひろげて待ってくれているなんて。
「奏ちゃん、ほかの女の子たちに悪いよ」
「いまそんなこと関係ないだろ」
有無を言わさない強い口調に驚いて、わたしは息をのんだ。
階段を三段へだてた場所で、奏ちゃんがわたしをみつめている。
くちびるは微笑んでいるのに、透きとおった黒い瞳は真剣だった。力づよい視線が、わたしの目を捕らえて離してくれない。
遠い距離ではないのに、なぜか遠く感じた。
奏ちゃんがいつもと違う。こわいぐらいにいつもと違う。
空気が青かった。
いつのまにか夕陽が沈んで、周囲は青く染まっていた。
ブルー・モーメント。
踊り場はいま、海のなかのように青く静まりかえっている。
なぜか足が震えた。冴えざえとひかる奏ちゃんの瞳から目をそらせないまま、わたしはやっとのことで口をひらいた。
「奏ちゃん、わたし……」
声がかすれた。
「足がうごかない……」
一瞬、奏ちゃんが目を細めた。
わたしの足の震えをみとめて、初めて瞳に微笑を刷いた。ぞくっとするようなうつくしい、色っぽい笑みだった。
どうして?
こんな状況なのに見惚れてしまう。
「わたし、わたし、どうしたらいいの……」
混乱して涙声になる。
奏ちゃんは微笑をうかべたまま音も立てずに近づくと、両腕ですくうようにわたしを抱いた。
――時がとまった気がした。
「はなちゃん」
耳のそばにくちびるを寄せて、奏ちゃんが囁いてくる。
「おれ男になるよ」
こんなに近くで声を聴いたのは初めて。
低い、けれど低すぎない、よく通る澄んだ声。
速い鼓動がきこえる。
奏ちゃんの心臓の音なのか、自分のものなのかわからない。
「ちょっとやそっとじゃ動じないくらいの」
ほのかに汗の匂いがした。シャンプーの香りと混ざった、奏ちゃんの不思議な匂い。
目のまえが奏ちゃんでいっぱい。
わたしの視界。奏ちゃん以外になにもみえない。
こんなに背が高かった?
いつから?
いつのまにわたしを追い越したの?
うまく息ができない。
奏ちゃんじゃない。こんな奏ちゃんをわたしは知らない。
混乱と、翻弄。
吐息。
「はなちゃん」
耳がくすぐったくて恥ずかしい。
顔をみないでほしい。お願いだからみないで。
「おれ、宮内先生なんかよりちゃんとした大人の男になる」
誇りやかな宣言に胸が震えた。
「だから」
抱きしめる熱い腕に、いっそう力がこもった。
「おれを好きになれ」
甘やかなめまいに襲われて、わたしはあえぐように息をした。