◆天然小悪魔
「奏ちゃん、理科室に行ってみようよ」
「なんで?」
「宮内先生がいるかもしれないから」
「いないだろ」
「そんなあ」
水やりを終えたころには、パイナップル色だった太陽がすっかりみかん色に変わっていた。
「ミックスジュースが飲みたいなあ」
ホースを片づけながら、奏ちゃんが呟いた。
「わたし、いちご牛乳が飲みたい」
「はなちゃんっていつもそれだよね。それにしても暑いな……」
暑い暑いと言うわりに、奏ちゃんのうしろ姿はすらりとしていて涼しげにみえる。
「ねえねえ、奏ちゃん」
「いやだ」
「まだなにも言ってないんだけど」
「いやな予感がするんだけど」
「……」
わたしが沈黙すると、奏ちゃんも黙った。
裏山のほうから、甲高い鳥の鳴き声がした。さきに沈黙に耐えられなくなったほうが負けだ。
わたしがなおも黙っていると、さきに耐えられなくなった奏ちゃんが「わかった、わかったよ」と降参した。
「買ってくればいいんだろ、いちご牛乳」
整った顔をいやそうに歪めてふりかえった。
夏休みの校舎は静かで、足音さえもよく響く。鉄筋の建物はすこしひんやりとして、まるで眠っているようだった。
理科室の扉をあけると、もわっと蒸れた空気につつまれた。
手のなかのいちご牛乳パックが汗をかいている。わたしはストローをくわえて、うす暗い理科室を見渡した。
「誰もいないね……」
がっかりして肩を落とすと、
「だから言ったのに」
ほらみろ、とわたしを横目でみて、奏ちゃんもいちご牛乳のストローに口をつけた。
ずずず、と飲み干して、「甘すぎる……」とぼやく。この学校の自動販売機には、奏ちゃんが好きなミックスジュースは置いていないのだ。
「奏ちゃん、でも鍵があいてるってことは誰かが来てるってことだよ」
わたしは不気味な人体模型のまえを通り過ぎ、理科準備室の扉をノックした。
「もしもし?」
「はなちゃん、電話じゃないんだから」
「もしもし、宮内先生?」
「聞いてる? おれの話」
聞いてません。
わたしは扉のまえで、どきどきして待った。けれどやっぱり返事はない。
「あけてみたら?」
「いいのかな?」
「いいんじゃないの? ひとり暮らしの男の部屋に勝手にあがりこむっていうなら別だけど」
「やだあ、いやらしい」
「いやらしいって……」
不服そうな奏ちゃんにはかまわず、そっと扉をあけた。隙間からのぞいてみると、そこはまるで樹海だった。
「なに、この部屋……」
奏ちゃんが呆然と呟く。
「きったないなあ……」
嫌悪しておきながら、床に散乱する書籍や文房具をかきわけてずかずかと部屋に踏みこんでいく。
ちら、と机のうえをみて、
「へえ、宮内先生って収集癖あるんだ」
紫水晶、柘榴石、黒曜石、猫目石、蛍石、月光石、砂漠の薔薇……机のうえはカラフルな鉱石展示場だった。
壁沿いには、いろいろな分厚い図鑑が積み上げられて、うっすらと埃をかぶっている。窓から射しこむ日光のせいか、表紙が灼けて変色していた。
「ほんとにきたない部屋だなあ。こういうところに宮内先生のいい加減さがよくあらわれてるよ」
「ねえ奏ちゃん、やっぱり勝手に入らないほうがいいんじゃ……」
「お。これは」
聞いてない。
「はなちゃんのすきそうな事典があるよ」
「えっ、なあに?」
興味をしめしたわたしに、奏ちゃんは足もとにあった一冊の本を取りあげてみせた。
「花言葉。すきだろ、こういうの」
「うん、すき!」
奏ちゃんはくすりと笑った。
「おいでよ」
手招きされるままに侵入してしまった。入ったとたんに、酸素がうすいと感じる。
「灼熱だね、この部屋」
「西日だからね」
夏場に西向きの窓はきびしい。沈みゆく太陽のひかりが窓硝子いっぱいに、溶けだすように激しく輝いている。
わたしは奏ちゃんからうけとった本を胸に抱くと、噴きだす汗を右手の甲でぬぐった。それでも、あとからあとから汗がにじんだ。
奏ちゃんは、机のうえの鉱石をひとつひとつ熱心に観察していた。
髪が汗で湿っているのか、漆のように艶めいてみえる。首すじにうかんだ汗の玉が、まぶしい西日をうけて透きとおるようにきらめいていた。
凜とした横顔が綺麗だと思う。
奏ちゃんは男の子だけど、ときどき綺麗だ。目のまえの鉱石よりも。
奏ちゃんが指先で、ひたいに張りついた前髪を払う。秀でたひたいが露になると、いつもより大人びてみえる。
綺麗なその横顔をじっとみていたら、わたしの視線に気づいて怪訝そうな顔をした。
「どうかした?」
「奏ちゃんがもてるの、わかる気がすると思って」
素直に言うと、奏ちゃんは苦笑した。
「気がするってなに」
そしてふと、神妙な顔つきをした。
「どうかした?」
今度はわたしがたずねる番だった。
奏ちゃんはまじまじとわたしの顔をみて言った。
「はなちゃん、おれより汗かいてない?」
わたしは濡れたひたいに手の甲を押しあてて、うん、とうなずいた。
「この部屋すごく暑いんだもの」
奏ちゃんは慌てたようにわたしの手をとった。
「出よう、熱中症になる」
「奏ちゃん、そんなに慌てなくても」
と言いかけたところで、奏ちゃんが派手に転んだ。驚いてわたしも事典を落っことした。
「奏ちゃん、大丈夫!?」
「痛……!」
慌てるあまり、紙を踏んで滑ったらしい。とっさに手をはなしてくれたので、つられて転ばずにすんだ。
「なんなんだ、もうっ!」
お尻をさすりながら、紙を拾いあげた。
上履きの跡がついている。
「奏ちゃん、破れてるよ……?」
「やってしまったか……」
破れた紙には、得体の知れない謎の植物のイラストと、はじけたキャッチコピーが描かれていた。
『集え! 理科少年少女よ!』
すこしの沈黙ののち、奏ちゃんは言った。
「なにこれ……」
奏ちゃんは思いきりひいていた。
「もしかして、理科倶楽部の部員募集ポスターじゃない?」
「いまさら部員増やされてもなあ」
奏ちゃんはめんどくさそうに紙を放った。
「どうして? わたしと奏ちゃんしか部員がいないなんて寂しいじゃない」
「おれ、はなちゃんだけいてくれれば満足だし」
「え?」
奏ちゃんは立ちあがると、両手でお尻をパタパタとはたいた。
――奏ちゃん、いまの、なに?
「だいたい何なの、あの気持ち悪いイラスト」
わたしの戸惑いをよそに、奏ちゃんはぶつぶつ言いながら部屋を出ていく。
「センスがないにもほどがあるよ。ただでさえ地味な倶楽部なのにあんなポスターじゃ」
「奏ちゃん」
「ん?」
ふりむいた奏ちゃんの目をじっとみつめた。
「どした?」
奏ちゃんはキョトンとした顔でみつめかえしてくる。
深い意味はなかったのかな?
「奏ちゃんは、女心を、もてあそぶ」
わたしは恨めしく言った。
「はなちゃん、大丈夫? 川柳を披露したいの?」
一瞬でも意識してしまった自分が悔しかった。
「もてるきみ、調子に乗っては、いけないよ」
「つまらないこと言ってないで早くおいで。一句詠みたいなら帰りながら聞いてあげるから」
子どものころから一緒にいるのに、いまごろになって初めて疑惑を抱いた。奏ちゃんは、『天然小悪魔』ってやつなのかもしれない。
「奏ちゃんの、ほんとの姿が、わからない」
「わからない? こんなに一緒に、いるのにな」
理科室の扉をあけると、ちょうど宮内先生に出くわした。うっかりぶつかりかけて、おたがいに驚く。
「なんだおまえら、こんなところで」
ほんのりと、コーヒーと煙草の匂いがした。
「ほら奏ちゃん、宮内先生、いたでしょう?」
「なんだ草野、川柳倶楽部とかけもちか?」
「べつにおれ、会いたくなかった、このひとに」
「池田……」
あいかわらず可愛くないねえおまえは、と宮内先生は豪快に笑った。
「男に可愛いも可愛くないも無いと思いますけどね」
「俺からみりゃ、おまえなんかまだまだ『男の子』だっての」
むっとする奏ちゃんの頭に、ぽん、とてのひらを置いた。面倒見のいい兄と、生意気な弟のようだ。
奏ちゃんが疎ましそうに手をはらうと、宮内先生は声をあげて笑いながら人体模型のまえを通り過ぎた。
「おまえらなにか俺に用があったんじゃないのか?」
ふりむいてそう言いながら、理科準備室の扉をあける。部屋に入りばな、「ん?」と体の動きが止まった。
「おまえら、荒らしに来たのか?」
宮内先生はわたしたちをみて苦笑した。
「最初から荒れてる部屋じゃないですか」
奏ちゃんが呆れたように言った。
「あんなに荒れてたら、どこになにがあるのかわかりませんよ」
「俺にはわかるぞ」
とうそぶいて、宮内先生は部屋に入った。とたん、なかから悲鳴にも似た奇声がした。
「おまえら、俺がせっかく描いたポスターに何やってくれたんだ!」
奏ちゃんが、しれっと白状した。
「ちょっと踏んじゃって」
「破れてるじゃねえか!」
「ちょっと勢いあまったみたいで」
「なにが『ちょっと』だ! おまえらそこに正座!」
宮内先生が、部屋のなかから般若みたいな顔をだした。
こわい……。
「おまえら、ゴミまでここに置きっぱなしじゃねえか! 理科準備室はゴミ捨て場じゃねえぞ! 持って帰れ!」
いちご牛乳の空パックが飛んできた。
わすれてた……。
わたしと奏ちゃんは、ひきつった笑顔で目くばせした。こんなところで正座なんてまっぴらごめんだ。
ごめんなさい、とわたしたちは宮内先生に両手をあわせた。
宮内先生は般若の顔のままで腕を組むと、
「責任、とれよ」
ふんっ、と鼻をならしてそっぽを向いた。